「五輪で許されても、四輪、二輪は許されないのは不公平」

トヨタ自動車の豊田章男社長が「日本自動車工業会(自工会)」の会長として発言した内容が大きな話題となった。

今年も続くコロナ禍で外国人に対する厳しい入国制限が課せられる中、五輪(東京オリンピック)の選手や関係者には入国が認められたが、F1、MotoGPなどの四輪、二輪のモータースポーツの選手や関係者には五輪のような特例がなく、予定通りの出入国が難しい見通しとなり、ほぼ全ての国際レースイベントは中止に追い込まれてしまったのだ。

五輪はOKで、なぜ四輪、二輪のモータースポーツはNGだったのか?

我が国は自動車、オートバイ大国であるにも関わらず、四輪、二輪のモータースポーツはなぜメジャーな存在になりきれず、世間から認められないのか?

その答えは日本のモータースポーツが歩んできた歴史の中にあるのではないかと筆者は考える。

2年連続で中止になった鈴鹿サーキットのF1日本グランプリ
2年連続で中止になった鈴鹿サーキットのF1日本グランプリ写真:ロイター/アフロ

国民的イベントを継続できなかった

日本でもモータースポーツが国民的人気を誇った時代がある。それは1960年代のことだ。

1962年(昭和37年)秋に日本初の国際レーシングコースとして「鈴鹿サーキット」が誕生し、1966年(昭和41年)には「富士スピードウェイ」がオープン。そこで開催されていたメジャーレースイベントが「日本グランプリ」である。

60年代の日本グランプリを走ったプリンスR380 【写真:DRAFTING】
60年代の日本グランプリを走ったプリンスR380 【写真:DRAFTING】

グランプリと言っても、今のF1日本グランプリとは全く異なるイベントで、日本一を決める、年に1度の自動車レース大会だった。トヨタ、日産、プリンス、いすゞなど自動車メーカーが威信をかけて参戦したレースは華やかで、観衆は10万人以上を動員した。当時の映像に映る観客たちを見ると、男性はジャケット着用でサーキットに来場したり、洋服でお洒落をしてレース観戦を楽しんでいる。

こういう所からも当時はモータースポーツの捉え方が現在とは全く異なっていたことが分かる。レーサーたちはアイドル並みの知名度と人気を集めており、人気女優と浮き名を流す選手も多かったという。世間の憧れの的だったのだ。

トヨタは日本グランプリにプロトタイプカー、トヨタ7で参戦した【写真:DRAFTING】
トヨタは日本グランプリにプロトタイプカー、トヨタ7で参戦した【写真:DRAFTING】

しかし、その華やかさは70年代には消失する。排気ガスによる大気汚染が深刻化し、自動車メーカーは環境に優しいクルマ作りに舵を切ることになり、トヨタと日産は1969年を最後にモータースポーツから撤退。1970年の「日本グランプリ」は中止になり、メーカー対決のド派手な自動車レースは10年もせずに突然、終焉を迎えてしまったのだ。

米国には「インディ500」やフランスには「ル・マン24時間レース」という、長年継続することで国民的レースになっていったイベントがある。しかし、残念ながら今の日本にはそういった国民的レースイベントは存在しない。これこそがモータースポーツが市民権を得られなくなってしまった大きな要因ではないだろうか。

コロナ禍でも大観衆を集めたアメリカの国民的レースイベント「インディ500」
コロナ禍でも大観衆を集めたアメリカの国民的レースイベント「インディ500」写真:ロイター/アフロ

暗黒の70年代 死亡事故と暴走族

華やかな時代の後は暗黒の時代があった。自動車メーカーの資金が止まり、サーキットやモータースポーツ業界は1970年代に一気にオワコンになってしまう。オイルショック(石油危機)も追い打ちをかけたのだ。

プライベートチームが主体になった「富士グランチャンピオンレース(富士GC)」などが人気を集めるが、1973年、74年と相次いでレース中の死亡事故が発生。今に比べるとレーシングカーやコースの安全性は極端に低く、60年代に花形だった人気レーサーたちがレース中、テスト中の事故などで相次いで命を落としていった。

1974年まで使用された富士スピードウェイの30度バンク
1974年まで使用された富士スピードウェイの30度バンク写真:Shimpei Suzuki/アフロスポーツ

死亡事故がセンセーショナルに報じられるなど、自動車レースはマスコミの標的となり、ネガティブなニュースは連鎖していった。

また、富士GCには暴走族が来場するようになり、オーバーフェンダーを装着した違法改造車に乗る若者たちがサーキットを溜まり場として利用するようになってしまったのだ。モータースポーツと暴走族を同列に捉える固定観念が出来上がったのが1970年代である。

こういった背景もあり、自動車メーカーはモータースポーツから距離を置くようになってしまったのだ。彼らが表舞台に戻ってくるのは1980年代の中盤のこと。この失われた15年ほどの間に、モータースポーツに対する世間の印象は大きく様変わりしてしまった。

1977年の富士スピードウェイで開催されたF1。観客の死亡事故が発生し、日本でのF1開催は1987年まで途絶えることになる
1977年の富士スピードウェイで開催されたF1。観客の死亡事故が発生し、日本でのF1開催は1987年まで途絶えることになる写真:山田真市/アフロ

ブームはバブルと共に終焉

1980年代になると環境問題への対応もひと段落し、自動車メーカー、オートバイメーカーは急増する若者たちをターゲットに、モータースポーツを使ったプロモーションを積極的に行うようになっていく。

オートバイレースでは鈴鹿8時間耐久ロードレース(鈴鹿8耐)が大人気イベントになり、勢いに乗った鈴鹿サーキットはF1やロードレース世界選手権(WGP)を開催した。

1980年代は若者のバイクブームで鈴鹿8耐が大人気になった【写真:MOBILITYLAND】
1980年代は若者のバイクブームで鈴鹿8耐が大人気になった【写真:MOBILITYLAND】

この時代は本当にすごい。1980年代後半から90年代前半はF1をフジテレビが全戦中継し、ル・マン24時間レースをテレビ朝日が放送し、インディ500をTBSが放送。モータースポーツを題材にしたCMや映画、ドラマが地上波テレビで多数放送され、モータースポーツが再びお茶の間に登場するようになったのだ。

しかし、1994年のアイルトン・セナの事故死を機にトーンダウン。F1ブームは去り、二輪レースも1990年代をピークに人気が下降線を辿っていった。

日本のF1ブームを牽引したアイルトン・セナは1994年にレース中に事故死
日本のF1ブームを牽引したアイルトン・セナは1994年にレース中に事故死写真:Shutterstock/アフロ

以後は、2000年代にF1、MotoGP、インディカーなど様々なモータースポーツが地上波テレビで紹介され、注目される機会はあったものの、1990年代前半のようなブーム再来には至らぬまま今日まで来ている。それどころか、地上波テレビによるモータースポーツ中継はほぼ絶滅している状態であり、モータースポーツは一部の人しか楽しめない、マニアな世界になってしまっていることは否定できない事実である。

これを見出しにしてくださいよ

自工会の会長として、経営者として、豊田氏はこういった歴史的背景やモータースポーツの現状を当然理解しているはずだ。しかし、本来なら水素エンジン搭載のカローラ・スポーツを説明する記者会見で、質問に答え、あえてメディアにこう強調した。

「五輪で許されても、四輪、二輪はなぜですか?これを見出しにしてくださいよ」

この言葉は記者会見場に大きな笑いを巻き起こした。ジョーク混じりの返答ではあったが、メディアにとってみれば「キャッチーな、その一言頂きました」という感じだろう。案の定、その日のうちにメディアはこぞって記事を配信し、テレビもこの発言を取り上げたのである。

(YouTube/ 豊田氏の発言があった記者会見。上記のやりとりは43分過ぎから)

タイトルだけを切り取れば五輪への挑発と勘違いされがちな豊田氏の発言だったが、その真意は五輪のアスリートと同じように、二輪、四輪のモータースポーツアスリートも同じように入国できるよう配慮して欲しかったという思いを述べたものである。

なぜなら、今年は世界三大自動車レース(モナコGP、インディ500、ル・マン24時間)全てで日本メーカーが優勝した記念すべき年でもある。1960年代から本格的に始まった日本のモータースポーツの人気は下降線かもしれないが、技術レベル、日本人選手のレベルは確実に上昇している。そう、60年前は夢物語だった世界がようやく現実になっているのだ。

五輪だけではなく、偉業を達成した二輪、四輪のモータースポーツ活動、そしてレーシングドライバーというアスリートにも目を向けて欲しい。豊田氏の発言にはそんな思いも含まれていた。

豊田章男社長が自らステアリングを握りレースに出場する、水素エンジンのカローラ・H2コンセプト【写真:DRAFTING】
豊田章男社長が自らステアリングを握りレースに出場する、水素エンジンのカローラ・H2コンセプト【写真:DRAFTING】