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キャリア3年で日本代表に登りつめた高田知尭の挫折と、代表復帰までの道のり[クライマーズファイル]

津金壱郎フリーランスライター&編集者
昨年のボルダリングW杯八王子大会の男子はロシアのアレクセイ・ルブツォフが制した(写真:アフロスポーツ)

昨年は観客席で悔しさを味わったボルダリング・ワールドカップ

 スポーツクライミング・ワールドカップ(以下W杯)のボルダリング第5戦が、今週末の6月2日(土)・3日(日)に東京・八王子のエスフォルタアリーナで開催される。

 日本から男女合わせて38選手(男子21人、女子17人)が出場するが、高田知尭(たかた・ともあき)ほど、この舞台を待ち望んできたクライマーはいないかもしれない。

「去年の八王子大会は観客席にいました。『あの課題はどう登るんだろう』、『自分ならこう登るのに』って考えたり、選手を応援したりしていました。石松(大晟)君が決勝に進んだのは興奮しましたね。ただ、やっぱり自分があの舞台に立っていないことは寂しかったです」

 自国開催の国際大会に出場できない悔しさは、競技に身を置く者なら誰しも抱えるもの。ただ、高田にとってのそれは、2016年までボルダリングW杯にレギュラー参戦してきただけにひと際大きいものがあった。

今年4月のボルダリングW杯マイリンゲン大会で初めて決勝進出を果たして5位になった。(C)Edie Fowke/IFSC
今年4月のボルダリングW杯マイリンゲン大会で初めて決勝進出を果たして5位になった。(C)Edie Fowke/IFSC

クライミングを始めてわずか3年で日本代表へ

 鳥取県出身で現在23歳の高田が、クライミングを始めたのは高校に入学した2010年4月。中学時代は剣道部に所属していたが、鳥取中央育英高への入学を機に、ほかの運動部に入りたいと考え、「教室からの移動距離が一番近い部活だった」という理由で山岳部に決めた。

 体育館に常設のクライミングウォールを持つ同校でクライミングを始めた高田にとって、その後のキャリアを大きく左右する出会いがあった。当時、山岳部顧問をしていたのが、現在はスポーツクライミング日本代表のヘッドコーチをつとめる安井博志だった。入部したての高田を安井は懐かしむ。

「山岳部に入ってきた頃の高田は、身長は150センチくらいで、体重は40キロあるかないか。体つきはガリガリで、1週間で辞めるだろうなと思っていたんですね。それが必死に練習に食らいついて、力をメキメキつけていきました」

 高校1年時は体つくりを重視した基本的なトレーニングのなかで “登る体力”を伸ばした高田が、世界の舞台を大きく意識したのが高校2年時(2011年)の夏休みだった。

 この年のボルダリングW杯ミュンヘン大会は、鳥取県の先輩クライマー・瀬戸啓太(現在32歳)が出場し、安井もドイツへ同行した。事前にそれを知った高田から、「ボクも観に行っていいですか」と訊ねられた安井は、「いいぞ、いいぞ」と安請け合いをした。

「まさか本当に来るとは思いませんでしたからね。気楽に返事をしたら、高校2年生が単身でドイツまで来た。そして、初めてワールドカップを目の当たりにした。そこからですね。彼の意識が高い次元に向かったのは」

 東京オリンピックに向けて2016年からボルダリングW杯が3年連続で国内開催され、スポーツクライミングの認知度や注目度は少しずつ高まりつつあるが、2011年頃のそれは現在と比べるべくもない。

 2007年リードW杯加須(埼玉)、2009年ボルダリングW杯加須、2012年と2014年にリードW杯印西(千葉)が行われたが、国際大会にもかかわらず観客数は、“学校行事に毛の生えた程度”に過ぎなかった。

 そうした時代にW杯を観るために海を渡った高校生は、「この舞台に出たい」という大きな目標を手にし、高校生活の最後までモチベーションを低下させることなくトレーニングに励んだ。それが同世代のなかではクライミング歴が短いにもかかわらず、一足飛びの成長に繋がった。

 高校3年時は『ぎふ清流国体』の少年男子の部で、同年代の名だたる選手を脇に追いやる活躍を見せると、年が明けた2013年2月の『ボルダリング・ジャパンカップ』に初出場して10位。同年4月から始まるW杯の出場権を手にした。

さらなる成長のための東京進出で暗転

 2013年4月、高校卒業直後の高田は、クライミングを始めてから足掛け3年で国際大会のデビューを飾った。オーストリアのキッツビューエルで開催されたボルダリングW杯に初出場し、67選手で争う予選を突破して準決勝に進んだ。初出場で準決勝に進出した日本人クライマーはわずかしかいない。

 その後も高田は、日本代表として国際舞台の経験を重ねた。2015年シーズンはリードW杯へフル参戦。2016年はボルダリングW杯を主戦場にし、同年9月の世界選手権ボルダリングでは優勝した楢崎智亜(※)に注目が集まるなか、高田は日本勢3番目の8位になっている。

 時を同じくしてスポーツクライミングが東京オリンピックでの実施種目に決まったこともあり、高田はさらなる高みへと成長できる環境を求めて2016年に拠点を東京に移した。

これは首都圏のクライミングジムには競技で使われるホールドと、バリエーション豊富な課題があり、コンペティターにとっては、これ以上ない練習環境が整っているためだ。

 しかし、結果的にこの決断が、高田をW杯から遠ざけることになる。2017年1月の日本代表選考会『第12回ボルダリング・ジャパンカップ』で23位に終わり予選敗退し、日本代表入りを逃してしまう。

「2017年のBJCで準決勝にも残れなかったのはショックで、その後しばらくのことは何も覚えていないんですよね。ただ言えるのは、ボクが弱かったから。理由は探せばいくらでも見つかるものだし、本当に強ければ、どういう状況にあっても結果を残せる。だけど、ボクは残せなかった。そこに尽きます」

“快イズム”で日本代表に復帰

 失意のなかにいた高田が、再びモチベーションを高くしてトレーニングに励むようになったのは、藤井快(ふじい・こころ)の存在があったからだ。国内最強コンペティターと一緒に練習することで、数多くの気づきがあったという。

「快さんは師匠ですね。なので、普段は“快師”と呼んでいます。それまで自分なりに培ったクライミングの理論みたいなものがあったのですが、快師はそれとはまったく違うところからクライミングを組み立てていました。快師の登り方や、アプローチ方法を間近に触れることができたのは、W杯に出られなかった点では残念な1年だったんですけど、ボクにとってはそれ以上に大きなものを手にできました」

 具体的にはどういうものかを訊ねると、「細かな技術が多いので」としながらも、基本的な部分を明かしてくれた。

「簡単なところで言うと、姿勢ですね。あと、ポジション。重心のかけかた。そういうところから、快師は着眼点が違うんです。それをボクも取り入れる努力をしてきました。まったく同じようにできるかは別ですが、この1年間で、“快イズム”とでも言うようなものが、ボクのなかにもできました」

 今年2月、高田は日本代表の返り咲きを狙って『第13回ボルダリング・ジャパンカップ(BJC2018)』に挑んだ。予選を全体8位で通過すると、「決勝進出だけを目指しています」と意気込んだものの、2日目の準決勝は13位に終わった。それでも日本代表としてボルダリングW杯にフル参戦できる権利を手にした。

 このBJC2018で、高田と藤井の絆をあらわすエピソードがある。準決勝終了後、高田は落ち込む暇もないまま、前日に藤井が宿泊したホテルに向かった。藤井が忘れた“勝負シューズ”を取りに行ったのだ。準決勝は『VXi』を履いた藤井は、高田のお陰で決勝戦は彼の代名詞とも言える『ハイアングル』で勝負でき、BJC3連覇を成し遂げた。

 男子決勝戦が始まる前に会場に戻った高田は、藤井にシューズを渡すと、本来なら準決勝の競技直後に受けるはずだった取材をすっ飛ばしたことを謝りながら、「すごいですよね! 勝負シューズじゃないのに、準決勝を1位通過ですよ!」と、自分のことはそっちのけで藤井賛歌を繰り広げたのだった。

藤井快と決勝戦で戦いたい!

 この時のことを、今年4月のボルダリングW杯ロシア大会後に高田を取材した際に水を向けると、再び藤井への感謝の言葉が溢れ出てきた。

「こればっかりはしょうがないんですよ。ボクがこうして日本代表として、また世界で戦えるようになったのは、快師と彼の奥さんのおかげなので。クライミングのことでも、プライベートのことでもたくさん相談に乗ってもらって、感謝しても仕切れないんです」

 辛く苦しい1年、ともすれば日本代表復帰という目標さえも見失いそうな日々を乗り越えた高田は、今年4月のボルダリングW杯の開幕戦のスイス・マイリンゲン大会に出場し、自身初めてとなる決勝戦に駒を進めた。「運が良かった部分が大きいです」と謙遜しながら振り返る。

「初めての決勝戦でしたけど、最高の舞台でした。緊張はしなかったし、気負いもなく、心地よい集中力で臨めました。いま持っている力は全部出せました」

IFSCが提供するボルダリングW杯マイリンゲン大会決勝戦の動画。高田の登場は1課題目が1:49:47頃から。2課題目は2:15:40頃。4課題目は3:10:00頃。時間に余裕があれば、マイリンゲン大会決勝戦にはボルダリングW杯の課題攻略の面白さが詰まっているため全編観てもらいたい。

 マイリンゲン大会の決勝戦は、 “高田らしさ”が表れていた。各課題の最初と最後でお辞儀を欠かさなかったり、2課題目では豪快なトリプルダイノを決めたり、4課題目ではホールドを磨いたブラシを置いたらブラシが弾んでステージ外に転落したことを謝ったり……。無骨で不器用で華やかさとは程遠いが、実直にクライミングと向き合う普段通りの高田の姿があった。

「2課題目はやばかったですね。止めたときは左肩が抜けるかと思いました。オブザベーションのときに、トモくん(楢崎智亜※)と、『ランジ以外はないね』と話をしていたから他の方法を考えもしなかったんです。だけど、後になってアレクセイ(ルブツォフ)やヤコブ(シューベルト)が飛ばずに登ったと知って、距離感の見極めが今後の課題だなって。ボクとヤコブの身長は同じくらいなので」

マイリンゲン大会の決勝第2課題。このトリプルダイノを左手のみで止めて完登に持ち込んだ。(C)Edie Fowke/IFSC
マイリンゲン大会の決勝第2課題。このトリプルダイノを左手のみで止めて完登に持ち込んだ。(C)Edie Fowke/IFSC

 マイリンゲン大会で5位になった高田は、「決勝進出が1度だけだと、まぐれになってしまうので、2度目、3度目を狙いたい」と語っていたが、マイリンゲン大会で5位になった代償に勝負シューズを壊したことが影響してか、第2戦ロシア・モスクワ大会は9位、第3戦中国・重慶大会は25位、第4戦中国・泰安大会は10位と、準決勝の壁を超えられずにいる。

 藤井快は初戦、2戦目は調子が上がらずに準決勝で敗退したが、第3戦の中国大会に優勝すると、第4戦も決勝戦に進出。八王子大会でも優勝候補のひとりに挙がる。

「快師と一緒に決勝を戦いたいですよね。そのためには、ボクがなんとしても準決勝の壁を突破しないと。それができて初めて、快師に認められる選手になれるのかなと勝手に思っています」

 そう神妙な表情で語った高田は、直後に「それくらいの活躍をしたら、きっと『こころちゃんのお兄ちゃん』と呼ばれなくなると思うんですよね」と笑い出した。

 「こころちゃん」とは藤井のことではなく、高田の4歳下の妹・高田こころのことだ。高田こころは、昨年はボルダリングW杯八王子を戦い、世界ユース代表にもなったクライマー。今年は日本代表からは漏れたものの、ユース代表選考会の『日本ユース選手権リード』で優勝、『ボルダリングユース日本選手権』で2位と好成績を残している。

「去年は妹の方が活躍したので、すっかり立場が逆転しちゃって。ボクがクライミングを始めたことで、妹もクライミングをするようになったのに、いまでは妹のオマケ状態(笑)。兄としての威厳が保てないですから、再逆転できるように必死にがんばります!」

 どん底から救い出してくれた快師、両親や妹、そして周りの人々への大きな感謝の気持ちを抱えながら、高田はいまボルダリングW杯を戦える日々を全身で満喫している。

撮影:筆者
撮影:筆者

たかた・ともあき

1995年2月20日生まれ、鳥取県出身。173cm/62kg 左利き

この春から再び拠点を鳥取に戻したが、「海外遠征続きで日本にあまりいないんで、まだ実感がなくて」。

愛用するクライミングシューズは、一世代前のLa Sportiva社の『ソリューション』。理由は「現行版だとボクにはソールが柔らかすぎちゃうんですよね」。ただし、在庫が限られるため、この取材後もソリューション探しに街へと繰り出した。

※ 楢崎の「崎」は正しくは、「大」の部分が「立」

 

フリーランスライター&編集者

出版社で雑誌、MOOKなどの編集者を経て、フリーランスのライター・編集者として活動。最近はスポーツクライミングの記事を雑誌やWeb媒体に寄稿している。氷と岩を嗜み、夏山登山とカレーライスが苦手。

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