筆者の友人で札幌在住の大熊一精氏(54)は学生時代に当時大人気作家だったレイルウェイ・ライター種村直樹先生のアシスタントとして活動されていました。

その大熊氏が種村氏のベストセラーの一つである「日本縦断鈍行最終列車」の取材で最北端の稚内駅から最南端の指宿枕崎線西大山駅までを鈍行列車を乗り継いて7日間にわたって旅をした詳細な記録を、35年経ったこの8月にご自身のブログ「熊式」で、やはり7日間かけて克明に発表されたその後半です。

▼前編はこちらです。

昭和61年 国鉄最後の夏 「日本縦断鈍行最終列車」の旅の記録

前編に続き大熊氏のブログ「熊式」からの引用ですが、国鉄分割民営化を半年後に控えた時期に出版されたベストセラー本の裏話がたっぷりと納められていて、当時を知る人には懐かしく、知らない人には新鮮に感じられる昭和の汽車旅の記録をご一読ください。

後編は4日目の朝、国鉄ハイウエイバスのドリーム号で東京から京都に到着したところから始まります。

第4日 1986年8月20日(水)

【この日の行程】

東京 →(車中泊)→ 0733 京都 1108 →(奈良線1643M)→ 1201 木津 1244 →(関西本線945D)→ 1251 加茂 1318 →(関西本線代行バス28便)→ 1353 大河原 1403 →(関西本線242D)→ 1515 亀山 1537 →(関西本線248M)→1555 河原田 1630 →(伊勢線129D)→ 1708 津 1745 →(紀勢本線335D)→ 2215 新宮 2245 →(紀勢本線・阪和線921レ)→ 車中泊

《京都駅前には関西の読者数人が出迎え、6人ほど新たに参加する模様だが、ここから新宮まではフリー区間になるので銘々好きなように行動し、離合集散を繰り返すことになろう。》(『日本縦断鈍行最終列車』p.129)

そんなわけで、京都到着後、新宮までは、ぼくは、種村氏などの「本隊」とは別行動でした(上に書いたのは「本隊」の行程です)。とはいえ、一人で行動していたわけではなく、10人ぐらいの人たちと、乗り継ぎ旅を続けていました。もしかすると、「本隊」よりも、ぼくの別働隊のほうが人数が多かったのかもしれない。

このとき、関西本線は、7月21日から22日にかけての集中豪雨の影響で不通になっており、加茂と大河原の間は代行バスで結ばれていました。7日間の乗り継ぎ旅の中で、自然災害による影響を受けたのは、これが唯一でした。

35年後の今年のような天候だったら、あちこちでこうしたことが起きていて、乗り継ぎ旅は途中打ち切りせざるを得なかったのでしょうが、そうなった場合、携帯電話すらない時代、参加希望者にそれをどうやって伝えたのだろうかとの疑問が出てきますが、そうなったらなったで、なんとかしたんだろうな。

《駅を出て右手の広場に「代行バス大河原行のりば」の看板が出て、小ぶりなバスが2台停まっている。代行バス輸送も1か月近くなり、軌道にのったためか、災害を思わせるような緊迫感は全くない。》(『日本縦断鈍行最終列車』p.133-134)

加茂駅前で列車から接続する乗客を待つ代行バス。
加茂駅前で列車から接続する乗客を待つ代行バス。

《あとで聞いた話なのだが、この伊勢線に友の会会員の車掌が乗務していたという。京都駅へ迎えに出ていた奈良市の高校2年生、サンちゃんらは、僕たちが風呂屋へ行ってしまったので一足先にコースをたどり、四日市13時12分発127D、つまり1本前の伊勢線ディーゼルカーに乗ったそうだ。車掌は稲生駅あたりで車内改札を始め、サンちゃんら8人の「青春18きっぷ」などを改めたあとで、にこにこしながら引き返してきた。

「もしかしてTTTTの行事ですか?ああ、乗り継ぎやっとったんか。みんな仲間やねえ。僕、会員なんですよ」

(中略)

国鉄職員と乗客という立場で会員同士が顔を合わせたのは、お互いに心強いことだったろう。国鉄が大転換に差しかかっている激動期であり、一層の健闘を祈りたい。》(『日本縦断鈍行最終列車』p.141-142)

ぼくはこちらの列車に乗っていて、伊勢線の列車が津に到着した後、その車掌さんを囲んで、みんなで記念撮影しました。

前列真ん中にいるのがこの時の車掌さんです。
前列真ん中にいるのがこの時の車掌さんです。

《30分後に新宮を出る天王寺ゆき921列車は、もう入線していた。元急行形の12系客車5両編成で、まだがらがら。途中から込むと思われるので、なるべくまとまって席をとっておく。

急行形は結構なのだが、ブルーの車体のアクセントだった白帯を消した通勤タイプへの改造車(1000番台車)がまじり、せっかくきれいな編成だったのに気の毒。

(中略)

921列車は22時45分発車。この紀州夜行も11月ダイヤ改正では、上りが電車化されて残るだけで下りは廃止の運命らしく、乗りおさめになりそうだ。》(『日本縦断鈍行最終列車』p.146-147)

新宮と天王寺を結ぶ夜行普通列車には、1984年1月まで、寝台車が連結されていました。寝台券をマルス(オンライン)で売るためには愛称名が必要だということで、普通列車であるにも関わらず、「はやたま」の名前が付けられていました。ぼくが時刻表を「読む」ようになった頃、普通列車なのに愛称が付いている寝台車付き普通列車は「からまつ」「はやたま」「山陰」「ながさき」の4本で、今でもすぐ名前が出てくるほど、これら4本の列車は、魅力的な存在でした。今だったらちょっと無理してでも乗りに行けるけれど、埼玉県に住む中高生にとっては、遠い場所を走っている、時刻表上だけで楽しむ列車でした。

いま調べてみたら、この夜行普通列車で12系客車が使われていたのは「はやたま」の廃止から電車化(同時に新宮発は廃止)の間の1年9ヵ月だけで、このとき12系の列車に乗ったのは、ちょっとレアな経験でした。ぼくはこの後も天王寺発の電車(165系)には何度か乗っていて、新宮への夜行普通列車というと165系のイメージが強いです。

第5日 1986年8月21日(木)

【この日の行程】

新宮 →(車中泊)→ 0455 天王寺 0500 →(大阪環状線)→ 0521 大阪 0607 →(東海道本線・福知山線・山陰本線721レ)→ 1908 出雲市 2035 →(山陰本線261D)→ 2245 浜田 → 車庫内のバスで仮眠

この日はシンプルです。当時の日本最長距離鈍行だった大阪発出雲市行き721列車に乗って西へ向かい、出雲市で乗り継いで浜田へ向かうだけ。浜田の後の車庫内のバスで仮眠というのは、あとで説明します。

《上夜久野、梁瀬と6分ずつ続けて停まると、30人近い仲間は落ち着いていられなくなる。1人や2人なら6分停車の一時下車は少しも無理ではないが、数が多くなれば何かと難しい。廣谷が、ホームを走るなと何度も注意しているけれど、かならずしも徹底しない。とうとう16分停車の和田山で車掌が「団体さんの責任者の方は」とやってきて苦情をもらした。

「駅へ停まるたびに、どどっと改札へ行くのはなんとかなりませんか。どうしても列車へ戻ってくるのが遅れて定時発車できません。30秒、1分と遅れて困るんです……」

発車が遅れた例はないと思うけれど、車掌の気持ちは分かるし、申しわけないので廣谷を呼ぶ。

「分かりました。注意はしますが、発車時刻が来たらすぐ列車を出してください。待っていただく必要はありません。積み残してください」

車掌に見切り発車を頼んだ廣谷は、あらためて参加者に、2、3分の停車で改札を出るな、走るな、積み残しになるぞと触れてまわった。これで少しは効き目があったようだ。721列車に長時分停車駅が多いのに加えて、関西圏で大幅にメンバーが入れ替わった結果、稚内からの前半と雰囲気が変わったことも影響している。》(『日本縦断鈍行最終列車』p.161-162)

この年の11月ダイヤ改正で宝塚~城崎間の電化開業と引き換えに廃止される大阪発出雲市行き721列車は、古きよき時代の長距離鈍行らしく、あちこちの駅で数分以上の停車時間がありました。停車時間があれば改札を出て入場券やスタンプを求めるのが乗り継ぎ旅参加者の共通行動パターン、というわけで...

《21分停車の豊岡でホームを歩くと、いつの間にか12系客車編成のうしろにディーゼルカーが2両くっついていた。客車とディーゼルカーの混結は珍しいが、ディーゼルカーは窓のカーテンを降ろして回送扱いで乗れない。豊岡で交替した車掌の話では、境線後藤駅に近い後藤工場で検査修繕のため、福知山から米子までつないでゆくそうだ。》(『日本縦断鈍行最終列車』p.162-163)

《浜田−広島間の広浜本線には浜田駅3時40分発広島駅ゆきという不思議なダイヤが1本あり、大阪、東京方面への新幹線連絡をうたっている。お客は浜田駅まで自家用車かオートバイ、自転車などで集まってくるのだろう。その実態にも興味がある。》(『日本縦断鈍行最終列車』p.81-82)

高速道路網の発達した現在では考えられないことですが、この少し前までは米子と広島の間を結ぶ夜行列車も走っていたぐらいで、山陰地方から見た山陽地方は、とても遠かったのです。それで、こんな妙な時間帯にバスの便が設定されていた…と、この頃は、そう思っていたのですが、それから30年以上を経て、関東地方各地から羽田空港の早朝便に間に合うようなバスが、午前3時台どころか、午前2時台に運行されるようになりました。インフラ変われど時代は繰り返す、のか?

午前3時40分に浜田を出るバスは、広島から2時前に到着する便の折り返しでした。浜田到着後はいったん車庫に引き上げるのですが、ここで幹事長が運転手さんにお願いして、われわれは、回送車に乗せてもらい、国鉄自動車広島営業所浜田派出所内の留置車両の中で仮眠させてもらったのでした。

《派出所はすぐそばで、真っ暗な露天車庫に止まる。運転手の休憩所はどこかにあるのだろうが灯火ひとつ見えない。機器をチェックした運転手は車内灯と冷房を切り、ドアは開けておきますからと言い残して、外へ出て行った。よほど融通のきく人でなければ、こんなサービスはしてくれないだろう。執務規程に照らせば何かに違反することになるかもしれない。》(『日本縦断鈍行最終列車』p.173-174)

第6日 1986年8月22日(金)

【この日の行程】

浜田 0342 →(国鉄バス広浜本線)→ 0735 広島 0835 →(山陽本線973M)→ 0901 宮島口 0910 →(宮島航路13便)→ 0920 宮島 0932 →(宮島航路臨時便)→ 0942 宮島口 0951 →(山陽本線537M)→ 1212 小郡 1229→(山口線541D)→ 1417 津和野 1541 →(山口線543D)→ 1622 益田 1750 →(山陰本線・山陽本線831レ)→ 2246 下関 2252→(山陽本線・鹿児島本線265M)→ 2306 小倉 2340 →(鹿児島本線199M)→ 0108 南福岡(駅待合室で仮眠)

連日の車中泊で疲れが溜まったところで、午前3時40分発(実際には2分遅れで42分発)の始発とも夜行ともいえない路線バスに乗り、夜は最終電車で着いた南福岡駅の待合室で4時間後の始発列車まで仮眠するという、むちゃくちゃな行程。広島から下関まではフリータイムで、ぼくは宮島には行ってませんが、それ以外は、上に書いた種村氏の行程と同じ行程で動いてました。

事件は、小郡(現在の新山口)で山口線に乗り換えた後、起きました。

《列車は中国山地へ分け入って津和野へ下った。”貴婦人”の汽笛が聞こえる。この541Dは津和野に14時17分着、4分停車。3両編成のうちうしろ1両を切り離し、上り<やまぐち>が20分に発車したのち、21分に益田へ向かう。同じホームのようだから、<やまぐち>の発車風景を楽しめる。》(『日本縦断鈍行最終列車』p.183-184)

《二、三度放送が繰り返されたのち汽笛一声、<やまぐち>は静々と発車した。さて益田ゆきに戻らなければならない。手近なキハ40形は津和野切り離しの車両だから前へ、と思ったら、列車がいない。

「益田ゆきは?」

「え、乗るんですか?」

ホームにいた制服さんに尋ねたのと、向こうが大きな声を出すのと同時だった。乗るんですかもないもので、もうディーゼルカーの影も見えない。<やまぐち>の1分後発車のダイヤだが、<やまぐち>のお客さんが乗車に手間どり遅れて出たのだろう。益田ゆきのほうは放送もなく、定刻どおりに発車していたというわけだ。

みごとな乗り遅れで、だれに文句を言うわけにもゆかない。(中略)幹事の一番、大熊はじめ乗り遅れのほうが多く総勢7人。荷物はすべて列車の中だ。》(『日本縦断鈍行最終列車』p.185-186)

益田ゆきの列車内に残された荷物は、津和野で乗り遅れずに列車に乗っていた中学生3人が回収してくれました。

3人のうち2人は居眠りをしていてそもそも津和野で列車の外に出ていなかったそうですが、その2人のうちの1人が最近(緊急事態宣言の合間だった時期)に出張で札幌にやってきて、麻生の「ほの家」(鉄道居酒屋)でひさしぶりの再会を果たしました。あのときの中学生が部長と書かれた名刺を持って出張してくるようになったのか…というよりも、あの部長は蒸気機関車の出発にも気づかずに車内で眠っていた中学生だったのかと、ひさしぶりに『日本縦断鈍行最終列車』を読んで、思ったことでした。

《北九州地区の終列車である南福岡1時08分着199Mから121Mなら南福岡が5時08分発なので4時間待ちで済む。ローカル線だと昼間でも4時間程度列車の時間が開くことは珍しくないし、未明の1時から5時までなら乗り継ぎと称してもおかしくない気がした。純血を尊ぶむきからは、夜汽車乗り継ぎのはずなのに、駅で仮眠する駅ネの導入は御都合主義だと批判されそうだが、そもそも遊びだから本人が納得できればいいのだ。(中略)路頭に迷うと困るから電話してみると、博多駅の待合室は深夜閉鎖だが、南福岡は駅で始発を待っても差しつかえないとのことで、南福岡乗り換えに決定。》(『日本縦断鈍行最終列車』p.81-82)

南福岡へ最終電車で入った後、待合室が閉鎖されないことは、事前に確認してありました。

さあ、残りは、あと1日。

第7日 1986年8月23日(土)

【この日の行程】

南福岡 0508→(鹿児島本線121M)→ 0752 川尻 0916 →(鹿児島本線2127M)→ 1125 出水 1215 →(鹿児島本線2177M)→ 1420 湯之元 1531→(鹿児島本線2179M)→1559 西鹿児島 1600 →(指宿枕崎線763D)→ 1742 西大山 1939 →(指宿枕崎線771D)→ 2038 枕崎 →「ホテル八潮」泊

最終日は、南福岡から始発電車に乗って、鹿児島本線をひたすら南下。ぼくは、この旅の前に北海道や山陰は訪れたことがあったけれど、九州はこれが初めてだったので、目にするものすべてが新鮮でした。今は肥薩おれんじ鉄道になっている旧鹿児島本線の車窓は、いかにも南国!という感じで、初めて乗ったのが夏でよかったです。

《西方で、東京を昨日の16時50分に出た西鹿児島ゆき寝台特急<はやぶさ>に道を譲る。<はやぶさ>は10分ほど遅れており、全体に特急ダイヤが乱れているようだ。》(『日本縦断鈍行最終列車』p.198)

そのダイヤの乱れを受けて、上に書いたように西鹿児島での乗り換えがわずか1分という綱渡りになったのですが、この接続はダイヤどおりでも4分でした。大人数での乗り継ぎ旅でそんな際どいスケジュールを組むはずはなく、標準コースは1本早い列車で西鹿児島へ入ることになっていたのですが、種村氏が湯之元温泉めがけて湯之元で気まぐれ途中下車したために、こういうことになりました。

最終日はやたらと写真が残っていて、やっぱり最終日は気持ちが楽になって解放感に浸っていたのかなあと、いまこれを書くまでは思っていたのですが、そうじゃない(であろう)ことに気づきました。フィルムの残量を気にしなくてよくなったから、バシバシ撮ったのでしょう。この頃のぼくは、池袋のビックカメラ(今みたいな立派なお店じゃなくて北口のいかがわしいエリアの狭い店だった)で、安売りのフィルムを買ってました。使えるお金も限られていた頃(今だって無限に使えるわけじゃないですけど)、旅先で正価のフィルムを買うのは、かなり、勇気のいることでした。

7日目の夕暮れ時、日本最南端の駅、西大山に到着した種村氏と同行者たち。
7日目の夕暮れ時、日本最南端の駅、西大山に到着した種村氏と同行者たち。

次の枕崎行きが来るまで2時間近く、暗くなってきて散策という感じでもないので、われわれ以外には誰もいない無人駅で自由気ままに過ごしました。

これも、今だったら、炎上しちゃうんでしょうね。駅名標に上ってるし、線路の上を渡らないと撮れない写真だし。めんどくさい世の中になったなあ(と思うのは年を取ったからで、最初から今みたいな時代しか知らなければそんなことは思わないんだから、そういうふうに考えるのはやめようと思う今日このごろ)。

ぼくは稚内から西大山までの片道乗車券を使ったので(写真は第1日のブログに載せました)、西大山から枕崎までの運賃は列車に乗ってから車掌さんに払いました。

レイルウェイ・ライター種村直樹氏は、日が落ちて真っ暗な中となった最後の列車=西大山から枕崎まで=を、こんなふうに振り返っています。

《最後の車中の1時間ほどは、ボックス席で静かに過ごした。7日間の行程のシーンが断片的に浮かんでくる。秋の国会で国鉄分割・民営の政府案が可決されるのは、7月選挙で自民党が300議席を突破したときから避けられない情勢になった。来春、1987年4月1日に日本国有鉄道が分割され、6つの旅客鉄道会社と貨物鉄道会社に変容すると、汽車旅はどう変わってゆくのか。

分割に疑問を投げ続けてきたユーザーとしての最大のポイントは、運賃が高くなり、ぶつ切りダイヤで不便になるのではないかという二点だったが、当面、新体制移行時は9月改定ベースの旅客運賃・料金と営業制度、11月改正ダイヤが、そのまま引き継がれることになった。従って現国鉄ネットワークに相当する6つの鉄道を生かし、来春以降も今のような汽車旅ができることは間違いなさそうだ。しかし全国一社体制と同じ運賃体系という、いわば分割のメリットを捨てるような経過措置がいつまでも続くという保証はない。

それよりも、分割・民営の結論を先に出し、無理やり収支見込みのつじつまを合わせたような政府案で、新会社の経営がすんなり軌道にのるとは思えない……。》(『日本縦断鈍行最終列車』p.203-204)

種村氏の危惧は、後世の人々がバブル経済と呼ぶような状況が起きたことで、いったんは、杞憂に終わりました。しかし、基金の運用益で赤字を埋めるなどという経営計画がうまくいくはずはなく、35年経って、この歪みが露わになっているわけです。だからといって35年前まで時間を巻き戻すことはできないので、2021年に生きるわたしたちは、鉄道が運ぶ夢や希望とともに、よりよい将来を築くことを目指して、やれることをやっていくだけです。

(完)

【筆者補足】

国鉄の分割民営化でJRが誕生したのがこの旅の約半年後の昭和62年(1987年)4月1日。まもなく35年を迎えようとしています。

JRも当初の国民とのお約束とはずいぶん違う会社になったような気がしますが、コロナ禍での大赤字でさらに急激に変化していくことが考えられます。

時代に合わせて変わっていくべきことと、時代が変わっても守らなければならないことがあります。私たち国民はしっかりとその辺りを検証していくことが必要ではないかと、友人の大熊一精氏のブログを読んで再認識した次第です。

それにしても稚内を早朝5時に出て、

1泊目:函館本線鈍行夜行列車

2泊目:青函連絡船

3泊目:東名・名神高速バスドリーム号

4泊目:紀勢本線鈍行夜行列車

5泊目:浜田駅国鉄バス車内

6泊目:南福岡駅待合室

というとんでもない旅でしたね。

途中で銭湯や立ち寄り温泉で汗を流しているようですが、こういう計画が立てられた時代があったのだと今さらながらに思います。

北海道や九州を旅行するときは周遊券を使って夜行列車に連泊することはある意味当たり前でした。

今の世の中、すでに半分お払い箱になっているような元気がないおじさん世代は、かつてはみんなこういうタフな旅をしていたのだと、若い人たちに知っていただくこともプラスになると考えて、今回は懐かしのベストセラー「日本縦断鈍行最終列車」(種村直樹著)の取材の裏話をご紹介いたしました。

世のおじさんたち、これからも一緒に元気に頑張りましょう。

※本文は大熊一精氏のブログ「熊式」から抜粋する形で構成しています。

本文中に使用する写真は大熊氏の提供によるものです。