レイルウェイ・ライターの種村直樹氏(1936~2014)をご記憶の方も多いと思います。

毎日新聞社の記者のご出身で、昭和から平成にかけての時代、雑誌の連載や著書も多く、筆者も多くの作品を愛読してきた思い出がある憧れの作家ですが、惜しくも2014年に他界され、活動の拠点となっていた事務所も閉鎖されてしまいました。

当時の種村直樹氏 ブルートレイン北斗星の前で
当時の種村直樹氏 ブルートレイン北斗星の前で

筆者の友人で札幌在住の大熊一精氏(54)が学生時代に種村直樹氏の事務所でアシスタントのような仕事をされていて、事務所閉鎖の際に貴重な資料が拡散してしまうことを防ぐために数年前からいろいろと保存活動をしていますが、大熊氏とは筆者が50を過ぎてから仕事の関係で知り合い、だんだんと「鉄分が濃い男だ」ということがわかり、「学生時代に種村直樹先生の事務所にいた。」と聞いて羨望を覚えたものです。

その大熊氏が最近自身のブログの中で、35年前の11月に刊行されてベストセラーになった種村氏の「日本縦断鈍行最終列車」の中で幹事として全区間同行していたことを発表しています。

憧れの種村先生の、それもベストセラーに数えられる名著と、仕事で知り合ってだんだんと意気投合し、仕事以外でも懇意にさせていただいている友人とが、35年の時を経て一致したという驚きとともに、大熊氏が克明に綴った昭和の国鉄末期の鈍行列車の7日間の旅を現在の読者の皆様方に共有していただきたいと考え、前編・後編の2回にわたりご紹介させていただきたいと思います。

昭和を知らない世代が世の中の多数を占めるようになって来ている現在、当時の列車の旅をお読みいただくと、いろいろ新鮮な発見があるのではないでしょうか。

大熊氏のブログ「熊式」の一部を引用する形ですが、コロナ禍で思うように旅行ができない今、週末の読み物として、どうぞご一読ください。

最北の稚内から最南端の指宿枕崎線西大山までの片道切符。途中下車印が多数押されている。
最北の稚内から最南端の指宿枕崎線西大山までの片道切符。途中下車印が多数押されている。

第0日 (昭和61年8月16日)

35年前の今日、1986年、というより、昭和61年といったほうがしっくりくるので、昭和で書きますが、昭和61年8月16日、ぼくは、稚内にいました。

昭和61年8月17日から23日までの7日間、日本最北端の駅である稚内駅から、日本最南端の駅(当時)である西大山駅まで、鈍行列車を中心に列車とバスを乗り継いで日本列島を縦断する旅をしました。これは、レイルウェイ・ライター種村直樹氏の読者の会である「種村直樹レイルウェイ・ライター友の会」のイベントとして企画されたもので、行程は友の会の会報を通じて会員に告知され、参加する会員は各自が必要な乗車券を自分で用意して参加する、全区間参加しても一部区間参加してもよい、という、参加も離脱も自由なイベントでした。

ただ、当時の友の会の会員は全国に1000人以上もおり、参加者数は延べ100人以上になることが予想されました。多くの読者にとって憧れの存在だった種村氏に会うためにやってくる人もいるでしょう。そうした中で参加者が勝手気ままに動いたり、仲間うちで騒いだりすれば、他の乗客に迷惑をかけてしまいます。そのため、参加者を統率するために4名の幹事団が組織されました。ぼくは、その幹事団の一人として、出発前日である8月16日、集合場所である稚内の民宿にいち早く入り、準備を進めていたのでした。

この乗り継ぎ旅について、種村氏は、旅の記録をまとめた『日本縦断鈍行最終列車 消えゆくローカル線に愛をこめて』(徳間書店、1986年11月刊)の中で、こう書いています。

《国鉄の鈍行ばかり乗り継いで、北から南へ向かってみたいと考え始めたのは86年初春である。汽車旅の原点ともいうべき長距離鈍行は、ダイヤ改正のたびに減ってきた。この年の11月には、翌87年春の国鉄分割・民営化の政府案を前提とした大改正が実施され、長距離鈍行はまた痛めつけられそうだ。鈍行といわず、永年親しんできた国鉄――日本国有鉄道ネットワークをフルに生かした旅ができるのは、あと僅かかもしれない。》

35年後の現在では「鈍行」は、意味不明な言葉かもしれません。特急でも急行でもない、料金不要の列車が、鈍行です。わかんなかったらググって調べてください。

最北端から最南端への乗り継ぎ旅は、利用する交通機関を変えれば今でもできますが、SNSで即座に情報が流れてしまう現在、もはや、こうした旅を行うことは、不可能でしょう。ちょっと集まって騒いでいるだけで、写真が拡散され、騒ぎになってしまいます。今にして思えば、じつに、貴重な経験でした。

第1日(昭和61年8月17日)

【この日の行程】

稚内 0520→(宗谷本線・天北線722D)→ 0905 音威子府 0927 →(宗谷本線339D)→ 1106 幌延 1206 →(羽幌線・留萠本線826D)→ 1709 深川 1804 →(函館本線160M)→ 2010 札幌 2122 →(函館本線46レ)→車中泊

《夜が白んでいるな、と頭のどこかで考えた。8月17日が明けようとしている。日本最北端の町、稚内で目覚めた。民宿「せがわ」の一室である。1986年(昭61)夏、国鉄ネットワークを記録する、最北端の駅稚内から最南端の駅西大山を経て枕崎に至る6泊7日4200キロの鈍行乗り継ぎが、間もなくスタートする。

稚内5時20分発、天北線音威子府ゆき一番列車に乗る前に、稚泊連絡船稚内桟橋駅跡に立たねばならない。この乗り継ぎの、もうひとつの出発地点は稚内桟橋駅跡の大ドーム下と計画時点から決めていたのである。

薄手のトレーナー姿で宿を出て、まだ人の気配のない稚内を数人で歩く。やや遅れて第二集団がついてくる。総勢合わせても20人に満たず、まだ睡眠をむさぼっている仲間が何人かいるようだ。》(『日本縦断鈍行最終列車』p.9)

ぼくは「まだ睡眠をむさぼっている仲間」の一人でした。なんで早起きしてそんなところへ行かなきゃいかんのかと思ってました。今なら、稚内桟橋駅跡からスタートしなければならないという、種村氏の想いは、とてもよくわかります。

その日の朝、稚内駅で買った入場券。この当時、少し大型の「観光旅行記念」の入場券は、とくに観光地でないような駅でも販売されていました。

《普通の入場券より大型で、その名のとおり専ら記念用につくった観光記念入場券は北海道総局のヒット商品となり、本州にも広がりつつある。》(『日本縦断鈍行最終列車』p.11)

当時は、稚内の次の南稚内で、鉄路は宗谷本線と天北線の二つに分かれており、このときに乗った列車は天北線(1989年廃止)経由でした。当然ながら今は同じ列車は存在していませんが、稚内からの始発列車は、35年後の現在も、このときと同じ、午前5時20分発です(宗谷本線普通列車名寄行き)。

《列車は左に天塩川を従えて進み、日本最長駅間距離(途中に信号場なし)筬島―佐久間18.0キロを過ぎて佐久で10分ほど停まり、札幌ゆき急行<宗谷>と行き違う。》(『日本縦断鈍行最終列車』p.24)

佐久駅に入ってくる急行宗谷。客車列車でした。

第2日 (昭和61年8月18日)

【この日の行程】

前夜札幌から →(車中泊)→ 0406 大沼 <この後はフリータイム>

深夜の函館駅集合

第2日は、函館から青函連絡船の深夜便に乗るための時間調整の日。札幌からの夜行列車で早朝の函館に到着して、そのまま青函連絡船に乗り継いでも(青函トンネルはまだない)その先がうまくつながらないのに対し、函館から青函連絡船の深夜便に乗ると途中のどこかで宿泊することなく乗り継ぎ旅を続けることができるため、深夜便の出航時刻までを「フリータイム」としたのでした。

《次の上り列車までは2時間もあるから、まず朝の散歩だ。(中略)「歩くぞ」声を掛けたら10人ほど腰をあげた。(中略)眠さをおして歩いてみようと思う若者が何人かいるのは心強い。最近のヤングは歩かなくなったといわれる。確かにバイクや車が氾濫しており、すぐ何かに乗りがちだけれど、日ごろの旅を見ていると歩かせれば結構歩く。歩くチャンスがないだけであろう。》(『日本縦断鈍行最終列車』p.42-43)

大沼での下車は種村氏の行程ですが、ぼくは函館まで乗り通しました。当時すでに50代になっていた種村氏が、4時起きで稚内桟橋駅跡へ行った翌朝、4時過ぎに列車を降りて行動を開始していることには、あらためて驚かされます。

種村氏(と一緒に行動した人たち)は、このあと、大沼→仁山→渡島大野(現在の新函館北斗)→七飯→大沼公園と乗り歩いてから、函館本線と「砂原線」をぐるっと一周する臨時列車「遊・遊トレイン」に乗ったり、一部の人たちは大沼公園駅前でレンタサイクルを借りて「遊・遊トレイン」と並走を楽しんだりしています。

《9時33分、旧型客車と貨車のうしろに緩急車をくっつけた珍編成の旅客9141列車<遊・遊トレイン>が、ヘッドマークをつけたDE10形ディーゼル機関車に牽かれてやってきた。(中略)5号車が売店で、6号車の緩急車内は国鉄部品即売所にあててあった。列車のサボ(行先標)、車両の銘板、懐中時計、灰皿など様々な廃物にまじって、「<遊・遊トレイン>運転時刻表」を売っていた。機関士が使う本物のコピーを乗務員携帯用のプラスチックケースに入れて1500円は少々高いが、増収に協力しておく。》(『日本縦断鈍行最終列車』p.55-58)

その運転時刻表は、いま、ぼくの手元にあります。

去年、レイルウェイ・ライター事務所の片付けを進める中で、北海道関係の資料は大熊に預けておこうということになって、この運転時刻表も、我が家に送られてきたのでした。ぼくが自宅で保管していても仕方ないので、いずれ、どこかで活用したいと思ってます。

《青函船舶鉄道管理局手づくりのイベント列車には、お客さんに楽しんでもらおうとの気持ちがにじみ出ており、我が意を得たりだ。何より気に入ったのは、運転期間が7月20日から8月末までと長いこと。団体貸切りの日もあるようだが、おおむね個人、グループ客が好みの日に気軽に乗れるのがいい。どんな立派なイベント列車でも運転日が限られていると、手数がかかる割に稼ぎにならず、一部のファンやきっぷ収集家だけを喜ばすような結果になってしまう。》(『日本縦断鈍行最終列車』p.60)

今この本を読むと、「遊・遊トレイン」に乗ったり、列車やバスのない区間を徒歩でつないだり、レンタサイクルでこの遅い列車を追いかけたりしているみなさんがとても楽しそうに見えます。「遊・遊トレイン」は、今で言う観光列車の走りだったわけで、今のぼくならばこれに乗ってのんびり楽しむのですが、ぼくがそういう(列車に乗る以外の)旅の楽しみを知るのは、もう少し後のこと。当時のぼくは、純度の高い(?)鉄道ファンでした。

《函館市バスは20分間隔の定期便の間に臨時をはさむ盛況で、少しもやのかかっている山頂へ30分で運ばれた。夜の登山道は自家用車を締め出しているのに、バスがつながって山頂駐車場は満杯、展望台付近は人ばかりだったが、よくしたもので仲間が二人、三人と合流する。》(『日本縦断鈍行最終列車』p.71-72)

函館山の展望台から美しい夜景を、種村氏を含むけっこうな人数で一緒に眺めたことは、よく覚えています。今ならば誰がどこで何をしているかはあえて知らせようとしなくてもSNSを見ていればわかりますが、当時は携帯電話すらなかったのに、どうやって合流したのか、いま思うと、とても不思議ですが、合流できたのでした。

第3日 (昭和61年8月19日)

【この日の行程】

函館 0040 →(青函航路2便)→ 0430 青森 0624 →(奥羽本線624レ)→ 0714 弘前 0718 →(奥羽本線・花輪線・東北本線快速3928D八幡平)→ 1047 盛岡 1106 →(東北本線1530レ)→ 1242 一ノ関 1253 →(東北本線534M)→ 1449 仙台 1450 →(東北本線582M)→ 1619 福島 1635 →(東北本線142M)→ 1849 黒磯 1900 →(東北本線670M)→ 2154 上野 2200頃 →(山手線電車)→ 2218頃 東京 2300 →(東名高速線・名神高速線ドリーム3号)→車中泊

《稚内の前夜祭から、まる2日間過ごした北海道とお別れだ。(中略)改札口を通り、緑色の連絡船乗船名簿を1枚取って住所氏名を記入しながら待合室を眺めると、0時40分発2便の立て札のうしろに大行列ができていた。先頭付近に僕たちのグループ十数人が固まり、荷物も山をなしている。夏休み中は0時10分に臨時102便も運航されており、待ち合わせ場所は別のようだ。この調子では、0時前後に札幌からの特急<北海4号><北斗10号>が着くと超満員になるのではないか。日ごろは閑散としている青函連絡船も、都会へ戻る帰省客で年に何日もないにぎわいである。》(『日本縦断鈍行最終列車』p.103)

函館に深夜0時近くに着いて連絡船に乗り換えて、午前4時台に青森で上野行きあるいは大阪行きの列車に乗り換える、というのは過酷な行程に見えますが、35年前は、そういう旅行をしていた人が普通にいた、ということです。今の人たち(自分を含む)には、そんな旅行は耐えられないでしょう。それが成熟といえばまあそうなんだろうけど、そりゃ猛烈に働くアジアの新興国に勝てなくなるわけだとも思います。

種村氏が深夜便に乗る人たちの大行列を他人事のように書いているのは、種村氏は寝台券を持っていたからです。青函連絡船の寝台料金は2400円と、列車の寝台料金(最も安い三段寝台で5000円)と比較すると破格の安さでしたが、青函連絡船の乗船時間は3時間50分ですから、基本的に一晩乗るであろう列車の寝台車の料金より安いのは妥当です。

大熊氏が使用した青函連絡船のグリーン券と連絡船乗船名簿。 乗船名簿はグリーン席の乗客はこのような緑色の紙。ふつう席の乗客用は質の悪いわら半紙でした。
大熊氏が使用した青函連絡船のグリーン券と連絡船乗船名簿。 乗船名簿はグリーン席の乗客はこのような緑色の紙。ふつう席の乗客用は質の悪いわら半紙でした。

ぼくはグリーン指定席を選びました。こちらは1600円で、リクライニングシートの背もたれは、かなり深く倒れます。

《大熊が仙台、廣谷が郡山から、それぞれ東北新幹線を使って埼玉県の自宅や着替えなどに戻ったらしく、幹事が手薄になったところへ、首都圏区間参加の面々が、2、3駅に1人くらいずつの割でふえだした。(中略)上野ゆきは前2両が比較的すいているので、なんとなく分散してすわっているが、参加者がふえるにつれ、声が大きくなる。ふくれ上がるに決まっている区間で幹事長が姿を消すとは困ったものだ。仕方がないから2両を行ったり来たりして目配せすると、顔を出したほうは少し静かになるものの、いたちごっこである。》(『日本縦断鈍行最終列車』p.116-117)

すみませんでした。ぼくは幹事長ではありませんが、幹事長を含めて4人しかいない幹事団(うち1人は写真記録係だったので実質3人)のうちの1人であるにもかかわらず、仙台から東京という、いかにも人が増えそうな区間で離脱してました。

稚内のスタート前といい、この東北新幹線ワープといい、大熊は、種村氏の都合や友の会の参加者のことなど考えずに、かなり自分勝手に動いていたようで、キミは幹事の自覚がなさすぎだよ!と怒鳴りつけてやりたいぐらい(笑)。ちょっと言い訳すれば、3日目ともなると稚内の前夜祭から参加していた人たちの間では、お互いのパーソナリティもある程度わかるようになってきていて、参加者に甘えられるようになっていたのだと思います。

(後編へ続く)

大熊一精氏

昭和42年2月生まれ

一般社団法人 北海道観光資源創造センター 理事

株式会社道銀地域総合研究所 特別研究員

有限会社 大熊事務所 代表取締役

※大熊一精氏のブログ「熊式。」から抜粋した引用文章で構成しています。

使用している写真は大熊一精氏提供のものです。