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「愛したものに救われた」泥のような生活や逆風から「ザ・マミィ」という生きる居場所を手に入れるまで

てれびのスキマライター。テレビっ子
“「M」(マミィ)ポーズ”を作るザ・マミィ。林田洋平(左)と酒井尚(右)

【シリーズ・令和時代を闘う芸人(3)】

「ザ・マミィ」インタビュー(前編)

ハナコやかが屋、ゾフィー、空気階段と、いま新世代のお笑い芸人の中でコント芸人たちの台頭が目覚ましい。

その一角として注目を浴びているのが林田洋平と酒井尚によるコンビ「ザ・マミィ」だ。

ザ・マミィは人力舎所属のお笑いコンビ。酒井が扮する強烈なキャラを活かしたキャラクターコントを得意としている。

昨年、民放各局の番組制作者らが審査員を務める「第1回ツギクル芸人グランプリ」では、かが屋、納言、宮下草薙、馬鹿よ貴方はなど錚々たる決勝進出者を抑えて優勝を果たした。

その勢いのまま挑んだ『キングオブコント』は、決勝進出が有力視されていたものの準決勝で惜敗。今年も精力的にコントライブなどを開催し、その雪辱を誓っている。

「ザ・マミィ」ができるまで

もともと、2人は人力舎の養成所「スクールJCA」の24期生として出会い、トリオ「卯月」としてデビューした。

林田: JCAを選んだのは、なんか吉本は怖いなと(笑)。あとはずっとおぎやはぎさんが好きだったので。

酒井: 僕は元々、前に出て目立つタイプの人間じゃなかったので。言い方は悪いですけど、何かクラスの隅っこにいるような人たちが多い事務所だなと(笑)。じっくりと練り上げたものを作っているみたいな職人肌っぽい事務所なら僕も馴染めるかなあと思ってJCAに入りました。

林田: 入学当時は150人くらいいて、スタートの時点で2クラスに分けられたんです。割と華のある小綺麗な人を集めたクラスと、見た目の汚い奴らを集めたクラス(笑)。

酒井: 林田さんも今では小綺麗ですけど、その頃は、ヒゲをもじゃもじゃ生やしてた。

林田: そう。何か無精ひげみたいなのを生やして、ちょっとセンスを出してましたね(笑)。なので僕らは2人とも汚い方のクラスで。

酒井: バケモノの寄せ集めみたいな(笑)。

林田: でも、あんまり酒井の第1印象は記憶にない。少し経ってなんか変な踊りをし始めたんです。だから最初は「変な踊りを踊る人」っていうイメージ(笑)。

酒井: 林田さんは他の人と組んでて、しっかりしているネタをやっていたので、「こういうタイプの人もいるんだ」という感じでした。

林田: だからお互い、組むなんてことは意識してなかったですね。

酒井: しばらくして林田さんが組んでいたコンビが解散したのを聞いて、僕らの足りない「大きな脳みそがいるぞ。引き込め!」と(笑)。

デビューからわずか2年目の2017年の『キングオブコント』で準決勝に進出するなど、若手の有望株として頭角を現していった。

翌年は決勝進出も有力視され、当然のように準々決勝まで進出。

しかし、お笑い界に激震が走る。

2018年8月、卯月は解散。準決勝を辞退したのだ。

林田: 解散の理由は……、僕らの視点でしかないので、「方向性の違い」というふわっとした理由しか言えないんですけど。『キングオブコント』でそのまま変に進むのも良くないと思って、準々決勝の段階で話し合って決断しました。「辞退」の情報が先に出てしまったので変な憶測も呼んでしまって。

酒井: 僕が何か犯罪を犯したんじゃないかとか(笑)。

林田: 「酒井がやらかしたに違いない」って(笑)。

傍目からは「卯月」から木場知徳(現:「大仰天」の木場事変)を「追い出した」ように見えるが実際は違う。先に解散だけが決まっていただけで、その先はまったく決まっていなかったという。もしかしたら、芸人を辞めていたかもしれない、と。それでもお互いに2人でやりたいという意志はあった。そこでゾフィーの上田が取り持つ形で2人が改めて話し合い、2018年9月「ザ・マミィ」が結成された。

コンビ名は「ゼロに戻ったというときに、原点まで戻ったら『母』なんじゃないか」(酒井)と命名。上田から「ゾフィー」の「ィ」をもらったという。プロレスラーの「ザ・マミー」とは「関係ないです」(林田)
コンビ名は「ゼロに戻ったというときに、原点まで戻ったら『母』なんじゃないか」(酒井)と命名。上田から「ゾフィー」の「ィ」をもらったという。プロレスラーの「ザ・マミー」とは「関係ないです」(林田)

ただお笑いが好き

もともと酒井は、『爆笑オンエアバトル』(NHK総合)を見てお笑いを好きになった。1999年に始まった一般審査員の投票(ボールを投入する形で行われ、その重さ=キロバトルとして数値化される)に応じてオンエアされるか否かが決められる厳しいルールで2000年代のお笑いネタブームの基礎を作った番組だ。

酒井: 小学4年生の頃、(出場者が獲得した)キロバトルをずっとノートに取っていて、誰がセミファイナルに、ギリギリ、ボール1個で行けなかったとかを分析してました。

林田: それでちょっと算数が得意になって、学校の成績も良かったらしいです。ボール1個が約4キロバトルとかで結構計算が複雑じゃないですか。だから数学ができるようになったらしい(笑)。

酒井: 100点しか取れなくなっちゃった(笑)。芸人さんでいえば、プラスドライバーさんとか好きでしたね。アルファルファさんとその後の東京03さん、ドランク(ドラゴン)さん、アンジャッシュさん、おぎやはぎさんとかはもうすごい見ていて。スマイリー(キクチ)さんとか、ユリオカ(超特Q)さんとかも好きで。あと、陣内(智則)さん‥‥、もうヤバい、いっぱいいますよ。でも、もっとさかのぼってルーツといえば志村けんさんの『バカ殿』ですかね。

―― 学校で芸人さんの真似をされていましたか?

酒井: 中学のときにレギュラーさんとかオリエンタルラジオさんを真似て、結構、きつい下ネタでやったりはしてましたね。

林田: やってたの? 結構、目立ってるじゃん。そういうのをやるタイプか。

酒井: いやいや、本当に端の奴らが3人ぐらいで集まって。本当につまんないですけれども、「俺の精子は茶色いよ。あるある探検隊♪」みたいな(笑)。

林田: ひど! 

酒井: イケイケメンバーと女子とかには見えないところで……。

林田: 本当に泥だな(笑)。僕は小さい頃は、夜早めに寝かされてたんですけど、『笑う犬』だけは父親のお気に入りで。「面白いから見ろよ」って見て好きになりました。「ネタ」という概念を知ったのは人より遅いと思います。小学3~4年のときのクラスで、栽培係とかと同じような形でなぜかボケ係とツッコミ係があったんですよ。

酒井: すごいな。

林田: その時点で、僕は「ボケ」と「ツッコミ」っていうものを知らなくて「なんなんだろう?」って思ってましたから。『笑う犬』はそういう意識なく見てて、小須田部長の最終回なんて感情移入しながら見て泣きました。それでもう少しあとになって、おぎやはぎさんのバラエティ番組でのスタンスがカッコいいなと思って、追うようになりました。

もともとラジオが好きだったんです。最初はAMが聴ける環境じゃなかったのでFMで、福山雅治さんとかも日曜の夕方(『福山雅治のSUZUKI Talking F.M.』)を聴いて。その後に『あ、安部礼司』とか『SCHOOL OF LOCK!』をめちゃくちゃ聞いていました。それで大学に入って電波が入る環境になって、おぎやはぎさんの『メガネびいき』とか有吉(弘行)さんの『SUNDAY NIGHT DREAMER』を聴き始めてハガキを出すようにもなりました。

―― それはいつ頃ですか?

林田: 大学時代なので6~7年前。ハガキ職人さんみたいに何かを課すように真剣にやっていたわけじゃなくて、趣味みたいな感じでした。でも当時は「ここにいるんだよ」っていう承認欲求みたいなものもあったんだと思います。大学生活もうまくいかなくて結果中退してしまうんですけど、ネタとか書いて送ったら読んで笑ってくれたりするので、それで「うおー! ここに自分は生きているぞ!」みたいな(笑)。それで好きな人が笑ってくれている。そういうのが楽しいっていうことに気づいて、今につながっているっていうのは絶対にありますね。中退する段階でお笑いの養成所に行こうと決めてました。別に辞めなくても良かったんですけど、格好良く言えば退路を絶って。格好悪く言えば、夢を口実に大学から逃げました。

―― 大学がうまくいってなかったというのはどういうところが?

林田: 結構、閉鎖的な感じだったんです。学園都市でそこですべてが完結してしまう。それで最初につまんないなと思っちゃったから、もう一定数の友人としかうまくいかなかったです。でも、それがあったから今があるので。多分、もし大学がうまくいっていたら、芸人になっていないかもしれないですね。あのときの何か気持ち悪い感じとかをどっかで出したいと思って芸人をやっています。ここが自分の生きる居場所だなって。

酒井: 僕は大卒なので、林田さんより学歴は上ですね(笑)。ただ、うちの大学は構内に入ると、黒い墨が入っている人とか、うんこ座りしてタバコ吸ってる人がいたりして、その瞬間「終わった…」と(笑)。なんというか、アニメーションとかなにかを突出して好きなオタクの人たちのグループとヤンキーグループで二分されてましたね。

林田: 全員、大学の外に軸足がある感じなんだ。どっちに行ったの?

酒井: パチンコ屋にずっといた(笑)。

林田: パチンコに突出してた(笑)。

酒井: そういう大学にいたから就活もあんまりやってなくて。でも4年生になったらヤンキーたちも黒髪に戻して就活をしてるんですよ。会社に入っても、こういう人たちと一緒に働かないといけないのかって思ったら、同じルートを辿りたくないなって。

林田: それはちょっとわかる。

酒井: 自分の好きなものをやれたらいいなというのはずっとあって、それでヒップホップか、お笑いに進むかで悩んで

林田: すごい天秤。究極の選択じゃん。

酒井: それでリリックを書いてみたりしたんですけれども、人生が薄っぺら過ぎて書けるものがあんまりなくて(笑)。

林田: 世の中に言いたいことがないんでしょ。怒っていることもないし。

酒井: 本当にそう。だから書けなくて、お笑いだったら、面白そうだし、何かできるかなって思ったんです。面白いと思われたいなって。本当に女性にも相手にされないで、唾をかけられて生きてきたんで。

林田: ドMみたいになっている(笑)。

酒井: いや、本当に僕は女子にイジメられていたんですよ。モテるのはやっぱり顔がカッコいい人だし……、何かいろんな悔しさがありました。それでお笑いなら全部ひっくり返せるんじゃないかなみたいな。面白いというのは一番、カッコいいだろうと。じゃあ、自分も面白くなりたいと思って芸人の世界に飛び込んだんです。

林田: 僕も完全に芸人さんが好きで、最初はラジオ局でバイトとかやっていたんですけど、僕は芸人さんがやりたいんだなと気付いて。本当に好きだからやりたいという感じなんです。

酒井: あ、そう、それだ。お笑いが好き過ぎた

林田: 色々、ああだこうだ言ってきましたけど、今、思い出しました。好きなことを仕事にしたいと思ったんです。

酒井: それです。

林田: ごめんなさい。途中で格好をつけました(笑)。

酒井: 「面白いというのは一番カッコいいだろう」とか思ったこともないです(笑)。

林田: すいません、ただお笑いが好きなだけでした

“逆風”からの脱出

  

そうして2人は芸人の道へ進み、前述のようにお笑いトリオ「卯月」としてデビュー。突如、解散を発表し、お笑いコンビ「ザ・マミィ」として活動を始めた。

「卯月」としてファンや関係者から期待を集めていた故、当初は強い“逆風”を浴びたという。

林田: もう最初の数ヶ月は本当にしんどかったです。今思えば自意識過剰だったかもしれないですけど、人の目もすごいキツく感じました。まあ、いいときに解散して、ちょっと期待していただいていた人たちもいたので。特に事務所のライブとかだと「2人でどんなものだよ」みたいな雰囲気がありました。そういうので勝手にプレッシャーも感じて、それでコンビのネタ作りもまだ慣れてなくて下手くそだったので、案の定、その時期は、めちゃくちゃスベったりもしました。でもそれは予想してたんです。「耐える時期が1~2年は続くと思うけど、折れずに頑張ろう」みたいな話をしていて、それに比べると割と早く受け入れてもらえてありがたかったですね。

酒井: 『オンエアバトル』の復活特番(2019年3月24日放送)で、拾ってもらえたのが大きかったですね。あれがザ・マミィとして確か最初のテレビ出演。

林田: ネタを作って、「いつもよりウケてるな。でも、まあ……」という感じだったんですが、意外にもオーディションを通って、正式に出していただけてオンエアも勝ち取ったので、周囲の見る目がガラッと変わりました。「この人たち、死んでないかも」という空気になりました。それまでは多分、半ば死体みたいな感じで見られてたんです。

酒井: 「533キロバトルかぁ」みたいな(笑)。

林田: 気持ち悪いんですけれども、いまだに覚えている。

酒井: 小さい頃、『オンエアバトル』を見てお笑いが好きになって、ずっと出たい番組だったんです。でも芸人になったら『オンバト+』とかも全部なくなっちゃって、「もう出られないんだ」と思って。そうしてるうちに僕らも「卯月」を解散して……。そしたら「復活特番やります。オーディション開催」みたいな。それでボーンと行ったら受かって。その場には審査員のところに今まで見てきた憧れの人たちもいて(※注:一般審査員に代わり、『オンバト』でオンエア歴のある芸人100人が審査員を務めた)。それで僕らのネタにボールを入れてくれているんですよ!  今でも泣きそうです。ちょっと本当に……ダメだ……。

―― あのときも泣いてらっしゃいましたね。

酒井: いやぁ、あの瞬間、本当にうれしくて、もう死んでもいいと思って。

―― 人生のピークが早めに来ちゃった(笑)。

林田: 本当にそうで、その時点で「人生の目標は達成した。あとは余生だ」と言われて、「えーっ?」と思って。「もう余生?」って。

酒井: あとは、酒を飲んで、ゆっくり死を待つだけ(笑)。

林田: そこから毎日、酒を飲み出して。

酒井: 本当に1ヶ月はずっと……。

林田: 「楽しかったけど、もう終わるんだな」と(笑)。そこから向上はないの? と思いました。「結構、早かったな」と思って。

酒井: いやあ、そうですね。だから本当に愛したものに救われたというか、あの瞬間、いろんな感情が爆発して。何か今日もそれで飲めそうですよね(笑)。

林田: 思い出して?

酒井: うん。でも本当にあの番組で「コンビでもやっていけるんだ」って思いました。

後編はこちら

画像

■ザ・マミィ

スクール JCA24期生。2018年にコンビを結成。

http://www.p-jinriki.com/talent/themommy/

Official YouTube Channel :https://www.youtube.com/channel/UCZjQ_c5GzgdCU_j1ZqGl-JQ

林田洋平(@rrrrice_99):1992年9月生まれ。長崎県出身。

酒井尚(@sakai__takashi): 1991年6月生まれ。東京都出身。

(取材・文)てれびのスキマ (編集・撮影)大森あキ 

(取材日)2020年1月下旬

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ライター。テレビっ子

現在『水道橋博士のメルマ旬報』『日刊サイゾー』『週刊SPA!』『日刊ゲンダイ』などにテレビに関するコラムを連載中。著書に戸部田誠名義で『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』(イースト・プレス)、『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』、『コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(コア新書)、『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『笑福亭鶴瓶論』(新潮社)など。共著で『大人のSMAP論』がある。

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