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最も偉大な女性レーサー、ダニカ・パトリックが引退。ダニカが作った記録、ダニカが変えた世界。

辻野ヒロシモータースポーツ実況アナウンサー/ジャーナリスト
インディ500で引退したダニカ・パトリック(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

2017年、佐藤琢磨が優勝したことで再び日本でも注目を浴びた米国最大の自動車レース「インディ500」(インディアナポリス500マイルレース)。今年で102回目という長い伝統を誇るレースで、「世界三大自動車レース」の一つに数えられる。5月27日(日)に決勝レースが開催された2018年のインディ500に引退レースとして参戦したのが、アメリカ人女性ドライバーのダニカ・パトリック。最後のレースを優勝が狙える7番グリッドからスタートしたダニカは68周目に単独のクラッシュを喫し、リタイア。有終の美とはならなかったが、偉大な彼女のレーシングキャリアを振り返っておこう。

動画:第102回インディ500 ハイライト (Indycar公式YouTube)

ダニカ・フィーバーが巻き起こった

近年、日本では米国インディカーシリーズの開催が無いためか引退に関する報道が少なかったが、女性レーシングドライバー、ダニカ・パトリックの活躍はかつて新聞や雑誌、コラムなど日本の各メディアでも盛んに取り上げられていた。なぜなら、彼女は女性ドライバーとして歴史に残る活躍を見せていたからだ。

全盛期となったインディカー時代。モーターホームに描かれたダニカの写真
全盛期となったインディカー時代。モーターホームに描かれたダニカの写真

アメリカ・ウィスコンシン州で生まれ、10歳でレースキャリアをスタートさせたダニカ・パトリックは16歳で学校を中退して単身イギリスに渡り、フォーミュラカーのレースに参戦。F1が頂点のヨーロッパの環境に身を置き、レーシングドライバーとしての経験を積んだ。しかし、不運も重ってヨーロッパでは成功できず、舞台を母国アメリカへと戻す。

アメリカで彼女にチャンスを与えたのはジャガーF1チームの元代表であり、ヨーロッパ修行中に彼女を支援したボビー・レイホール(1986年インディ500ウイナー)。自らのチームでインディカー傘下のオープンホイール(フォーミュラカー)レースにダニカを参戦させ、2005年にアメリカ最高峰のレース「インディカー」にデビューさせた。

ダニカをインディカーへと導いた元インディ500ウイナーのボビィ・レイホール
ダニカをインディカーへと導いた元インディ500ウイナーのボビィ・レイホール

そこからダニカ・パトリックの名前が全米はもちろん世界中に知れ渡ることになる。初参戦のインディ500を4番手からスタートしたダニカは19周に渡ってトップを走行。女性として初めて複数周回のリードラップ(首位走行)という記録を達成した。アメリカのモータースポーツでは首位走行は重要な記録の一つとして認識されており、女性ドライバーがルーキーイヤーでいきなりの活躍を見せたことで全米に「ダニカ・フィーバー」が巻き起こることになった。

その後、トップチーム「アンドレッティ・グリーン・レーシング」に移籍したダニカは常に優勝争いに絡む活躍を見せ、年を追うごとに年間ランキングは上昇。ファンの関心は「彼女がいつ勝利するのか」に集まっていき、まさにインディカーの中心人物になっていったのだ。

アンドレッティ・グリーンレーシングに移籍し、トップドライバーへの道を歩んだダニカ・パトリック
アンドレッティ・グリーンレーシングに移籍し、トップドライバーへの道を歩んだダニカ・パトリック

ツインリンクもてぎで初優勝を達成

ダニカ・パトリックはインディカー初優勝をなんと日本で成し遂げることになる。エンジンを供給するホンダのお膝元、ツインリンクもてぎ(栃木県)で毎年開催されていた「インディジャパン」だ。

2008年の「インディジャパン」は悪天候のレースウィークエンドになった。オーバル(楕円形)のコースをハイスピードで走るインディカーは路面が濡れた状態では走行できない。決勝日の天候は回復したものの、降り続いた雨の量が多く、コース上に水が染み出し、走行不能に。インディカーでは決勝日が天候を理由に開催できない場合、翌日に開催することになっていたため、この大会は異例となる月曜日の開催となった。

そんな中、残り周回数を考えると燃料はギリギリもつか持たないかというタイミングで最後のピットインと給油を行ったダニカは、同じ作戦のエリオ・カストロネベスと優勝争いを展開。残り2周でカストロネベスは残り燃料が厳しくなり、失速。ダニカはトップに立ち、初優勝を成し遂げた。

インディジャパンで優勝したダニカ・パトリック(中央)【写真:MOBILITYLAND】
インディジャパンで優勝したダニカ・パトリック(中央)【写真:MOBILITYLAND】

波乱のレースウィークエンドで、アメリカを離れた日本でのレースではあったが、ダニカ・パトリックは女性ドライバーで史上初めてインディカーの優勝を達成。翌2009年には「インディ500」で女性ドライバー最上位記録となる3位フィニッシュを果たすなど、存在感だけでなく記録の上でもインディカーのトップドライバーへと成長を遂げた。

ダニカはインディカーに2011年までシリーズ参戦。一時は並行してNASCARにも参戦するという超多忙っぷりだったが、2012年からはインディカーを離れてNASCARに完全転向。2013年はNASCAR最高峰「カップ」シリーズのレギュラードライバーとして活躍。引退を決めた今季はNASCARの「デイトナ500」、インディカーの「インディ500」という両シリーズの最重要イベントに絞って出場していた。

NASCARネイションワイドシリーズ時代のダニカ・パトリック
NASCARネイションワイドシリーズ時代のダニカ・パトリック

最も成功した女性ドライバー

ダニカ・パトリックはモータースポーツの歴史の中で「史上最も成功した女性レーシングドライバー」である。これは誰も疑う余地はない。そして世界的な知名度でも彼女以上の女性レーシングドライバーは居ない。

ダニカ・パトリックはインディカーにデビューした当時から、様々なメディアに積極的に出演。エキゾチックなルックスを活かし、水着姿で雑誌のグラビアに登場したこともあった。「モデルとしても活躍する」と紹介されることも多く、美しさと時速400kmの世界に挑むギャップは普段レースを見ない人にとっても分かりやすく、子供達やファミリーの人気者になっていく。

ファンサービスに応じるダニカ・パトリック
ファンサービスに応じるダニカ・パトリック

また、彼女の存在感溢れる闘志むき出しの表情や姿勢は「強い女性」の象徴的な存在になっていった。アメリカの人気ラッパー、JAY-Zのミュージックビデオではアメリカの人気NASCARドライバー、デイル・アーンハートJr.とスポーツカーでカーチェイスを演じるなど、ダニカ・パトリックは女性レーシングドライバーとしての新しいイメージを作り出した選手と言える。

JAY-Z「SHOW ME WHAT YOU GOT」(2006年/JAY-Z公式YouTubeより)

そんなロールモデルとしてのダニカに続くフォロワーがその後「インディ500」に多く参戦。シモーナ・デ・シルベストロ(スイス)やピッパ・マン(イギリス)など若手の女性ドライバーが「インディ500」に挑戦し、2010年には全33人の「インディ500」スターティンググリッドを、ダニカを含む4人の女性ドライバーが占めるほどになった。しかしながら、ダニカ・パトリック以上の成功を誰もおさめられていないのが現状だ。

インディジャパン優勝のフォトセッション【写真:MOBILITYLAND】
インディジャパン優勝のフォトセッション【写真:MOBILITYLAND】

批判とブーイングを乗り越えて

ダニカは各方面から賞賛を集める一方で、アメリカのファンや関係者からは痛烈な批判を浴びせられることも多かった。2008年の「インディジャパン」で優勝した時には、燃費で勝り、優勝が転がり込んできたかのような展開に、彼女の小柄な体と軽い体重がレースの中で優位性を持ったという論争が起こったほどである。

世間的には人気者でありながら、ダニカ・パトリックの選手紹介では拍手と同時にブーイングが起きる。観客席にはその日一番の力を振り絞る勢いでブーイングを送る男性ファンがいるのだ。好き嫌いがハッキリしているアメリカのファンならではと言える現象だが、好きも嫌いも同じくらい居るというのはダニカが注目を集めている裏返しでもあった。

ダニカ・パトリックは時にライバルに対して闘志を剥き出しにした。
ダニカ・パトリックは時にライバルに対して闘志を剥き出しにした。

ちなみに、自動車レースの世界でその道の最高峰まで辿り着ける女性ドライバーは決して多くない。F1では公式戦に出走した女性ドライバーは過去5人しかおらず、1992年のジョバンナ・アマティ(イタリア)がブラバムから数戦出場したのが最後(全て予選落ち)で、26年のブランクがある。入賞を果たしたのは1976年のレラ・ロンバルディ(イタリア)の6位が最後だ。

また、「インディ500」では先述のように女性ドライバーの出場が一時期ブームになったものの、過去102回の歴史で女性の決勝レース出場者は僅か9人だけである。特に「インディ500」は歴史を振り返ると女性の観戦すらも許されない女人禁制の時代が長く続き、観戦ができるようになっても女性がパドックに入場することすら許されない時代があった。最初の女性レーシングドライバー、ジャネット・ガスリーが出場したのは1977年、なんと第61回大会のことである。

1970年代、80年代は女性レーシングドライバーが出走するだけで偉大とされていた状況を2000年代になって、ダニカ・パトリックは記録樹立と共に丸ごと塗り替えてしまった。

NASCARでのダニカのグッズショップ。メインレースの「カップ」のドライバーではなかったにも関わらず個人のグッズショップが出るほどの人気だった。
NASCARでのダニカのグッズショップ。メインレースの「カップ」のドライバーではなかったにも関わらず個人のグッズショップが出るほどの人気だった。

ダニカの今後、女性レーサーの可能性

今や世界中のモータースポーツに女性レーシングドライバーが出場し、話題を集めている。国内の全日本F3選手権では三浦愛が2017年に4位フィニッシュを果たすなど活躍しているし、ホンダの育成スクールである「SRS-F(鈴鹿サーキット・レーシングスクールフォーミュラ)」には20年ぶりの女性受講生となる小山美姫が入校。富士スピードウェイは女性だけのワンメイクレース「KYOJO-CUP(競争女子選手権)」が人気だ。女性レーサーの存在は今や珍しい存在ではなくなり、世界的にもFIA(国際自動車連盟)が「ウーマン&モータースポーツコミッション(WMC)」を立ち上げて、女性のレース参戦を推進している。今後、女性のレース人口は増加するだろう。

ただ、F1などのトップカテゴリーとなるとダニカ・パトリック並みの活躍が期待できる選手の登場はもう少し先のような気がする。レーシングカーという道具を使うことで性別や体格関係なく同じ舞台で競争できることがモータースポーツの大きな魅力だが、トップカテゴリーのマシンを乗りこなすには男性にも負けない筋力と体力、集中力が求められる。トレーニングはタフな道のりだ。

ダニカが出場した第42回インディ500のスタートシーン【写真:CHEVROLET】
ダニカが出場した第42回インディ500のスタートシーン【写真:CHEVROLET】

ダニカ・パトリックがインディカーで活躍できたのはコーナーが4つしかないオーバル(楕円形)のレースが中心だからという印象を抱く人もいるかもしれないが、F1以上の凄まじいコーナリングスピードで常に5G(体重の5倍)の負荷がかかるインディカーの世界は全くもって簡単な世界ではない。さらに、ダニカは2007年のデトロイト市街地コースでのレースで2位、2008年のソノマ(常設サーキット)で5位、2009年のロングビーチ市街地コースでも4位とオーバル以外のコースでも上位入賞を果たしていることも忘れてはならない。オーバルコースでもロードコースでも速い。そういう意味でも彼女は偉大なレーシングドライバーだった。

インディアナポリスを走るダニカ・パトリック【写真:CHEVROLET】
インディアナポリスを走るダニカ・パトリック【写真:CHEVROLET】

レースを引退したダニカ・パトリックは36歳になり、今後は自身のアパレルブランド「ウォリアーbyダニカ・パトリック」やカリフォルニア州でワイン農場を経営するビジネスウーマンとしての第2の人生に進む。また、アメリカでは元アスリートのセレブリティとしても活躍する方向のようで、引退は残念だが、今後またインディカーやNASCARのテレビ中継でお目にかかれる機会もきっとあるだろう。

【ダニカ・パトリックの主な記録】

・インディカー

出場:116戦 /優勝1回、ポールポジション3回

史上初の女性による「インディ500」複数リードラップ(2005年)

史上初の女性によるインディカー優勝(2008年)

女性ドライバーの「インディ500」最上位記録(3位/2009年)

2005年ルーキーオブザイヤー

・NASCAR(カップ)

出場:191戦 / ポールポジション1回

史上初の女性による「デイトナ500」ポールポジション(2013年)

女性ドライバー最多出場記録

女性ドライバー最上位記録(6位)

女性ドライバーの「デイトナ500」最上位記録(8位/2013年)

モータースポーツ実況アナウンサー/ジャーナリスト

鈴鹿市出身。エキゾーストノートを聞いて育つ。鈴鹿サーキットを中心に実況、ピットリポートを担当するアナウンサー。「J SPORTS」「BS日テレ」などレース中継でも実況を務める。2018年は2輪と4輪両方の「ル・マン24時間レース」に携わった。また、取材を通じ、F1から底辺レース、2輪、カートに至るまで幅広く精通する。またライター、ジャーナリストとしてF1バルセロナテスト、イギリスGP、マレーシアGPなどF1、インディカー、F3マカオGPなど海外取材歴も多数。

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