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「天才!志村どうぶつ園」現場で見た志村けんさんの素顔

山田美保子放送作家・コラムニスト・マーケティングアドバイザー
「天才!志村どうぶつ園」初回台本

 「また、ずいぶん古いのが来ちゃったな」。

 志村けんさんと初めて会話を交わしたのは、2004年3月18日、日本テレビ麹町スタジオGスタの前室だった。

 「天才!志村どうぶつ園」第1回の収録が行われる前、構成作家の1人として、チーフディレクターが私を志村さんに紹介してくれた。

 冒頭の言葉は、初対面の志村さんに対し、どんなごあいさつをしようか迷いに迷った挙句、私が「『マックボンボン』の時から大ファンです」と伝えた後に、笑いながら志村さんが放った一言である。苦笑い?いや、照れ笑いだったと信じたい。

「マックボンボン」の志村さん

 志村さんが荒井注さんに代わって「ザ・ドリフターズ」に加入したのは、1974年4月1日。加藤茶さんの推薦だったそうだ。

 私がお笑いコンビ「マックボンボン」の志村さんのファンになったのは、それより2年前。当時の女性アイドルの振り付けを、今でいう完コピをしてステージで披露する姿に魅せられたのがきっかけだった。

 いや、完コピではなかった。それらは志村さんによってデフォルメされ、スピードもずいぶん速かったと記憶する。それを何とも言えずトボけた表情で、やりきるのである。

 果たして、ドリフ加入後も志村さんは全身を使って笑いをとった。メンバーの中で一世代は若かった志村さんは、それから45年以上経ち、全出演者、全スタッフの中で最年長になっても、変わらず全身を使って笑いをとった。

根っからのコメディアン

 根っからのコメディアンであり、音楽にも精通していて、映像にも一家言持っていた。

 優しい方ではあったが、とにかく笑いには厳しく、「○○(スタッフなどの名前)は、笑いを分かっていない」とボヤく様子を何度も見聞きしたことがある。

 でも、「言い過ぎたかな?」と、複雑な表情を見せることも多かった。それらは、番組に関わる者たちが笑いの分かるスタッフとして育ってほしいという志村さんの親心だったと、みんな理解していた。

“息子”を変えた親心

 一方、若いタレントには、本当に優しかった。「天才!志村どうぶつ園」では特に、「嵐」の相葉雅紀さんを可愛がっていた。

 実は当初、相葉さんは、おさる(現・モンキッキー)さんやMEGUMIさん、坂下千里子さんらと共にヒナ壇に座っているパネラーの1人だった。

 今の彼なら、VTRの感想や共演者へのツッコミなど、自由奔放な“相葉ちゃんワールド”を繰り広げられたことだろう。

 だが、当時の彼は、大御所の志村さんやバラドルとしてすでにベテランだった山瀬まみさん、さらには大物ゲストらを前に、ほとんど話せないまま収録を終えていたのである。

 

 それはあまりにもったいなく、「何とかならないか」と会議で私が問題提起し、他の作家や演出陣に揉んでもらった結果、相葉さんは飼育係となり、園長の志村さん、秘書の山瀬さんと共に“立ち”で番組を進行するようになったのだ。

 同時に、体を張ったロケにも多数参加するようになった相葉さんに対し、全てを指導してくれたのが志村さんだった。

 「(前略)志村さんと過ごさせて頂いた時間は僕の宝物です。何もわからない僕の背中を押してくれたり、包んでくれたり…志村さんの優しい笑顔が頭から離れません(後略)」。

 相葉さんの追悼コメントを読みながら、貰い泣きしてしまった。

 「園長と相葉ちゃんが、2人で普通に駅で待ち合わせして飲みに行っているらしい」と聞いたのも、番組がスタートして比較的早い時期だった。

 ちょうどその頃、音楽番組を担当している放送作家が話していたのは、「相葉ちゃんが『志村どうぶつ園』で体を張ったロケをするようになってから、嵐のメンバーの相葉ちゃんを見る目が変わった」ということ。「志村どうぶつ園」のロケで学んだことや、志村さんからの教えを相葉さんが嵐の現場に持ち帰ることにより、グループにもいい影響が及ぼされたという意味らしい。当時、音楽番組の現場では、そんな説が流れていたそうだ。

 それが志村さんの訃報に際し、嵐の櫻井翔さんが寄せたコメントに表れている。

 「嵐がデビューして程なくしてからコンサートに足を運んでいただいて。終演後にごあいさつにうかがうと、相葉をまるで息子を見るような目で、そして他のメンバーである我々を息子の友達を見るような目で迎えてくださいました。(中略)悲しいです」。

 相葉さんがいつも志村さんとの交流をメンバーに話していたこともうかがえよう。

 「志村どうぶつ園」出演者の中では、熊本県阿蘇市の動物園「阿蘇カドリー・ドミニオン」の現園長で、チンパンジーのパンくんや、その娘のプリンちゃんのトレーナーでもある宮沢厚さんのコメントにも、涙があふれて止まらなかった。

 志村さんと約2ヵ月に1度のペースでロケをしていたパンくんやプリンちゃんは、志村さんのことが大好きだった。特に親子のような関係だったパンくんとは、見えない糸でつながれているような不思議なことがたくさんあったし、パンくんが志村さんの姿を見つけてその胸に飛び込む様子は、今でも目に焼き付いている。

育てる優しさ、巣立つ若手

 男性アイドルや動物だけではない。「志村けんのバカ殿様」(フジテレビ系)に腰元役で出演した女性タレントの多くが、志村さんから“コントのいろは”を学び、巣立って行った。

 

 古くは桜田淳子さん、榊原郁恵さん、松田聖子さん、高田みづえさん、松本伊代さん、堀ちえみさん、森口博子さん、島崎和歌子さん、いしのようこさん、さらには、細川ふみえさん、優香さん、磯山さやかさん…。アイドルもグラビアアイドルも若手女優も、「バカ殿」で志村さんから笑いを教えられ、それを他の現場で活かした。

 トップアイドルもいたが、志村さんは、まだ芽の出ないタレントを“志村組”の中で育てることを好んでいらしたとお見受けする。それは志村さん特有の優しさであり、それに応えるように、「志村けん×若手女性タレント」は、化学反応となって、多くの笑いを生んでいったものである。

スタッフ、共演者がかなえた「志村魂」

 そして、2006年から毎年行われていた舞台「志村魂」は、志村さんの「舞台がやりたい」「コントがやりたい」という思いを、志村さんを愛し、尊敬するスタッフや共演者がかなえたもの。「バカ殿」ファミリーとも重なるキャストが年に1回集結し、繰り広げる舞台は、芸能人にもファンがたくさんいたものだ。

 志村さんが70歳になった今年は、映画やドラマなど、映像の世界でさらに羽ばたくはずだった。

 志村さんの“座付きプロデューサー”ともいうべき同年代の男性は、「僕が知る限り、映画とかドラマとか、あんなに見ている人は知らないというくらい見てたね」と言い、だからこそ、菅田将暉さんとのW主演映画「キネマの神様」を降板し、連続テレビ小説「エール」(NHK)の撮影の途中で旅立ってしまったことは、「本人がいちばん無念だったと思うと涙が止まらない」と言葉を詰まらせていた。

 とてもシャイな方でもあったので、言葉で誰かを褒めたりするのは得意ではなかったかもしれないが、志村さんに関わった人はみんな、志村さんの気持ちは分かっていたはずだ。

 直接、感謝を伝えたかったし、もっともっと、一緒に仕事をしたかったのに、志村さんは旅立ってしまった。多くの人が抱いているこの喪失感を詳細に説明するのは本当に難しい。

 老若男女、多くの人を幸せにしてくれ、笑わせてくれ、最期は新型コロナウイルスの恐ろしさを身をもって教えてくださった志村さんのことを、我々は決して忘れることはないだろう。

 志村さん、本当に本当にありがとうございました。御冥福をお祈り申し上げます。合掌。

放送作家・コラムニスト・マーケティングアドバイザー

1957年、東京生まれ。初等部から16年間、青山学院に学ぶ。青山学院大学文学部日本文学科卒業後、TBSラジオ954キャスタードライバー、リポーターを経て、放送作家・コラムニストになる。日本テレビ系「踊る!さんま御殿!!」、フジテレビ系「ノンストップ!」などの構成のほか、「女性セブン」「サンデー毎日」「デイリースポーツ」「日経MJ」「sippo」「25ans」などでコラムを連載。「アップ!」(名古屋テレビ)などに、コメンテーターとしてレギュラー出演している。

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