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【追悼】ザ・ドリフターズにとって志村けんとはなんだったのか

てれびのスキマライター。テレビっ子

志村けんさんが、29日、東京都内の病院で亡くなりました。

追悼の意を込めて、以前「水道橋博士のメルマ旬報」に寄稿した「ザ・ドリフターズにとって志村けんとはなんだったのか」を一部修正の上、転載します。

ザ・ドリフターズにとって志村けんとはなんだったのか

一定の年代より下の世代にとって、ザ・ドリフターズといえば、いかりや長介、加藤茶、志村けん、仲本工事、高木ブーの5人。荒井注が中心メンバーの一人だったというのを知識では知っているが実感はない。ドリフのエースは志村けん、というイメージが強い。だから、志村けんが元々はドリフのボーヤであり、荒井注が脱退した代わりにドリフのメンバーに抜擢された、といわれてもピンとこない。

実際のところザ・ドリフターズにとって志村けんとはどんな存在だったのか。

『8時だョ!全員集合』が始まる1年前の1968年2月。

志村はいかりやの自宅を苦労して調べ、新宿から30分トボトボ歩いて、いかりやを訪ねた。

しかしいかりやは仕事で留守。仕方なく志村は玄関口で12時間待ち続けた。雪の降る寒い日だったという。

ようやく現れたいかりやの顔の迫力に驚きながらも、弟子入りを志願した志村にいかりやは「ボーヤで苦労する気があるのなら」と答えた。「ちょうど辞めそうなのがいるからその時連絡する」と。

志村のもとに連絡が入ったのはそれからわずか1週間後のことだった。

後楽園ホールに呼び出された志村は新しいボーヤとしてメンバーに紹介された。

まだ高校の卒業を控えていた志村は「4月からやらせていただきます」というと、「バカヤロウ、明日からだ!」とさっそくいかりやの雷を浴びたのだ。

志村けんが芸人を志したひとつの要因は父親への反発だった。

志村の父は小学校の教頭を務め、柔道5段で堅く封建的で厳格だった。だから家庭内で志村は笑いに飢えていた。

そしてそんな父親を見て、毎日決まった時間に職場に行って帰ってきて、同じような生活をするのは耐えられないと思っていたという。

そうして「人を笑わせる仕事につきたい」と思うようになった中学の頃、父親は交通事故に遭い、その後遺症でボケが始まってしまった。

「あの頃のオヤジは、校長の試験を受けるといって、学校から帰ったらすぐに自分の書斎にこもってた。でも、だんだん記憶がおかしくなってイライラしてきて、そのうち僕のことも誰だかわからなくなってきた。(略)「どちらさんですか」っていうのと、もう飯を食ったのに「飯はまだかい」っていうのと、それしか言わなくなってきて、みんながあまり近寄らなくなると、今度はおふくろに乱暴するようになった。」(『変なおじさん』)

そんな症状だったから志村が「ドリフターズの付き人になる」と言っても父親は反対をしなかった。

ちなみに志村の本名は志村康徳。芸名である志村けんは父親の本名「志村憲司」からとったものである。そして後に彼の代名詞となる「変なおじさん」はボケ始めた頃の父親がモデルだという。

そんな志村が新しい親として選んだのがいかりや長介だったのだ。

『全員集合』開始前の土曜8時はフジテレビの『コント55号の「世界は笑う」』が視聴率30%を超える人気を誇っていた。そんな状況で新番組作りを任されたTBSプロデューサーの居作昌果はハプニングとアドリブの笑いを得意とするコント55号の笑いに対抗して、時間をかけて徹底的に作り上げた笑いを作ろうと考え、設定ごとに徹底的にギャグを考えるのが好きないかりや長介が率いるザ・ドリフターズをその主役に選んだのだ。

しかし当時のコント55号とドリフは因縁浅からぬ関係だった。終了したドリフの番組(『進め!ドリフターズ』『突撃!ドリフターズ』など)の後番組はことごとくコント55号が務め、成功を収めていた。明らかに勢いはコント55号にあった。

だから当初、いかりやをはじめドリフのメンバーはコント55号の裏番組を始めることに難色を示していた。

はじめから失敗することばかりを考えるいかりやに居作は思わず言ってしまう。

「たしかに55号とドリフじゃあ、今は、月とスッポンかも知れない。だけどスッポンが月に勝てないと決まってるわけじゃない」(『8時だョ!全員集合伝説』)

そんな言葉に奮起したのか、いかりやは『全員集合』の開始を決意する。

この番組開始から程なくして志村は一度ドリフのボーヤから“脱走”した。居作によれば芸人を志したのにいっこうにお笑いをさせてもらえない状況に「あせり始めた血気盛んな志村」が「ボーヤ仲間を誘ってドリフターズを離れ、旗揚げしようと考えた」行動だったという。しかし、誘った仲間のボーヤが裏切りついて来なかった。結果、その後1年間、サラリーマンやバーテンなど職を転々することになった。

しかし、志村本人から言わせるとやや事情が違う。

高校を出てすぐに付き人になったから、世の中のことを何も知らないことに対する不安があった、のだという。当時のコメディアンは、みんな職を転々として苦労しているという話を耳にしていた志村は自分も「1年間他の仕事をやってみたい」といかりやに申し出る。しかしいかりやは「必要ない」と相手にしない。だから別の付き人に「1年で帰ってくるから」と言い残し、一旦ドリフの付き人から“家出”した。

約束通り1年で戻ろうとしたら「志村は逃げた」ということになっていたため、信頼していた加藤茶に頼み口利きをしてもらいドリフの付き人に復帰。そのまま加藤のもとで居候生活を始める。

志村がいなかった1年間でドリフと『全員集合』は大ブレイク。同番組は視聴率で『世界は笑う』を抜き、コンスタントに30~40%を記録するまでになっていた。特に加藤茶の人気はものすごく「1、2、3、4、やったぜ加トちゃん!」「ウンコチンチン」「チョットだけョ」などのギャグが次々と流行していった。

この成功をいかりやは「ドリフの笑いの成功は、ギャグが独創的であったわけでもなんでもなくて、このメンバーの位置関係をつくったことにあると思う」と冷静に振り返っている。

「私(いかりや)という強い『権力者』がいて、残り4人が弱者で、私に対してそれぞれ不満を持っている、という人間関係での笑いだ。嫌われ者の私、反抗的な荒井、私に怒られまいとピリピリする加藤、ボーッとしている高木、何を考えているんだかワカンナイ仲本。メンバー5人のこの位置関係を作り上げたら、あとのネタ作りは楽になった」(『だめだこりゃ』)

居作も同様に「荒井注がいた時代は、加藤茶が主役ではあったが、加藤のひとり舞台というコントはなかった。五人のアンサンブルの中で、加藤が笑いを取るという形だった」と分析している。

しかし、ドリフ絶頂の1973年、荒井注が「体力の限界」を理由に引退を申し出る。いかりややスタッフらが必死で説得するが決意は固く、翌年3月まで引退時期を延ばすのがやっとだった。

困ったいかりやが荒井の代役として白羽の矢を立てたのが志村けんだった。

当時志村はボーヤ仲間とマック・ボンボンとしてドリフの前座をしていたのが認められテレビにレギュラー出演。しかし、ネタの数も乏しかった彼らは出番をどんどん削られ失意の相方が蒸発。志村は2代目の相方を同じくボーヤの中から選びマック・ボンボンを続けたがやる気があるかないか分からない相方に翻弄された挙句、解散したばかりだった。

志村は73年12月から「見習い・志村けん」として『全員集合』に出演を始め、74年3月、荒井注の引退に伴って、ドリフターズに正式に加入した。

しかしドリフの笑いはいかりやが分析するように「メンバーの個性に拠りかかった位置関係の笑いだから、荒井の位置に志村けんを入れたからといって、そのままのカタチで続行できるものではなかった」(『だめだこりゃ』)。

その結果、志村は加入から2年近くにわたって苦しむことになる。当時を志村はこう述懐している。

「(自分が出てくると)お客が身を乗り出して見てたのに、僕が出たとたんにサーッと引いて、シーンとなる。それが手にとるようにわかるから、つらかった。どうしても荒井さんと比べられるから、何をやってもダメで、悲惨だった。とんねるずの石橋貴明も、あのころ公開収録を見に来て、『つまんないよ、あの髪の長いやつ』って言ったそうだから」(『変なおじさん』)

それと呼応するように『全員集合』の視聴率も徐々に低迷(もちろんそれでも高視聴率だが。)していった。それに追い打ちをかけるようにフジテレビで『欽ちゃんのドンとやってみよう!!』がスタート。遂に視聴率で抜かれるようにもなった。

窮地のドリフを救ったのは、志村けんだった。

苦戦の続いたドリフは1975年夏に「夏休み」と称して1ヶ月半活動停止をしメンバーで合宿を敢行。リフレッシュの末、やがて志村が認知され、いよいよ「笑いに関しては素人の集まりでしかなかったドリフだったが、今思えば、この志村だけが、本格的なコメディアンの才能をそなえていたのかもしれない」(『だめだこりゃ』)といかりやが評する志村の才能が開花し始める。

1976年3月、ちょうど志村がドリフに正式加入して2年が経とうとしていた。

「東村山音頭」の誕生である。

これをきっかけに志村の快進撃が始まった。「ディスコばあちゃん」「ヒゲダンス」「カラスの勝手でしょ」などを次々とヒットさせ、ドリフは再び息を吹き返したのだ。

しかし一方で、この志村のブレイクは、ドリフの笑いそのものを大きく変えることになった。

前述のとおりこれまでメンバーの「関係性」で笑いを作っていたドリフが、個性と動きで笑わせる志村が主役のキャラクターコントに変わっていった。

「コント全篇が志村けんのひとり舞台」となり、その中でギャグが展開されていた、と居作は分析する。

「荒井が抜けたとき、ドリフの笑いの前半は終わったという気がする」といかりやは述懐する。「志村加入以後は、人間関係上のコントというより、ギャグの連発、ギャグの串刺しになっていった」(『だめだこりゃ』)。

そしてこの志村のブレイクはメンバー間の人間関係にも微妙な変化をもたらしてしまった。

ボーヤあがりだったため「おい、志村」などと呼ばれていた志村が、「けんちゃん」「志村くん」と呼び名が変わり、やがて「志村さん」と呼ばれていく。

お笑い芸人として成長し、芸人としての自我と自信を持ち始めた志村と、いかりやとの間に笑いのギャップが生まれるようになってきた。今まで、言われたとおりにやってきた志村が親に反抗するように、いかりやの意見に背くようになっていった。

そして遂に決定的な決断が下される。

フジテレビでは『オレたちひょうきん族』が開始され、その勢いが注目され始めた頃だった。

いかりやが「俺はもう疲れた」「まかせるから、そっちで何とかやってくれないか」と告げたのだという。

それを受け居作は、毎週木曜日に行われていた会議からいかりやを休ませることにしたのだ。

他のメンバーも異存はなかった。しかし、仲本工事だけは「絶対モメると思うよ」「長さんって、そういう人だから」と、反対した。

その不安は的中する。

「疲れた」と口にするのはいかりやの口癖のようなものだった。疲れているのは解っている、けど、頼れるのは貴方だけだ、そう言われてまた奮起する。それがいかりやにとっては心の拠り所だったのだ。しかし、この時は、額面通りに受け取られ、「休め」と言われてしまう。

今まで子どものように自分を頼ってきていたメンバーやスタッフから“肩たたき”にあった。

いかりやはそう感じたのだ。

「わかったよ。みんな、俺がいらないって言うんだな」

以降、ドリフのコントは加藤茶と志村けんが中心となって作られていくようになった。ちなみにこの時期からフジテレビで放送されていた『ドリフ大爆笑』でも、「いかりや・仲本・高木」と「志村・加藤」それぞれのコントが多くなり5人揃ったコントがほとんどなくなっていった。

やがて『ひょうきん族』の勢いが加速し、遂に1985年『全員集合』が終了。総集編を挟み、加藤茶、志村けんによる『カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が既定路線のようにスタートしていった―――。

もちろんザ・ドリフターズはこの後も活動を続けるが、以前のような結束が戻ることはなく、各自のソロ活動、ユニット活動に移行していった。いかりや長介はその後、子離れするかのごとく、お笑いの世界から離れ、性格俳優として大成していく。

ドリフの窮地を救った志村は、やがてドリフを変え、ドリフに引導を渡すこととなった。

新しい親としていかりやを選び、芸人として育てられた志村は反抗しながらやがて親を越え、親殺しするかのようにドリフを巣立ち自立した。

そして、その親の果たせなかった意思を継ぐように60歳を越えてもバカをやり続け、生涯お笑い一筋の人生を邁進しているのだ。(初出:「水道橋博士のメルマ旬報」2012年12月25日)

(参考文献)

・『だめだこりゃ』(著:いかりや長介)

・『変なおじさん』(著:志村けん)

・『8時だョ!全員集合伝説』(著:居作昌果)

・『笑芸人』(Vol.1)「特集:土曜8時テレビ戦争」

ライター。テレビっ子

現在『水道橋博士のメルマ旬報』『日刊サイゾー』『週刊SPA!』『日刊ゲンダイ』などにテレビに関するコラムを連載中。著書に戸部田誠名義で『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』(イースト・プレス)、『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』、『コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(コア新書)、『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『笑福亭鶴瓶論』(新潮社)など。共著で『大人のSMAP論』がある。

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