奈良における廃仏毀釈の波は、東大寺や法隆寺、薬師寺、西大寺、唐招提寺などに及んだ。とくに激烈を極めたのが興福寺であった。多くの貴重な仏像が焼かれ、そして国内外に流出した。

 さらには、奈良のシンボル、シカも廃仏毀釈のターゲットにされた。シカ狩りが横行し、スキヤキにされた結果、絶滅寸前にまで追い込まれたという。

 興福寺は現在、境内面積2万5000坪を有する巨大寺院である。しかし、宝暦年間(1760年ごろ)に描かれた「興福寺春日社境内絵図」を見れば、その境内規模は現在の数倍はあったと推定できる。現在の奈良国立博物館、奈良県庁、奈良地方裁判所、奈良ホテルまでことごとく興福寺があった場所に建てられている。

 戦国時代から江戸時代にかけては、興福寺・春日大社合一の知行地(支配権が及んだ土地)は2万1000余石と定められた。当時、興福寺は大乗院・一乗院を筆頭に、末寺計107寺を抱えていた。

 そして興福寺は、歴史的には春日大社と縁が深かった。平安時代、本地垂迹説に基づき、興福寺は春日大社を支配下に収めている。鎌倉時代に入れば、大和国の守護の任に当たるなど興福寺の権限は強大なものになっていく。

興福寺の僧侶は宮司になった

 ところが1868(慶応4)年4月7日、大和国鎮撫総督府より春日大社における権現などの神号の廃止命令が下る。折しも6日前の4月1日、奈良からも近い滋賀の日吉大社で神官たちによる廃仏毀釈が勃発した(廃仏毀釈の真実①を参照)。

 だが、日吉大社の社僧が抵抗を示したように、興福寺の僧侶も抗戦の構えを見せたかと言えばそうではない。興福寺の見極めと対処は驚くほど素早く、ある意味、潔かった。

 塔頭の大乗院・一乗院が、連名で鎮撫総督宛に「復飾(還俗)願い」を提出する。この2院は当局に対し、

「お上には逆らわないので、神職としての地位を保証してほしい」

と懇願した。

 この申し出に神祇局は、還俗を許可するとともに、興福寺の僧侶にたいして「新宮司」の地位を与えた。そして、春日大社に納められていた仏具類は、すべて興福寺が引き取るよう命じ、完全に神仏を分離させたのである。

 こうして興福寺から130人すべての僧侶がいなくなり、広大な境内地と七堂伽藍だけが残された。

 問題は興福寺のその後の処理であった。

 多くの堂塔は破却処分となった。たとえば金堂は警察の屯所になった。冬場になると凍えるような堂内で警官たちは焚き火をして暖を取ったという。薪がなくなれば、堂内に安置してあった天平時代の仏像を引きずり出し、あたかも薪割りのように仏像を割り裂いて火中にくべたという。

 その中には貴重な千体仏も含まれていた。後年になって、焼却を免れた一部の千体仏が発見された。千体仏は無残にも、暖炉にくべる薪の束のように数十体ずつにまとめて縛られていたという。両手や足先、台座のないものが多かった。

 焼かれずに済んだ一部の千体仏は、民間に流出し現在、藤田美術館(大阪市)やMIHOミュージアム(滋賀県)が所蔵している。

 他にも興福寺の文化財の多くが、国内外へ流出した。たとえば、快慶作の木造弥勒菩薩立像がボストン美術館に、乾漆梵天・帝釈天立像がアジア美術館(サンフランシスコ)に、康円作の木造文殊菩薩・侍者像(重要文化財)が東京国立博物館に流れるなどした。

 現在、興福寺に残る国宝仏は32体、重要文化財は17体である。だが、それらは廃仏の難を逃れ、同寺に残り続けることができた、幸運なごく一部の仏像たちなのだ。

 しかし、彼らも金堂内陣の片隅に、無造作に放置されていた。あまりに粗雑に扱われた結果、阿修羅像の腕2本が欠け落ちてしまったという説も伝えられている(廃仏毀釈との因果関係は検証されていない)。

引き倒される寸前だった五重塔
引き倒される寸前だった五重塔写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

 燃料にできないような金属製の仏具は悉く売り払われ、溶かされていった。

 興福寺における廃仏毀釈では、五重塔(国宝)も破却されるところであった。現在の興福寺五重塔は5度の焼失を経て鎌倉時代に再建されたものだ。高さ50メートル、京都・東寺(教王護国寺)の五重塔に次いで、国内では2番目に高い塔である。

 だが、規模が大きいために解体費用がかかるとのことで、民間に売却されることになった。その金額は25円。当時の1円は現在の価値で2000〜4000円と推定できるから、最大でも10万円程度であろう。今では日本を代表する仏教建築物が、タダ同然の金額で売り払われたのである。

 五重塔の買主は、塔に使われた金属を取り出すことを目的としていたという。最初は塔の頂上に綱を掛けて、万力で引き倒そうとした。しかし、そんなことではビクともしなかった。

 そこで、火を放てば安易に金属を採取できると考えた。塔の周囲に柴を積んだ上で、

「塔を焼くから、火元に気をつけよ」

 という知らせを近隣住民に出したという。

 だが、この告知を出したことで、周辺に類焼する可能性があるとして住民が反発して頓挫した。結局、足場を組んで解体する費用などは捻出できなかったことで、五重塔はかろうじて破却を免れたのである。

奈良県庁のある場所は興福寺の境内地だった
奈良県庁のある場所は興福寺の境内地だった写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

 1872(明治4)年には、興福寺の大方の境内地が上知された。翌1873(明治5)年には塔頭寺院を含めて、大方の建築物は打ちこわしになり、興福寺は事実上の廃寺となった。

 その後、大乗院跡は奈良ホテルが建設され、また一乗院跡地には裁判所が建てられた。現在の奈良国立博物館や奈良県庁なども元は興福寺の境内地である。

 1875(明治8)年、旧興福寺は西大寺の管理下に置かれることになる。嘆願により、興福寺の再興の許可が下りるのが1881(明治14)年のことである。

 廃仏毀釈による興福寺の衰退は、意外なところにも影響を与えた。興福寺周辺を住処にしているシカが受難に遭っていた。

 奈良公園には国の天然記念物のシカが1200頭近く多数生息する。市街地にありながら、野生のシカが人間社会と共存している事例は極めて珍しい。かの地におけるシカの歴史を辿れば、少なくとも8世紀に遡る。『万葉集』ではシカの歌が詠まれている。

春日大社とシカ
春日大社とシカ写真:アフロ

 768(神護景曇2)年、この地に春日大社が創建された。その時、祭神である武甕槌命(タケミカヅチノミコト)がシカに乗ってやってきたと伝えられ、以降、シカは神の使いであるとして手厚く保護されてきた。奈良のシカが人に慣れ、安全に暮らせているのは、春日大社という大樹の陰に寄り添ってきたからなのである。

 一般社団法人東京奈良県人会によれば、中世以降1000年以上にわたって、およそ500〜1000頭のシカが保護され続けてきたという。その間、春日大社は神仏習合の時期が長かった。

 鎌倉時代に描かれた「春日鹿曼荼羅」(奈良国立博物館蔵)のシカの描かれ方は、実に仏教的である。雲の上に神々しいシカがおり、その背中につき立てられた榊の枝先に、5体の仏菩薩が浮かび上がっている。この仏菩薩は春日大社の祭神の本地仏という位置付けだ。つまり、奈良のシカは、「仏の使い」の要素のほうが濃かったといえよう。

 シカは興福寺の広大な境内に野生し、興福寺もシカを手厚く保護した。興福寺や春日大社のシカにたいする神格化は著しく、時にシカを殺めた市民が死罪になることもあったという。

 しかし、明治初期の廃仏毀釈によって興福寺が著しく荒廃すると、シカを保護する機運が失われた。第1代県令である四条隆平は、シカは神仏の使いであるとの迷信を払拭するため、シカ狩りを行った。シカはスキヤキにされて食べられ、一時期、絶滅の危機に瀕するほどに頭数を減らしたという。

 詳細は、拙著「仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」(文春新書)を参照いただきたい。