明智光秀ゆかりの地へ(その3) 光秀が愛した坂本へ

坂本城の城門を移築した西教寺の山門 (以下の写真もすべて著者撮影)

 明智光秀が坂本に城を築城したのが、元亀2(1571)年の比叡山焼き討ち直後であったとされる。琵琶湖に接する水城で、天守も備えた最新鋭の城であり、主君信長も安土城を造る際に大いに参考にしたという。

 そんな光秀が愛した坂本の街歩きはJR湖西線の比叡山坂本駅からスタート。江若バスにてまずは西教寺へ。

西教寺参道
西教寺参道

 歴史は平安中期に天台宗系の寺院があったと推察され、室町時代の文明18(1486)年に中興の祖とされる真盛上人が入寺してから歴史に名を刻んだ。天台宗の真盛派という流派を打ち立てて隆盛したものの、織田信長の焼き討ちに遭い、直後に明智光秀の尽力で復興し、現在に至る。

 光秀は西教寺の再建に尽くしたこともあり、一族の墓が本堂の前に建ち、光秀より先立った愛妻煕子も隅にひっそりと眠る。近くにはこの地を訪れた松尾芭蕉

- 月さびよ 明智が妻の 話せむ ー

と詠んだ句碑も残る。

明智一族の墓
明智一族の墓

 本堂は江戸中期の再建で、堂内には比叡山の僧兵に襲撃された時も鉦を鳴らし続けたという伝説の「手白の猿」が祀られており、欄間にも十六羅漢の見事な彫刻が見られる。客殿は伏見城の遺構とされ、狩野派による襖絵を見ることができ、小堀遠州の庭園や、奥の建物には光秀の手紙などの寺宝も展示されている。

 また参道沿いにある禅明坊はびわ湖大津光秀大博覧会のメイン会場として、大河ドラマの衣装や、登場人物からのメッセージ、映像による解説、坂本の歴史や光秀とのかかわりの資料を展示ており、関連グッズも充実している。その後は山辺の道を通って、日吉大社へ。

山辺の道より琵琶湖を眺める
山辺の道より琵琶湖を眺める

 日吉大社は比叡山の麓に位置し、およそ2100年前、崇神天皇7年に創祀された、全国3800余の日吉・日枝・山王神社の総本宮。平安京遷都の際には、この地が都の表鬼門(北東)にあたることから、都の魔除・災難除を祈る社として、また伝教大師が比叡山に延暦寺を開いてからは、天台宗の護法神として多くの崇敬を受け、織田信長の焼き討ちなどの苦難に遭いながらも、秀吉、家康の支援を受けて復興を遂げ、貴重な建造物とともに今日に至っている。境内には3000本のもみじがあって、関西屈指の紅葉名所として知られ、見頃は毎年11月10日頃〜12月上旬となっている。

 建物としては西本宮本殿(国宝)には大己貴神が祀られ、東本宮本殿(国宝)には大山咋神が祀られ、どちらも秀吉の時代に再建されたものが現存している。秀吉は幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であったことから、とくに厚く信仰したという説も。

日吉大社の山王鳥居
日吉大社の山王鳥居

 滋賀院門跡は、元和元(1615)年に、江戸幕府に仕え「黒衣の宰相」とも称された天台宗の僧天海が、後陽成天皇から京都法勝寺を下賜されて建立した寺である。滋賀院御殿と呼ばれた長大な建物は、明治11(1878)年に火災により焼失し、比叡山無動寺谷法曼院の建物3棟が移されて再建された。小堀遠州の残した鶴亀の庭園が見事。

滋賀院門跡の庭園
滋賀院門跡の庭園

 この滋賀院門跡の周辺の石垣は穴太衆が手掛けた見事な石垣で、現在坂本の景観美として街のシンボルとなっている。300ほどあった穴太衆の伝統を継ぐ家も、現在は一社のみが伝統を継いでいるということで、さびしい感じもするが、一度積み上げるとほとんどメンテナンスがいらない強固なものであるため、新規の依頼を海外にも見出しているそう。

穴太衆の石垣
穴太衆の石垣

 もし、もう少し時間があれば、JR比叡山坂本から琵琶湖方面へ。1キロほど歩くと聖衆来迎寺へ到着する。天台宗のこの寺院は、山門がやはり坂本城から移築されたもので、比叡山焼き討ちをまぬがれたことから多くの寺宝を有することでも知られている。

 焼き討ちをまぬがれた理由としては、境内に織田信長の有力武将で信頼が厚く、「志賀の陣」で戦死を遂げた森可成の墓があるからだとされる。ちなみに、この森可成の子供があの有名な森蘭丸である。

聖衆来迎寺の山門
聖衆来迎寺の山門
織田家の戦国武将として活躍した森可成の墓
織田家の戦国武将として活躍した森可成の墓

 この辺りはほぼ湖面に近いエリアであり、南へ向かうと、坂本城址公園なども近年整備されている。大河ドラマ期間中にぜひ訪れてみたい。

坂本城址公園に立つ光秀像
坂本城址公園に立つ光秀像