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国鉄(JR)から食堂車が消えた本当の理由

鳥塚亮えちごトキめき鉄道代表取締役社長。元いすみ鉄道社長。
地元産の食材を使ったいすみ鉄道のレストラン列車イタリアンコース(筆者撮影)

昭和の時代、日本全国ではたくさんの列車に食堂車が連結されていました。

お客様は汽車旅の楽しみの一つとして、流れゆく車窓を見ながら食堂車で美味しいお料理をいただく。

食堂車は列車で旅行する醍醐味の一つでした。

駅弁もよいけれど、やっぱり食堂車に憧れていた昭和の少年時代を思い出すと、「今、走ってたらなあ。」というのが、筆者がいすみ鉄道社長時代の2013年にレストラン列車を走らせようと考えた大きな動機です。

それだけ食堂車というものには魅力があるわけで、その後、「いすみ鉄道にできるんだったら自分たちでもできないはずはない。」と鉄道会社の皆さんが思われたかどうかは定かではありませんが、今では全国各地の鉄道会社でレストラン列車が花盛りの時代を迎えたことは、やはり、汽車旅に「食事」は付きものだという証明だと筆者は考えています。

では、それほど需要がある食堂車が、昭和の国鉄時代にどうして消滅してしまったのか。

「食堂従業員の確保が難しくなった。」

「コンビニの台頭などでお客様の嗜好が変わった。」

などと言われておりますが、筆者が経験した「本当の理由」をお話しさせていただきたいと思います。

急行「きたぐに」の火災事故

まず、食堂車が減るきっかけとなったのが昭和47年11月に北陸トンネル内で発生した急行「きたぐに」の列車火災です。

この事故は深夜の時間帯に走行する列車の食堂車から出火した火災事故で、原因の一つとして当時、客車(電源を持たない)で使用されていた調理器の石炭レンジが疑われ、事故後、国鉄は急遽同形式の食堂車を運用から外しました。

これにより、食堂車は電車、気動車、特急用客車(ブルートレイン)の電気調理設備を持つ車両のみの運用となり、一部の急行列車に残っていた食堂車は廃止されました。

1972年3月号巻末の編成表
1972年3月号巻末の編成表

北陸トンネル火災事故の直前、1972年(昭和47年)の時刻表巻末の列車編成表に載る急行「きたぐに」と急行「十和田」。

夜行の急行列車にも食堂車が連結されていましたが、事故を契機に編成から外されました。

急行列車から食堂車が外されて、食堂車を連結する列車は特急列車だけになったきっかけがこの火災事故です。

特急列車には食堂車、急行列車にはビュッフェの時代

この当時、大多数の特急列車には食堂車が連結されていて、一部の急行列車にはビュッフェと呼ばれる立ち食いカウンターの付いた車両が連結されていました。

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▲同じ昭和47年、北陸本線を走る特急「雷鳥」と急行「立山」です。

この編成表からわかるのは特急列車は全車指定席であるのに対して、急行列車は半分が自由席の編成です。

もちろん特急と急行では停車駅も違いますから、特急列車が走る同じ路線に、その特急列車を補完する急行列車が並行して走っていたのです。

そして、特急列車には食堂車、急行列車には気軽に利用できるビュッフェ(コーヒーカップのマーク)が付いています。

急行列車でもグリーン車が2両連結されているのは、かなり豪華な編成だったと思います。

特急料金と急行料金という金額の違いもありましたので、この時代はお客様が自分の予算に合わせて、特急にするか急行にするか、あるいは各駅停車で行くかなど列車を選ぶことができた時代だったのです。

ちなみにこの当時の大阪-金沢間の特急料金は800円。急行料金は300円でした。福井の駅弁「かにめし」が250円の時代ですから、特急と急行の差は大きかったと考えられます。

筆者が食堂車に乗務していた頃

筆者は1976年(昭和51年)の夏休みにひと夏食堂車に乗務していた経験があります。

もちろん高校生のアルバイトとしてですが、日本食堂の上野営業所へ行ってアルバイトを申し込みました。

わずかひと夏の経験でしたが、その時乗務した列車は

「はつかり」(上野-青森)

「やまばと」(上野-山形)

「ひたち」(上野-原ノ町)

「とき」(上野-新潟)

「白山」(上野-金沢)

の5つの特急列車です。

当時は遠くへ出かけることがなかなかかなわない時代でしたが、特急列車の食堂車で働くことができればいろいろなところへタダで行かれると考えた40年前の高校生は、嬉々としてひと夏特急列車に乗り込んだのです。

その当時ですが、2種類の乗り込み方がありまして、1つは上野駅から乗り込む列車。

これは上野に到着した電車が折り返したり、あるいは回送電車が入ってきたその列車に上野駅から乗り込むスタイルです。

もう1つは電車で尾久まで行って、尾久の車庫に停まっている特急に乗り込んで、回送電車で上野へやってくる方法。

こちらは車庫の下にある職員用通路を通るので特別感がありました。

どちらにしても長距離の特急列車に乗り込むということは、今で言ったら国際線の飛行機に乗り込む感覚のようなもので、とてもワクワクした思い出があります。何しろ「はつかり」とか「白山」といえば6~8時間も走るわけですから、未知の世界への期待も高まるのです。

さて、では乗り込んだ特急列車の中ではどんな仕事があったかというと、だいたい食堂車は編成の真ん中に連結されていましたから、そこを拠点に列車の前後へワゴンを押しての車内販売。そして、忙しい時間帯や開店、閉店時の食堂車のお手伝いでした。

食堂車の調理室の一角に車内販売の準備室があって、始発駅で積みこんだ商品を小分けしてワゴンに積んで列車前方へ売りに行く。空になったワゴンを戻してきて、また商品を積んで今度は列車後方へ売りに行く。

本職のお姉さんに指示されながら、2人でペアを組んで車内をまわる仕事です。

本職のお姉さんが、この列車だとグリーン車の方から売りに行くとか、この区間までにサンドイッチと弁当を販売し、それが過ぎたらデザートやアイスクリームを売るなどと、時間と行程を考えていて、それにしたがって、あとは車内の様子を見ながら搭載品を細かく変えて売るのです。

筆者が以前に書いたニュース、

JRの「車内販売」。売ろうと思うから売れない。どうせ売れないならタダで配ってしまえ!

というのは、学生時代に筆者自身が経験した「車内販売業務」が元になっている考え方なのであります。

さて、当時筆者が乗務していた特急列車の編成表を1976年(昭和51年)8月の時刻表から見てみましょう。

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これが筆者が乗務していた当時の1976年8月号時刻表巻末に載る列車の編成表です。

「とき」は食堂車がある編成と無い編成の2種類ありますが、これは形式の違いで、食堂車がない編成は新型の183系。食堂車がある編成は旧型の181系。筆者が乗務したのは、東海道本線の特急「こだま」の流れを受け継ぐ181系だったことがわかります。

(実はこの「こだま型」は車高が低く連結面の通路に段差があって、ワゴンが通りにくくとても苦労したことを思い出しました。)

このように、国鉄は新型の電車を作る時には、この時点ですでに食堂車を編成から抜いていたことがわかります。

では、なぜ国鉄はそのようなことをしたのでしょうか。

特急列車の大衆化が招いた売り上げの減少

筆者がアルバイトした8月は国鉄の書き入れ時で、お盆の輸送などで列車は大混雑でした。

車内は車内販売のワゴンが通れないほど混雑している状態でしたが、そういう車内へお邪魔すると、「何でこんなに混んだところに入って来るんだ。」と煙たがられる反面、意外にも商品がよく売れました。

身動きできない車内で、お客様は車内販売が来るのを待っていたのです。

では、食堂車はどうかというと、チーフが浮かない顔をしています。

列車が終着駅に近づいて、売り上げの集計をしていると、「ダメだなあ。」とこぼしているのです。

その時のチーフの口から出た言葉は、

「自由席の客に粘られたんじゃ、たまったもんじゃない。」

ということでした。

上の編成表をよく見ると、「はつかり」以外の他の特急列車にはすべて自由席が連結されていて、座れなかった乗客が席を求めて食堂車に流れ込んでくるという構図があったのです。そして、せっかく座った自由席ですから、食堂車へ行こうものなら立ち客に自分の席を奪われかねませんから、自由席に座っているお客様も食堂車に来ない。食堂車に来るのは編成中車両が減らされた指定席のお客様と自由席で座れない人たち。これでは売り上げなど上がるはずもありません。

筆者が自分の経験から考える食堂車が無くなった理由というのは、特急列車に自由席を連結するようになったこと。

それまで指定券を持たなければ乗れなかった特急列車に自由席を付けることにより、利用者にとっては特急列車のハードルがグンと低くなったことが、食堂車を廃止に追い込む原因となったのです。

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1972年3月の「はつかり」「やまばと」「ひたち」「とき」「白山」編成表
1972年3月の「はつかり」「やまばと」「ひたち」「とき」「白山」編成表

筆者が食堂車に乗務する4年前の1972年3月号の時刻表では、常磐線の「ひたち」以外、「やまばと」「とき」「白山」のどの特急列車も全車両が指定席だったことがわかります。

ところが、筆者が食堂車に乗務した1976年の4年後、1980年になるとこういう状況です。

1980年5月号に見る「はつかり」「ひたち」「とき」「白山」編成表
1980年5月号に見る「はつかり」「ひたち」「とき」「白山」編成表

「はつかり」にも自由席車両が連結されました。

「ひたち」は食堂車は連結されてはいるものの「営業休止」

「とき」「白山」からは食堂車そのものが消えてしまいました。

これが1972年→1976年→1980年と、8年間に起こった特急列車の変化なのです。

特急の大増発による事実上の値上げ

当時の国鉄は大きな赤字に悩んでいました。

そのため、国鉄の幹部の人たちは増収がテーマになっていました。

国鉄は急行列車よりも特急料金を高く取れる特急列車を増発しました。

これが「L特急」という呼び名で増発された特急列車です。

(1980年の編成表の左上に「L」のマークがついているのがL特急の印です。)

この「L特急」は、毎時かっきりの発車などパターンダイヤ化し、自由席を設けることで気軽にご乗車いただける特急列車として思いっきりハードルを低くしたのです。でも、実はハードルを低くしたのは利用しやすい時間や自由席の設置だけであって、実際には特急料金はそのまま(自由席特急料金は100円引き:1972年)でしたから庶民のお財布にとってのハードルは決して低くありませんでした。

このようにして、特急を大増発することでそれまでの急行列車から実質上の値上げをしていったのが当時の国鉄でしたが、これにより座席指定を受けない自由席の乗客が急激に増え、その結果として、食堂車の経営が圧迫されていったというのが、筆者が経験した「食堂車が消えた大きな理由」です。

もちろん、高度経済成長により、食堂車の勤務などというどちらかというとキツイ仕事に対する人気も薄れて行ったのは事実です。

筆者が乗務した特急列車で一緒にペアを組んでいたお姉さんたちは、職場での会話を思い出すと、皆、地方出身者で、高校を出て集団就職で東京に出てきた人たちでした。(皆さんもう還暦過ぎですね。)

昭和50年代前半には東北地方などから東京へ向かう集団就職列車がまだ走っていた時代でしたから、そういう列車で上京して就職するのが一般的でした。食堂車の女性も、自分のふるさと方面へ行く列車に乗務するときは、折り返しの現地滞在時間に実家に立ち寄れるので、東京のお土産を買って乗務する方もいらっしゃいましたから、そういう時代だったんだと思います。

それ以降、日本の経済が良くなってくると、上京しなくても地方で仕事に就くこともできるようになりましたし、都市部の若者は列車食堂でキツイ仕事をしなくても、いくらでも仕事にありつける時代になったのも事実ですから、有識者や研究者の皆様方がおっしゃる「食堂車が廃止されていった理由」というのは間違いではありません。

でも、その大きな要因になって行ったのは、自由席のお客様に粘られて、食堂車そのものの売り上げがあがらなくなっていったことが大きかったのは事実でしょう。

売り上げがあがらないということは、儲からない仕事ということになります。

だとすれば賃金も低く抑えられるでしょうし、労働条件も向上しません。

その結果、職場そのものに魅力が無くなって、成り立たなくなっていった。

これが本当のところだと筆者は考えます。

最後の営業をする「白山」の食堂車。(Wikipedia 「食堂車」より)
最後の営業をする「白山」の食堂車。(Wikipedia 「食堂車」より)

上野を発車した列車の食堂車の営業はだいたい大宮の手前ぐらいから始まります。

その時点ですでに食堂車横の通路には行列ができていて、開店と同時にお客様がなだれ込んでくる。

そして、そのお客様が頼むのがビールとチーズクラッカー、ハムサラダ。

これで何時間も粘るというのは、筆者が実際にこの目で見た光景です。

そして売り上げ集計をするチーフが、ため息をつきながら「自由席の客に粘られたんじゃ、たまったもんじゃない。」と吐き捨てるように言った言葉。

有識者の皆様方は食堂車のお客様になった経験はあると思いますが、食堂車で働いた経験はないと思います。

だから一般論としての廃止原因のお話になるのは当然だとは思います。

筆者としては、もう40年以上も前の話ですが、食堂車に乗務した「ひと夏の経験」をもとに、筆者なりに体感する食堂車が廃止されていった本当の理由を解説させていただきました。

実は筆者が考える食堂車が廃止された本当の理由はもう一つあるのですが、それはまた次回にお話しさせていただきたいと思います。

(つづく)

※本文中に使用した列車編成表は筆者のコレクションから抜粋したものです。

えちごトキめき鉄道代表取締役社長。元いすみ鉄道社長。

1960年生まれ東京都出身。元ブリティッシュエアウエイズ旅客運航部長。2009年に公募で千葉県のいすみ鉄道代表取締役社長に就任。ムーミン列車、昭和の国鉄形ディーゼルカー、訓練費用自己負担による自社養成乗務員運転士の募集、レストラン列車などをプロデュースし、いすみ鉄道を一躍全国区にし、地方創生に貢献。2019年9月、新潟県の第3セクターえちごトキめき鉄道社長に就任。NPO法人「おいしいローカル線をつくる会」顧問。地元の鉄道を上手に使って観光客を呼び込むなど、地域の皆様方とともに地域全体が浮上する取り組みを進めています。

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