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仏教の戦争責任⑤ 寺に残る「砲弾」と「天皇の位牌」

鵜飼秀徳ジャーナリスト、正覚寺住職、(一社)良いお寺研究会代表理事
寺の境内に残された軍艦の砲弾(筆者撮影)

寺に残る戦争の痕跡

 戦時中は多くの寺が銃後運動を熱心に推進した。その戦争の痕跡は地域の末寺にも残されている。それが「顕彰碑」「天牌」「戦時戒名」「奥津城」などである。戦利品の砲弾を祀ったり、大規模な防空壕が残っていたりする寺もある。戦争の痕跡を求めて全国の寺院を訪ねた。

 戦地における勇士らを讃えた「顕彰碑」が今なお、残っている寺がある。顕彰碑は特に日露戦争時に多くつくられた。太平洋戦争が始まり戦局が悪化すると、顕彰碑をつくるための人材も余裕もなくなり、あまり顕彰碑はつくられていない。

 能や歌舞伎の演目でも知られる和歌山県にある道成寺には、日清・日露戦争時の大きな顕彰碑がある。その顕彰碑の台座には、日露戦争時のロシア軍の砲弾が埋め込まれている。これは1904(明治37)年の旅順攻囲戦でロシア軍を撃破した時の戦利品だ。この顕彰碑の前では戦時中、陸軍主導で、戦意発揚のための追悼法要が実施されていたという。

なぜ寺に砲弾が?

 なお、各地の寺院や神社にはなぜか、砲弾が奉納されていることが多い。これは日清戦争後、「陸軍戦利品整理委員会」が戦争記念品として自治体に分配したのがきっかけだ。そこから寺院や神社、学校、役場などに分けられた。日清戦争後、国内では砲弾およそ8700個が献納され、日露戦争ではおよそ2万個以上の砲弾が神社仏閣に奉納されているという。

 東京・青物横丁にある海晏寺境内にも、複数の砲弾が置かれているのを確認した。最大のもので高さ90センチ近くある。それが、日清・日露戦争のいずれの砲弾かは不明であるが、戦艦の主砲のものとも考えられる。同寺に聞けば、境内には岩倉具視の墓所(非公開)があり、そこには別の砲弾と大砲が置かれているという。

 しかしながら、砲弾の多くは太平洋戦争時の金属供出によって回収。再び、砲弾などの武器に使用された。

天皇の位牌を祀る

 次に紹介するのは「天牌」である。天牌とは天皇の位牌(尊牌)のことだ。天皇や皇族ゆかりの門跡寺院などで天牌を祀ることは不自然ではないが、一般的な末寺のほとんどで天牌がいまなお、祀られている。皇道仏教の名の下に、各寺院にたいして天牌の奉安を半強制したのである。

 末寺における天牌奉安が本格化するのが、明治天皇の崩御時と考えられる。真宗大谷派では1913(大正2)年9月に、「一般寺院ヘ天牌奉安ノ件ヲ充可シ茲ニ之ヲ発布セシム」との布達が出されている。

 このように各宗門から末寺にたいして「明治天皇尊儀」などと刻まれた天牌を本堂に祀るよう指導がなされた。天牌奉安は大正天皇の崩御の時にも受け継がれた。当時の今上(昭和)天皇にたいしても「今上天皇寶祚無窮」「今上陛下聖寿萬安」(いずれも「天皇の威光が永久に続きますように」という意味)など、報恩のため、世の中の安寧を祈願するために天牌が祀られた。

天牌と戦時戒名の彫られた位牌(筆者撮影)
天牌と戦時戒名の彫られた位牌(筆者撮影)

 戦後の昭和天皇の崩御の際には、天牌がつくられた事例はほとんど見つからない。

 また各宗門は、檀家の中で戦死者が出た場合の慰霊について、末寺に指示した。戦死者の戒名には、もれなく最高位の「院」や「居士」が与えられた。また、戒名には「義」「烈」「勇」「忠」「國」「誠」などの国粋主義を連想するような文言が選ばれている。

 例えば、「報國院義烈○○居士」という名付け方である。戦時戒名は日中戦争を契機にして付けられ、終戦をもって完全に姿を消している。

 軍人戦死者の葬儀や埋葬も特別扱いであった。たとえば曹洞宗の場合、末寺は本山に報告。大本山貫主からは代理が送られ、弔辞が読まれた。また将校(少尉)以上の軍人には、戒名に必ず「居士」を付けるよう命じている。しかし、太平洋戦争が始まればその制限もなくなり、戦死したすべての兵隊に「居士」が付けられた。

軍人の墓は「奥津城」

 英霊の墓も特別なものであった。一般的な墓石は四角柱だが、軍人には「奥津城(おくつき)」と呼ばれる神道式の墓を立てるよう、末寺に指示がなされた。英霊は先祖代々の墓には入らず、ひとりで奥津城に祀られているのが特徴である。

 外見は古代エジプトの石柱オベリスクのような、上部が尖った四角柱である。奥津城は日当りのよい、墓地の中でも一等地に立っていることが多い。戦死者は遺骨が戻ってこないことが多く、奥津城に収めるのは遺品や戦地の石などである。

英霊を祀る奥津城(筆者撮影)
英霊を祀る奥津城(筆者撮影)

 以上のように、各地の寺院の境内には「天牌」「戦時戒名」「奥津城」「顕彰碑」「砲弾」などが残り、帝国主義の面影を残している。しかし、住職も戦争を知らない世代に代が替わり、戦時アイテムの意味を理解せずに祀り続けてしまっているのが残念なところである。

戦争の傷跡が残る寺

 空襲に見舞われた都市では、寺院も狙われた。その傷跡が現在まで残されている寺がある。

 東京や大阪、あるいは原爆が投下された広島や長崎では、多数の寺院が完全に破壊された。そうした寺院は戦後、鉄筋コンクリート造りの建築物で再建されることも少なくなかった。多くの文化財も焼失した。たとえば、東京都内で国宝に指定されている寺院は東村山市の正福寺だけである。

 かつて空襲で破壊された寺院の境内をつぶさに見回すと、焼夷弾で焼かれ、煤で真っ黒になった灯籠や墓石などが残っているケースがある。

 東京都武蔵野市は中島飛行機の工場があったため、都内でも特に激しい空襲に見舞われた地域である。現在、武蔵野市では戦争遺跡を訪ねる散策コースが整備され、爆撃で傷ついた墓石が残る源正寺(浄土真宗本願寺派)や250キロ爆弾の破片が残る延命寺(真言宗智山派)などを巡ることができる。

 また、神奈川県横浜市中区の普門院(真言宗)の境内には横浜空襲によって大きく破壊された墓碑が残されているほか、空襲で犠牲になった市民を供養するための地蔵が祀られている。

 沖縄戦で多くの爆撃機が通過した石垣島の桃林寺(臨済宗妙心寺派)では、本堂正面にある賽銭箱などには、米軍機による機銃掃射の弾痕が生々しく残っている。

成願寺境内に残る防空壕(筆者撮影)
成願寺境内に残る防空壕(筆者撮影)

 東京都中野区の成願寺境内には大規模な防空壕が残っている。防空壕は1944(昭和19)年に掘られたもので、全長約40メートル、高さは約2メートル、総面積は約80平方メートルである。崖に面する場所に出入り口が2か所あり、通路は爆風避けにジグザグに掘られている。完成当時は全長57メートルもあったという。

中間地点に6畳ほどの部屋(仏間)がある。これは仏像などの寺宝を避難させる空間だという。複数の部屋があり、風呂場や便所、手洗いも備えた(建設当時か戦後の増設かは不明)。

 空襲警報が鳴るたびに寺族はこの防空壕に飛び込み、難を逃れたという。

 1945(昭和20)年5月25日の山手空襲では本堂や庫裏を含め境内全域が焼失した。当時の住職はあらかじめ、本尊や古文書などの一部の寺宝を防空壕に避難させていた。だが、本尊の光背だけは入口につっかえて入りきらず、光背は燃え尽きてしまった。現住職の小林貢人さん(88)は、当時の様子を証言する。

「光背には本尊の由緒書きがされていました。父(先代住職)は光背を焼失させてしまったことを、死ぬまで後悔していました」

 成願寺の防空壕は戦争の生き証人として、後世に語り継ぐため現在まで保全され続けている。1992(平成4)には崩落防止に補強工事が実施された。成願寺の防空壕は予約をすれば見学が可能だ。

 本稿は『仏教の大東亜戦争』(文春新書)を一部再編して掲載した。

ジャーナリスト、正覚寺住職、(一社)良いお寺研究会代表理事

京都市生まれ。新聞・経済誌記者などを経て、2018年に独立。正覚寺(京都市右京区)第33世住職。ジャーナリスト兼僧侶の立場で「宗教と社会」をテーマに取材、執筆、講演などを続ける。近年は企業と協働し「寺院再生を通じた地方創生」にも携わっている。著書に『寺院消滅』(日経BP)、『仏教抹殺』『仏教の大東亜戦争』(いずれも文春新書)、『ビジネスに活かす教養としての仏教』(PHP研究所)など多数。最新刊に『絶滅する「墓」 日本の知られざる弔い』(NHK出版新書)。一般社団法人「良いお寺研究会」代表理事、大正大学招聘教授、東京農業大学・佛教大学非常勤講師など。

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