織田信長ゆかりの地を歩く

織田信長木像(総見院の立て看板より) 以下本文の写真も全て著者撮影

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で間もなく登場する織田信長。信長は主人公である明智光秀を見出し、最後に本能寺にて襲撃されて非業の死を遂げます。そんな信長ゆかりのスポットを「京の冬の旅」で特別公開中の大徳寺の総見院へ向かう道すがらご紹介します。

まずは地下鉄鞍馬口駅から西へ徒歩7分で織田家の定宿であった妙覚寺へ。本能寺の変の当日は、織田家の家督を継いでいた織田信忠が宿泊しており、信忠も隣の二条新御所に移って光秀と戦い、やはり自刃しています。

妙覚寺の入口である大門
妙覚寺の入口である大門

当時は現在の場所ではなく3キロ弱南にあったのですが、秀吉の命によって移転してきました。大門は寺伝によれば聚楽第の遺構とされており、春には枝垂れ桜とのコントラストが見事です。

続いて西に南北に延びる小川通を越えると大きな公園があり、その北側に大應寺があります。このあたりは信長にも仕えた武将である古田織部が屋敷を構えた場所とされ、寺院内には織部が勧請したとされる織部稲荷が建っています。

古田織部が創建した織部稲荷神社
古田織部が創建した織部稲荷神社

さらに5分ほど西へ歩くと、まるで隠れるようにひっそりとたたずむ櫟谷(いちいだに)七野神社へ。

櫟谷七野神社 本殿下より
櫟谷七野神社 本殿下より

こちらはかつて賀茂社(上賀茂神社、下鴨神社)に奉仕した斎王が住んだ斎院跡でもあり、織田信長も再建に尽力しましたが、再建した場所を気に入って、神社を押しのけてそこに自分の屋敷を造営したという逸話もあるとか。本能寺の変は神罰が当たったわけではないでしょうが、秀吉はこれを知ってか、この神社の再建に乗り出し、聚楽第で使っていた石垣を持ち込んだとも。確かに石を寄進した大名が刻んだとされる刻印石をいくつか見ることができます。

斎院跡を示す石碑
斎院跡を示す石碑
大名が刻んだという刻印石
大名が刻んだという刻印石

ご利益はずばり「縁戻し」。全国的にもほとんど例がないのだとか。宇多天皇の愛を取り戻すべく、妻がこの神社に奈良の三笠山に見たてて白砂を盛って願い、結果見事に愛を取り戻したという逸話に基づきます。現在もこのように願いをかけて帰る参拝者も多いようです。

本殿前の盛り砂
本殿前の盛り砂

神社から細い道を北へ歩くと、ついに船岡山に到着。こちらはかつて織田信長の葬式を行うために、秀吉によって天正寺という菩提寺が創建される予定であった場所。結果的に菩提寺は石田三成の提案もあって大徳寺に造られたわけですが、その後も信長ゆかりの神域として守り伝えられてきました。そのため明治13年に船岡山山麓に信長・信忠親子を祀る建勲神社が造営され、明治43年に山の中腹にあたる現在の場所へ移されました。100段ほどの階段を登ると途中から東山の絶景を楽しむことができ、神社の拝殿には秀吉をはじめ信長に仕えた家来の18人の額が掲げられています。

東山は比叡山から大文字の山まで遠望できる
東山は比叡山から大文字の山まで遠望できる
建勲神社の本殿(奥)
建勲神社の本殿(奥)

さらに山を西へ歩くと112メートルの三角点へ到着。こちらから南側の眺めも絶景です。この船岡山は平安京のちょうど真北にあたり、北の方角の神様である玄武(げんぶ)とされています。

船岡山 山頂より南側をみた風景
船岡山 山頂より南側をみた風景

船岡山を北側に下るといよいよ大徳寺のエリア。広大な境内に秀吉によって創建された総見院は信長の菩提寺でもあり、通常非公開ですが、この時期は3月18日まで「京の冬の旅」で公開中です。大きな本堂内には信長が亡くなって直後に造られたという信長等身大の木像が伝えられており、それを見た秀吉も似ていると評したといいます。境内には3つの異なる茶室、信長の葬儀でも使われた井戸、織田家一族の墓もあり、信長の時代の空気を色濃く感じることができます。ぜひこの機会にこのルートで総見院を訪ねてみてください。

総見院 本堂(かつて大徳寺の禅堂)
総見院 本堂(かつて大徳寺の禅堂)
中央が織田信長の墓
中央が織田信長の墓

途中休憩でお薦めは、銭湯を改修した「さらさ西陣」。ランチやカフェを歴史ある建物内で楽しめます。また近くには京都の銭湯の横綱ともいえる船岡温泉もあります。よかったらお立ち寄りくださいね。

さらさ西陣の外観
さらさ西陣の外観