東京唯一の国宝の寺を知っているか それは「トトロの森」の近くにあった

東京都東村山市の正福寺 著者撮影

震災、空襲に見舞われた大都市に唯一残る中世の地蔵堂

 東京を代表する寺院といえば、どこを思い浮かべるだろうか。

 たとえば増上寺や寛永寺は江戸時代、徳川将軍家の菩提寺になり、名実ともに江戸の2トップ寺院であった。今でも東京における屈指の観光スポットである。

 しかし、明治時代以降、東京都内は関東大震災や太平洋戦争の空襲などに見舞われ、こうした巨大寺院は燃えてしまった。さらに、都内には最古の歴史を有する浅草寺や築地本願寺、護国寺、池上本門寺、深大寺など巨大寺院は多いが、戦火だけではなく、戦後は農地解放によって宗教法人の土地が大幅に減らされ、その後は都市開発が拡大した。東京における江戸時代以前の寺院の姿はほぼ失われていると言ってもよい。

 わずかに増上寺の場合、主要伽藍の大殿はコンクリート造りだが、2代将軍秀忠の正室お江の位牌を祀る御霊屋(おたまや)と山門は、江戸時代に建長寺(神奈川県)に移築されていた。そのため、江戸期の増上寺の威光を知る数少ない手がかりとなっている。

 何度も焼け野原になっている東京都にあって、国宝指定を受けている建築物は2つしかない。2009(平成21)年に指定された旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)と、1929(昭和4)年指定の金剛山正福寺地蔵堂(東村山市、臨済宗建長寺派)だ。

 15世紀初めに建てられた正福寺の地蔵堂は古くから、円覚寺舎利殿(国宝、鎌倉市)と並び称されるほどであった。変化のスピードが速い東京にあって、室町時代の宗教建築物が残るのは稀有。実はこの地蔵堂、昭和初期に再発見され、関係者を驚かせていた。

円覚寺舎利殿と酷似

 正福寺境内に立つと時空の流れが変わる。西武新宿線東村山駅から北西に500メートル。埼玉県境にも近い住宅地の中に正福寺はある。正福寺の北側は映画監督宮崎駿が映画『となりのトトロ』でモデルにした八国山緑地が広がる、のどかな丘陵地帯である。

 正福寺の開山(寺を開いた初代住職)・開基(寺を立てる際に経済的支援をした有力者)については記録が1662(寛文2)年の火災で焼失しており、詳細は不明である。

 東村山市の徳蔵寺に伝わる19世紀初頭の『千躰地蔵菩薩略縁起』には、正福寺の開基のことが触れられている。鎌倉幕府の執権・北条時宗が鷹狩のためにこの地を訪れた時、急病で倒れたという。夢うつつの状態のなか、黄の衣をまとった僧侶が出現し、差し出された一粒の薬を飲んだところ、たちまち快復。時宗は、あの夢は地蔵菩薩の霊夢であったとして、この地に正福寺を建立したという。

 開基については、建長寺を建てた時宗の父時頼の可能性も捨てきれない。寺に残る最も古い記録である梵鐘をみると、そこには開山上人について、〈開山者(は)支那之杭州径山之石渓(しっけい)禅師〉とある。

 石渓禅師とは南宋時代の禅僧で、径山(きんざん)興聖万寿寺の石渓心月のこと。しかしながら、石渓禅師が来日したとの記録は存在しない。実際の開山上人は京都の東福寺で修行をし、宋に渡った無象静照と見られる。鎌倉五山の浄智寺や京都の仏心寺を開いたことでも知られる名僧、無象は宋で石渓に師事。帰国後、師の名前で正福寺を開山させたとみるのが自然だ。

 正福寺の山門をくぐると真正面に古色蒼然とした地蔵堂が視界に入る。入母屋造で柿葺の屋根の四方先端が鋭く反った、端正な仏堂である。かつてはこの地蔵堂が本堂だったが、現在ではその奥に1987(昭和62)年に新しく建造された本堂が建つ。

 地蔵堂の落慶は室町時代中期の1407(応永14)年。禅宗様と呼ばれる中国由来の建築様式で、それまでの「和様」に対して「唐様」とも呼ばれている。唐様の特徴は漆喰などの塗り壁をあまり使わず、木工を主として組まれていること。軒から覗く垂木が放射状に延び、軒は上部に向けて強く反っている。

 こうした唐様の類例の最たるものとしては、円覚寺舎利殿(国宝)があるが、正福寺地蔵堂のほうが少し先に建造されている。先の『千躰地蔵菩薩略縁起』には、〈当寺仏殿の如くなる堂ハ鎌倉円覚寺舎利殿 濃州虎渓山の外更ニなし〉(正福寺地蔵堂と同等の優れた仏堂は鎌倉の円覚寺舎利殿と虎渓山永保寺観音堂の他にはない)とあり、1814(文化11)年の『遊歴雑記』でも、〈希代の異作にして今に存じ一切の大工来り地蔵堂を見て細工の規矩模範とをり〉(稀に見る傑作であり、多くの大工の手本とするものだ)と、地蔵堂の建築美を称賛する記述が残る。

 ちなみに永保寺は岐阜県多治見市虎渓山町にあり、国宝に指定されている観音堂はやはり正福寺地蔵堂と時代、建築様式ともに類似している。

正福寺地蔵堂 著者撮影
正福寺地蔵堂 著者撮影

地蔵信仰の寺

 鎌倉五山と同等の仏堂を備えた正福寺は江戸時代まで、その格式、規模ともに京都・鎌倉の名刹と遜色ないものであった。だが、明治に入って人々の関心は文明開化に目がむき、前時代的な地蔵堂の存在はすっかり忘れ去れられていったようだ。

 東村山の古寺として埋もれていた地蔵堂だが1927(昭和2)年、東京府史蹟保存物調査の調査員によって偶然発見される。

 地蔵堂を発見した人物のひとりは稲村坦元という禅僧だ。彼は東京都や埼玉県の戦前戦中の文化財保護に尽力した人物で、戦時中における寺社の金属供出の回収免除に尽力した、日本仏教界の功績者である。

 発見時の地蔵堂は現在の柿葺きとは異なり、重厚な茅葺き屋根であった。円覚寺舎利殿よりも古く、建築様式も酷似していることから、関係者を驚かせた。地蔵堂は傷みが激しく、内部には本尊の地蔵菩薩を取り囲むように千体地蔵が安置されていた。1929(昭和4)年に国宝に指定。1933(昭和8)年からは解体修理工事に入り、創建時のオリジナルである柿葺きに復元されたのが現在の姿である。

 2009(平成21)年に赤坂離宮が国宝指定されるまで、戦後の東京都内の建築物では正福寺地蔵堂は唯一の国宝指定であった。

 地蔵堂はその名の通り、地蔵菩薩を祀る専用の仏殿である。先述のように本尊である像高4尺(約1.2m)の地蔵菩薩立像のほか、享保年間(1716年〜1736年)につくられた像高15〜30cmほどの小さな千体地蔵が祀られている。

 この千体地蔵のうち179体には地名の記載がある。現在の地名にあてはめれば、埼玉県所沢市、東大和市、東京都国分寺市、国立市、清瀬市など武蔵野全域にわたる。これらは、地蔵信仰をもつ個人が正福寺に奉納した証であり、農耕と地蔵信仰は密接な関係がある。

 地蔵の種類には、人々になりかわって農作業を手伝ってくれるとする、田植地蔵、草取地蔵などのほか、豊穣を祈る豊年地蔵などがある。また地蔵は庶民生活の守護神でもある。ここ武蔵野の地には古くから地蔵信仰が深く根付いていたと考えられる。

 近年、武蔵野では都市開発が進む。再び正福寺地蔵堂が現代社会の中に埋没するようなことは避けてもらいたいものだ。

 正福寺のように「知られざる名刹」の縁起を紹介したのが拙著『お寺の日本地図 名刹古刹でめぐる47都道府県』。併せてご覧いただければ幸いである。