おっぱいと 汽車と 「昔はよかったんだぞ。」というお爺さん。

今から50年ほど前の房総の汽車。(昭和44年3月 撮影:山路善勝氏)

房総半島にいると、何かにつけて「昔はよかったんだぞ。」とか、「昔はすごかったんだぞ。」というおじさんがいることに気がつきます。

その人たちはだいたい70代で、今でも現役の人たちです。

70代といえばおじさんというよりもお爺さんですが、田舎のお爺さんはとても元気で、下手すりゃ都会の40代、50代のおじさんたちよりも元気ですから、ここではあえておじさんと呼ぶことにしましょう。

その田舎のおじさんたちがなぜ元気かというと、皆さん現役だからで、70代で現役ということはサラリーマンではありえませんから、そういう人たちは皆さん個人事業主で、後継ぎの自分の息子たちの世代に向かって「お前たちは知らないだろうけど、昔はよかったんだぞ。」と言うわけです。

親父さんが70代ということは、後継ぎの息子だって40、50になっているわけですが、田舎というところは面白いところで、40、50の息子といえば、都会のサラリーマンとしては働き盛りで、あるいは会社から「そろそろ関連会社へ出向してください。」と言われる年齢になっているにもかかわらず、田舎では、そういう年代の彼らはまだ「青年部」で、自分の意見を何か言おうものなら、親父さんから「お前にはまだ早い!」と言われるのでありまして、そういう現実があるのですから、田舎は東京には絶対にかなわないと筆者は考えています。

では、田舎のおじさんたちが、「昔はよかったんだぞ。」と得意気に言う、その、昔はよかったとはどういうことなのかといえば、房総半島の場合は昭和30年代後半から昭和40年代後半にかけて、ほぼ10数年間ほど見られた「海水浴ブーム」という時代であります。

そのころの日本には、当然ではありますが、沖縄はありませんでした。今のようにグアムやハワイに行くことも、プーケットに行くことも、モルジブに行くことも選択肢にはありませんでした。東京地区の人たちは、夏休みになると皆さんこぞって海水浴のできる房総半島にやってきたのです。都会のゴミゴミした喧騒を離れて非日常感を味わうには、汽車に乗って2~3時間で到着する房総半島は距離的にも最高な避暑地だったのです。

昭和49年(1974年)の時刻表。「房総夏ダイヤ」が表紙に記載されている特集号です。
昭和49年(1974年)の時刻表。「房総夏ダイヤ」が表紙に記載されている特集号です。

国鉄も、そういう需要に合わせて、毎年夏休みになると房総夏ダイヤと称して、海水浴臨時列車の大増発を行いました。定期列車も臨時列車も乗せきれないほどの乗客を乗せて房総半島へ向かいました。そしてその列車に乗って都会からやってきた海水浴客をさばくために、田舎の人たちは夏の間、自分たちの寝る場所をお客様に提供して、自分たちは物置や納屋で寝るという生活をしていました。これがすなわち民宿の始まりです。

そして、それまで貧しかった田舎の町に千円札が飛び交う状況が発生しました。

当時、国鉄の駅員をしていたおじさんに聞くと、切符を売りさばくのがとにかく大変で、足元にダンボール箱を置き、千円札をボンボン投げ込んでいたというような話をする方もいらっしゃいますが、もちろん当時の田舎の駅には自動券売機などあるはずもなく、すべて手作業で1時間毎に8両、10両でやってくる急行列車や臨時列車の満員の乗客をさばいていたのです。

新宿駅で房総行の急行列車に乗り込む乗客たち。座席を得るために我さきにと乗り込もうとする観光客の姿を捉えた貴重な1枚です。(昭和44年夏 撮影:結解学氏)
新宿駅で房総行の急行列車に乗り込む乗客たち。座席を得るために我さきにと乗り込もうとする観光客の姿を捉えた貴重な1枚です。(昭和44年夏 撮影:結解学氏)

これが、今、房総半島のおじさんたちが言う「昔はよかったんだぞ。」ということで、今70代以上のおじさん、お爺さんたちは、当時20代から30代前半でしたから、ウハウハだった当時をよく覚えているのです。

だから、今でもふた言目には「お前さんたちは知らないだろうけど、昔はよかったんだぞ。」と言うのでありますが、言われた40代、50代の息子としては、今をどうやって生きていくか、これからどうしていくかという責任がありますから、親父さんたちにいくら「昔はよかったんだぞ。」と言われたところで、今、目の前にある現実を解決する手段にはなりませんから、「もうその話は聞き飽きたよ。」と思いながらも、現役である長老たちに頭が上がらない現実があるのです。

その前の世代の人たちはどうだったか

さて、筆者の父親の話ですが、父は昭和7年生まれ。生きていれば今年87歳になります。つまり「昔はよかったんだぞ。」というおじさんたちよりも一回りほど上の世代になります。筆者の父は東京の築地で生まれたのですが、戦争が激しくなってきたので母親(筆者の祖母)が子供たちを連れて自分の実家がある房総半島の興津に疎開をしました。詳しい話は分かりませんが、筆者の祖父はその後空襲でお亡くなりになったようで、戦争が終わっていつまで待っても興津の家族を迎えに来なかったのです。祖母は覚悟を決めて自分の実家がある興津で一人で子育てをしましたので、父は戦争が終わってもそのまま房総半島に残り、鴨川の長狭高校を卒業しました。

そのころの房総半島というところは、今では信じられませんが、女の人はおっぱい丸出しで浜で仕事をして、男はふんどし一つで船に乗っているような所でした。当時を記録した「海女の群像」海に生きるヴィーナスたち(岩瀬禎之撮影)という御宿町の海女の日常を記録した写真集が復刻出版されておりますので、ご興味のある方はご覧いただきたいと思いますが、その写真集には表紙からおっぱい丸出しの房総の海女さんたちが記録されていて(写真は載せません)、つまり、筆者の父がいた当時の房総というところは、そういう所だったのです。

子供のころに東京の記憶がある父としては、学校が終わると家の手伝いをさせられ、休みのときは炭焼き小屋にこもり、町を歩けばそんな原始的な生活をしている人たちの姿を目にするのですから、「こんなところに居られない。」と、高校を卒業をすると親類を頼って東京に出てきたようです。まもなく始まる房総半島黄金時代の到来など知る由もないことでした。

それが昭和20年代中ごろの話ですが、だから筆者は自分の父親から「昔はよかったんだぞ。」という話は聞いたことがありません。炭焼きをやらされたり、家の手伝いをさせられたりと、若かった父にとっての房総半島には厳しくてつらい思い出しかなかったんでしょうね。今、70代の人が言う「昔はよかったんだぞ。」という時代は、筆者の父が若かった昭和20年代中ごろにはまだ訪れていなかったのです。

やがてやってくる交通革命の時代

では、その昭和30年代中ごろにはじまった「昔はよかったんだぞ。」の時代がいつまで続いたかという話ですが、昭和47年(1972年)に東京地下駅が開業して房総電化が完成したのと時を同じくして沖縄返還がありました。昭和50年にその沖縄で海洋博が開催されるころには、国内線でジャンボジェットが飛び始め、日本人のレジャー環境が大きく変化しました。経済成長に伴い、皆さん急速に生活が豊かになって行きましたから、昭和53年に成田空港が開港する頃にはグアムやハワイも日本人のレジャーの目的地として定着してきました。そして、そうなると房総半島からは急速に海水浴客が姿を消し始めたのです。

そのころ筆者は高校生でしたが、サザンオールスターズが「勝手にシンドバッド」でデビューして、サーフィンブームが訪れて、それまでの海水浴客がサーファーへと変わって行きました。

ところが当時の国鉄は、長年海水浴客をどうやって運ぶかという課題と戦ってきていましたから、経験上「そんな大きなものを車内に持って入られたら、輸送に支障が出る可能性がある。」として、こともあろうに「列車内へのサーフボード持ち込み禁止」を表明しました。今なら差し詰め「大型スーツケース持ち込み禁止」とでもいうようなもので、サーフィンという房総半島へ行くお客様の新しい需要に応えることなく、切り捨てたのです。

これによりサーファーたちは鉄道で海へ行くことができなくなり、折からのマイカーブームもあって、中古自動車を購入して車で房総半島へ出かけるようになりました。そして、一度車の便利さを知ってしまった若者たちは、鉄道に戻ることはありません。と同時に、車ならば夜討ち朝駆けで行動することが可能になりましたので、民宿などという粗悪な宿泊施設には誰も泊まらなくなりました。こうして、わずか10数年で、「昔はよかったんだぞ。」というウハウハの時代は過ぎ去ったのです。

つまり、筆者の父が「こんなところには居られない。」と房総半島を捨てて東京へ出て行ったのが昭和20年代中ごろで、その10年後には海水浴ブームでウハウハになったものの、それとて10年ほどのことで、昭和50年代には房総半島からは海水浴客が姿を消し始めたのです。

昭和60年代に入ると、若者たちは、健康の象徴だった小麦色の肌になるために、ジェット機に乗って海外のビーチへ出かけるようになり、あるいは都会にも日焼けサロンのようなビジネスができ始めましたから、海に行くことすら不要になりました。

そして現在は「美白の時代」を迎え、日焼けそのものを嫌うのが当たり前の時代です。かつては健康美の象徴だった日焼けが、今では病気を誘発する危険行為と言われるのですから、世の中は全く逆の動きをしているのです。そして、房総半島の観光地からは海水浴客の姿は消え、海岸のパーキングで車中泊するサーファーばかりとなり、そういう姿を見るたびに、おじさんたちは「昔はよかったんだぞ。」と言っているのです。

まるで諸行無常の世界のようで、昭和の末期から平成にかけては観光と言っても10年単位で世の中がくるくると変わってきたのでありますが、その中のわずか10数年ほどだけの、昭和30年代後半から40年代後半の黄金時代を若いころに経験したおじさんたちだけが、今、「昔はよかったんだぞ。」と言っているにすぎないのです。

でも、不幸なことに、その年代のおじさん、お爺さんたちが、田舎の町には長老として君臨しているということも現実でありますから、「今を何とかしなければならない。」という40代、50代の人たちが、思う存分活躍できない構造が存在すると筆者は分析しているのでありますが、昭和20年代の戦後復興から始まって、昭和30年代の所得倍増論に始まる経済成長から、昭和40年代以降のオイルショック、海外旅行ブーム、マイカー文化、そして今ではLCC(格安航空会社)の台頭という交通革命と観光客の嗜好の変化などなど、日本を取り巻く状況は全国共通でありますから、もしかしたら「昔はよかったんだぞ。」と若者たちに向かって語るおじさんたちも全国共通に存在するのではないでしょうか。

だとすると、地方創生がうまく機能しないという状況も全国共通なのではないか。そしてそれはかつて栄華を経験した地域であればあるほど、そこには障害があるのではないか。子供のころからよそ者目線で房総半島を見てきた筆者は、そう考えるのであります。

今、40代、50代の田舎の「若者」たちは、やがてやってくる自分たちの時代には、決して何の戦略も持たずに「昔はよかったんだぞ」と言うだけのおじさんにはなって欲しくはありません。

自分も気をつけなければなりませんね。

日本の明るい未来のために。