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天皇杯の行方を決めた早慶2回戦の継投。リーグ戦取材から結果に至るプロセスを検証する

上原伸一ノンフィクションライター
早慶1回戦の試合前、神宮球場には早くから観客が詰めかけた(筆者撮影)

継投の布石になったか?2週間前の会見

 早稲田大学の通算46回目の優勝(法政大学と並ぶリーグ最多タイ)で幕を閉じた東京六大学野球秋季リーグ戦。筆者はシーズンを通して取材する機会に恵まれた。ここでは早大と慶應義塾大学がともに全勝で迎えた早慶戦、天皇杯の行方を分けた2回戦の継投についてお伝えしたい。

結果的に、早大からすれば、早川隆久(4年、木更津総合。楽天ドラフト1位)の八回からの投入が最終回の逆転ドラマにつながり、慶大からすれば、あとアウト1つで優勝というところで、木澤尚文(4年、慶應義塾。ヤクルトドラフト1位)から生井惇己(2年、慶應義塾)にスイッチしたことが裏目に出てしまった。

だが、これはあくまで結果であって、筆者が注目したのは、そこに至るまでのプロセスだ。

早慶戦史上に残る試合となった2回戦の後、先に会見場に現れたのは、敗れた慶大だった。堀井哲也監督はやや意気消沈しながらも前を見据え、いつものよく通る声で「全て私の責任です」と語った。その姿は潔く、昨年まで15年間率いたJR東日本で都市対抗優勝1度、準優勝3度の実績がある名将らしいものであった。

ではなぜ、九回2死一塁の場面で、八回から救援のエース・木澤から生井に交代したのか?実は、早川対木澤のドラフト1位同士の投げ合いになった1回戦の後、先勝した早大の小宮山悟監督が「最後は早川で」と言えば、慶大の堀井監督も「最後は木澤」と明言している。にもかかわらず、堀井監督が左の生井をマウンドに送ったのは、2つの理由があった。1つは前日の1回戦で木澤が、迎える左打者の蛭間拓哉(2年、浦和学院)に決勝2ランを浴びている。もう1つは、蛭間が左投手との相性が良くない、ということだった。

筆者は堀井監督の話を聞きながら、2週間前のあるシーンが脳裏に浮かんだ。慶大が法政大学との2回戦に引き分けた後の会見だ。早慶戦への意気込みを尋ねられると、堀井監督はこう答えた。「早川君をいかに打ち崩すかですね」。ところが、同じ質問に対し、瀬戸西純主将(4年、慶應義塾)は「全員で勝ちに行きます」。すると堀井監督は「瀬戸西の言葉で気持ちが変わりました。そうですね。全員で勝ちに行きます」とすぐに前言を撤回した。慶大といえば「エンジョイベースボール」だが、「全員野球」もチームに根付いている。今年も部員174人と大所帯となった中、ベンチを外れた選手が献身的にサポートに徹し、チームを支えた。

たとえ際立った「個」がいたとしても、「個」と「個」で戦うのではなく、チーム全員で勝ちに行く。堀井監督の継投にはこれがあったのではないか。加えて、早大が“早川のチーム”だったのに対し、慶大は“木澤のチーム”ではなかった。好守の遊撃手・瀬戸西がいて、打者には1年生ながら今秋2本塁打を放った廣瀬隆太(慶應義塾)や来年のドラフト候補・正木智也(3年、慶應義塾)らがいた。ベストナイン選出者は、早大が2人だったの対し、慶大は4人。「ピッチャー木澤に代わりまして、生井が入ります」。予期せぬ場内アナウンスにスタンドはどよめいたが、堀井監督、慶大にとっては必然の継投であったと考える。

固い絆で結ばれていた師弟関係

一方、「最後は早川」を貫いたのが早大の小宮山監督だ。優勝の瞬間、マウンドにいたのは想定通り、早川だった。ただ、前日の1回戦で1失点15奪三振の早川が救援登板したのは、1点ビハインドの八回、2死一、二塁の場面。1点差であったが、打線がここまで計3安打と振るわず、敗色濃厚だった。「奇跡でも起きないと…」。小宮山監督は「最後は早川」というシナリオ通りにいかないことを半ば覚悟していたという。

しかし、早川が無失点で切り抜けると、早大は息を吹き返す。ベンチ全体が「いける」というムードになり、九回2死から蛭間の劇的な逆転2ランが飛び出した。もちろん、ムードや気持ちだけではホームランは生まれない。2日連続で決勝弾を打つこともできない。外の真っ直ぐを狙いながら、初球のスライダーに対応できたのは、蛭間に高い技術があったからだ。それでも、早川の登場がこの一打を後押したのは確かだろう。

それにしても今年の、特に秋のシーズンでの、小宮山監督の早川への思い入れは強かった。評論家時代は辛口で知られていたが、賛辞も惜しまなかった。「生まれ変わったら早川になりたい」。「20年に1人の逸材」ー。2人の師弟関係は固い絆で結ばれており、早川は「小宮山監督に出会って運命が変わった」と口にする。早川は小宮山監督が就任する前の2年時まで、リーグ通算2勝6敗だった。その絆の強さに触発されたか、ある会見の冒頭で記者がいきなり「今日の早川君ですが?」と質問し、「まずチームのことでなく、早川?」と小宮山監督が苦笑する一幕もあった。

秋の早慶戦は2試合とも上限いっぱいの1万2千人の観衆でスタンドが埋まった。写真は2回戦、試合開始1時間前の様子(筆者撮影)
秋の早慶戦は2試合とも上限いっぱいの1万2千人の観衆でスタンドが埋まった。写真は2回戦、試合開始1時間前の様子(筆者撮影)

早川のワンマンチームにならなかった理由

小宮山監督のもとで心技ともに成長した早川は、ドラフトで4球団競合の末の「ドライチ」という最高の結果を得た。一方で、残っている宿題もあった。エースとして、主将として早大を優勝させることだ。早川は入学以来、リーグ優勝を経験していない。小宮山監督からすれば、手塩にかけた早川を優勝投手にすることで、師弟の物語が完結する。「真の大学野球のエース」として送り出すには、全勝同士でぶつかる早慶戦はこの上ない舞台だった。

前述した通り、今年の早大は早川のチームだった。もっと言えば、小宮山監督と早川のチームだったのかもしれない。早川は投げるたびに活躍し(この秋は6勝無敗で、防御率はリーグトップの0.39)、主将だったこともあり、試合後の会見に姿を見せるのもほとんどこの2人。会見の話題も早川の投球内容が中心で、筆者は(他の選手はどう思っているのか?ワンマンチームにならないのか…)と感じていた。

そうならなかったのは、小宮山監督が技術だけでなく、早稲田の精神や“早稲田のエース学”も早川に注入したからだろう。早川は自分の投球についてはいつも言葉少なで、口をついて出るのは「優勝したい」であり、チームのことだった。

二浪の末に早大に入学した小宮山監督は在学時、今年、野球殿堂入りを果たした元早大監督の石井連藏氏の薫陶を受けた。2期13年間、監督を務めた石井連藏氏は、1960年秋の伝説の「早慶6連戦」も指揮した。普段は理論派だが、石井連藏氏のもとで、エースで主将だった小宮山監督の“早稲田愛”は並々ならぬものがある。早慶戦2週前の会見では自ら「早慶6連戦」に触れて、目頭を熱くしている。

小宮山監督は「心中」という、やや時代遅れな言葉を持ち出してまで早川にこだわり抜いた。それは絶対的な実力があったからだが、早川を通してチームに、令和の時代の選手に“早稲田愛”を伝えたかったのかもしれない。

天皇杯の行方を決めた、秋の早慶戦2回戦の継投。そこに至るプロセスは深いものがあった。

ノンフィクションライター

Shinichi Uehara/1962年東京生まれ。外資系スポーツメーカーに8年間在籍後、PR代理店を経て、2001年からフリーランスのライターになる。これまで活動のメインとする野球では、アマチュア野球のカテゴリーを幅広く取材。現在はベースボール・マガジン社の「週刊ベースボール」、「大学野球」、「高校野球マガジン」などの専門誌の他、Webメディアでは朝日新聞「4years.」、「NumberWeb」、「スポーツナビ」、「現代ビジネス」などに寄稿している。

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