相模原殺傷事件(やまゆり園事件)から3年。パンドラの箱の底にあるものは
<相模原事件が私たちに突きつけた現実。私たちは現実を見なければならない。だが、現実に押しつぶされてはいけない。>
■相模原障害者施設殺傷事件(津久井やまゆり園障害者殺傷事件)
19人の命が奪われてから3年がたった。これは、通り魔事件のような「誰でもいいから殺したかった」といった無差別殺人ではなかった。
2016年7月26日。相模原の障害者施設「津久井やまゆり園」が襲われた。逮捕された男は、重度の障害者を狙って犯行に及んでいる。
彼は語る。「障害者は不幸を生むだけ」だと(「意思疎通のできない重度の障害者は不幸をもたらすだけで死んだほうが良い」)。しかも彼は障害者のことを知らないわけではない。彼自身が、この施設の職員だったのだ。
凶悪犯罪者は、人々から憎まれる。だが同時に、時としてアンチヒーローとして讃えられることもある。「俺はそんなんことはしないが気持ちはわかる」と語る人もいる。
しかし今回は、真面目で愛がある人ほど、彼の言葉に衝撃を受けた。私たちの「内なる差別」を感じてしまったからだ。
彼の意見は全力で否定したい。しかし私たちみんなが実は心の中で思っているけれども言えなかったことを、彼は言ってしまっただけはないか。私たちは、そんな自分の思いに気づいてしまったのかもしれない。
■事件直後の報道と重度心身障害
障害者に対する差別的な発言に、マスコミもすぐに反応した。事件直後、がんばって様々な活動をしている障害者らの姿を取材し、障害者も生きがいを持って生活しているといった内容などが放送された。
だが、彼が言っているのは、会話もできないような重度の障害者だ。そんなことは、マスコミスタッフも理解していただろう。しかし、どのように報道したら良いか、わからなかったのかもしれない。このような重度の障害者は、これまでも、また事件の後にも、ほとんどマスコミに出ることはなかった。
私たちも、街中で重度心身障害者を見ることはほとんどない。彼らは、テレビに出て合奏を披露したり、スポーツ大会に出たり、展覧会で絵が飾られることもない。また、普通の障害者施設ならボランティアなどもたくさん入るが、重度心身障害者施設には一般の人は入りにくいだろう。開かれた場所とは言い難い。
健常児の親は、子供の成績や不登校で悩む。障害児の親は、そんな悩みは贅沢だと語る人もいる。知的障害や身体障害を抱えて、どういう学校へ進学させるのか、卒業後の進路はどうするのかと悩んでいる。
しかし、ある重度心身障害児の母親は言っていた。「たったひと言、私に『お母さん』と呼びかけてくれたら、今までの私の全ての苦労は報われる」と。だが、その願いがかなうことはない。
私たちの街にも、重度の障害を持った人々はいる。しかし私たちの目には入らない。普通の人にとっては、日常生活で意識に上ることはない。確かに生きているのに、まるでいないかのような存在だ。私たちは違法なことはしていないが、重度障害者のいない世界を実現してしまっているのではないだろうか。
■私達につきつけられたもの
彼は、妄想的とも言える非常に歪んだ思想を持っていた。彼の考えが「思想」なのか「妄想」なのかは、議論があるだろう。報道によれば、彼はこれまでに、「大麻精神病」「反社会性パーソナリティー障害」「妄想性障害」「薬物性精神病性障害」そして「自己愛性パーソナリティー障害」の診断を受けている(一番新しい診断が自己愛性パーソナリティー障害であり、責任能力はあったと判断されている)。
だが仮に妄想だとしても、妄想の中にも思想や時代性が影響を与える。昔の妄想にはキツネに操られるといった内容があり、現代の妄想には宇宙人やテレパシーが登場する。彼のこれまでの考えや体験、そして社会全体の考え方が、影響を与えているだろう。
非常に歪んだ考えだ。しかし、私達の中にも同じような思いは潜んでいないだろうか。「重い障害を持った人は生まれてこない方が良かった」と感じることはないだろうか。生まれないことと、殺されることは違うけれども。
また私たちは、重度の障害者を(時には軽い障害の場合ですら)人里離れた場所に隔離しておけば良いと考えていないだろうか。さらに、人に迷惑をかけるような精神科の病人や、障害や貧困や非行や前科者や様々なマイノリティーなどは、町から出て行けと考えてはいないだろうか。
津久井やまゆり園が、事件後に再建される話が出たとき、障害者団体から反対の声が出た。この施設のような、コロニー型の大規模施設は時代に逆行していると考えられるからだ。
では、重度障害者や精神疾患を持つ人などが集う小規模ホームがあなたの町内会に作られようとしたら、みんなが賛成して、新しい転居者たちを歓迎してくれるのだろうか。
小規模視閲でも、立派な児童相談所などでも、社会には必要な施設だけれども私の町に建設されることは反対だと、各地で建設反対運動が起きている。
この事件の重さは、被害の大きさだけではなく、私達が隠していた思いを、内なる差別を突きつけられたことにある。「重い障害者などいらない」と語る彼に強く言いたいと私たちが感じるのは、彼の賛同者にも言いたい、社会全体にも言いたい、そして自分自身にも言いたいと感じる思いではないだろうか。
■開けられたパンドラの箱
事件から2年後、『開けられたパンドラの箱――やまゆり園障害者殺傷事件』(創出版)が発行された。
同書には、彼の意見が紹介されている。この本の出版には反対もあった。「重い障害者は不幸を生むだけ」。そんな誤った考えを社会に紹介してはいけないと。
<2年前の相模原障害者殺傷事件の真相解明をきちんとしないと恐怖が残ったままだ:月刊『創』編集長・篠田博之氏>
同じように社会を震撼させた事件に関する本として、元少年Aの著書『絶歌』がある。
<元少年A『絶歌』神戸連続児童殺傷事件:質問疑問に答える:出版は正義に反する。しかし内容は心に迫る>
しかし今回の『開けられたパンドラの箱』は、『絶歌』とは異なり、彼の主張や作品が紹介されるだけではなく、対話が行われており、また様々な当事者の真摯な思いや、専門家たちの意見も紹介されている。
「どの命も大切だという考えはないの?」 そう質問されて、彼は考えている。彼の信念は変わらないものの、彼は考えている。
この事件は、扱いにくい事件だ。
被害者19人は、通常の事件とは異なり、匿名で報道され続けた。名前も、人となりも、全く触れられなかった。だが事件からしばらくたち、本書の出版だけでなく、様々な活動が始まった。
NHK『ハートネットTV』の「匿名の命に生きた証を」は、大きな反響を読んだ。NHKは、番組でもネットでも活動を続けている。
「どの命も大切」。
・・・もちろん答えはYesだ。しかし・・・例えば人工妊娠中絶を考える時、健康体の胎児の時と、重度障害を持って生まれてくるだろう胎児とで、私たちは同じ考えはしないだろう。
可愛い赤ちゃんの命を救うために、2億円のお金が集められることはある。だが、80歳の人の命を救うために同じことは起きない。だからと言って命の価値に軽重をつけているわけではないが。
頑張っている障害児たちの姿は微笑ましく、感動を生む。そんなことは「感動ポルノ」と批判する人はいるし、障害者を教材扱いするなと怒る人もいる。だが、彼らの活動を見て、多くを学べる人もいる。自分や家族が、人権教育の教材になっても良いと語ってくれる人もいる。
<「感動ポルノ」はダメなの?:24時間テレビとバリバラの間で:無意識の差別と障害者の教材化>
しかし、障害問題はきれいごとだけでは済まない。心身の障害を「個性」と呼ぶ人もいる。しかしある障害児の親は言っていた。「では、あなたはあなたの子供の個性として障害を選ぶか」と。
本人や家族が障害を個性と呼ぶのは間違っていない。だが、他人が安易に使う言葉でもない。障害の周囲には、テレビに紹介されなくても、愛と感動の物語がある。同時に、多くの悲劇も起きている。
死にたくなるような困難、悲劇、当事者と家族の苦しみ。社会の差別と偏見、建前に隠された本音。隠しておきたいことは多い。しかし、見たくないものを見なくては、先に進めないこともある。
パンドラの箱を開けてしまった時、あらゆる災いが飛び出してきた。だが、その底に、希望が残っていた。
今までなら隠されてきたある種の本音が、犯罪者によって語られ実現されてしまうことがある。ネット上で、赤裸々に主張されることもある。パンドラの箱は開けられた。だが、様々な災いが出てきたからこそ、きれいごとではない真実の希望を私たちは見出していきたい。