愛子さまの「お歌」にみる 現代に続く「和歌」のこころ
1月19日、皇居宮殿・松の間で行われた今年の「歌会始の儀」は、海外からの応募も含め15,270首の中から選ばれた10首と、天皇皇后両陛下並びに皇族方のお歌が詠みあげられた。
今回のお題は「和」。「平和」「和む」「仁和寺」など、「和」という字が含まれていれば、お題の条件を満たす。
今回、最年少の17歳で入選した、新潟市の高校生・神田日陽里さんの歌は、その点でとてもユニークだった。
「『それいいね』付和雷同の私でもこの恋だけは自己主張する」
「付和雷同」という熟語を織り交ぜて、お題の条件をクリアしているところは、大胆なアプローチであり、作者の個性がにじみ出ている。
では、この高校生と世代的に最も近い、愛子さまのお歌はどのようなものだったのか。そして、そこにこめられた愛子さまの思いを紐解いてみたい。
◆和歌の世界に魅せられた愛子さま
両陛下の長女・愛子さまは、現在、学習院大学文学部日本語日本文学科4年生で、この春、卒業の日を迎えられる。卒論は「中世の和歌」をテーマにして研究を重ね、すでに提出済みとのこと。
そんな愛子さまが詠まれたお歌も、千年の歴史を持つ和歌に関するものだった。
「幾年(いくとせ)の 難き時代を乗り越えて 和歌のことばは我に響きぬ」
宮内庁の解説では、「大学の授業で学ばれた中古・中世に詠まれた和歌が、戦乱の世も越え、およそ千年の時を経て、現代に受け継がれていることに感銘を受けられたお気持ちをお詠みになったもの」と書いてある。
では、愛子さまが和歌のどのような点に感銘を受けられたのだろうか。
まず、愛子さまのお歌全体から感じられるのは、和歌が成立して千年もの歴史を、俯瞰で見ていらっしゃる壮大な視点だ。
まだお若いにもかかわらず、スケールの大きさは、さすがと言わざるを得ない。その長い時間軸の中で、日本人は山あり谷あり、いくつもの戦乱に苦しめられ、権力を握る為政者の変遷を目にしてきたはずだ。
人々は日々の暮らしに幸せを感じることもありつつ、時には悲しみの涙に心を押しつぶされるときもあったことだろう。しかし、その間にも日本人は和歌を詠み続け、時代を経てもなお、変わらぬ心をこめてきた。
いわば、和歌には「普遍的な日本人の価値観」が、常に題材となってきたことから、現代人の愛子さまも、いにしえの歌人の気持ちに寄り添えたのだろう。
◆色褪せぬ永遠の価値観
日本最古の歌集である「万葉集」は、恋に関する歌も多く、「百人一首」はその半分以上が恋に心を焦がし、悲恋に涙するもので占められている。愛子さまがそうした大人の恋の歌に、どの程度共感されたのかはわからないが、年頃でもあることから興味はつきなかったのではないだろうか。
一方で、愛子さまのお歌に示されている「難き時代」という文言が、目を引く。
文字通り、「(人々が苦しんだ)難しい時代」という意味であり、愛子さまは歴史の中で大変な境遇に生きた人々に心を寄せられているのだ。戦乱があり、権力闘争があり、そして先の大戦では世界ではじめて原爆の被害を被った出来事までも、視野にいれていらっしゃるのだろう。
実は今回、雅子さまの御歌は、そんな愛子さまの幼き日を詠まれたものだった。
「広島をはじめて訪(と)ひて 平和への深き念(おも)ひを 吾子(あこ)は綴れり」
愛子さまは中学3年時に広島の原爆ドームや平和記念資料館を訪れ、そのことを作文に書かれている。当時のご様子を、雅子さまは印象深く心にとどめ、それを御歌にされたのだ。
今回愛子さまが詠まれたお歌からは、言葉の一つひとつの意味とニュアンスを感じつつ、わずか31文字の中に歴史の真実をくみ取っていることが窺える。さらに平和の大切さと、それが永遠に続くことを願う人々は、歴史を超えていつの時代もいたことを感じておられるのだ。
鎌倉時代末期に即位し、幕府に抗った後醍醐天皇も、こんな和歌を残している。
「世をさまり 民やすかれと祈るこそ 我が身につきぬ思ひなりけれ」
世の中が何事もなく、国民が安らかに過ごせるようにと祈ることこそが、私の尽きぬ思いであると詠んだ後醍醐天皇のお歌もまた、愛子さまが思いを馳せられる一例であるのだろう。
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