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台湾総統選挙 中国との向き合い方 「民主主義は勝利した」は本当だろうか

富坂聰拓殖大学海外事情研究所教授
(写真:ロイター/アフロ)

 米中対立で海峡の波が高まれば太平洋に浮かぶ台湾は木の葉のように揺れる。そのクライマックスの一つが台湾総統選挙だった。

 世界が注目する選挙に勝ったのは民主進歩党(民進党)の候補・頼清徳副総統だった。その瞬間、西側メディアはこぞって「台湾の人々が中国との統一を拒んだ」と打電した。

 だがその後の台湾に充満していたのは歓喜とも落胆とも言い難い空気だった。当選を果たし台北の希望広場で支持者の前に立った頼の笑顔も、どこかすっきりしなかった。

「それは不思議なことではないでしょう」と語るのは台湾の政治記者だ。

「この選挙の裏のテーマは政治不信です。有権者には投票しても仕方がないという、ちょっとした無力感が広がっていましたから」

 言われてみれば思い当たることばかりだ。

 今回、対岸の厦門に行く予定があり海峡を渡って台湾に入ったのだが、選挙前の熱気を感じることができたのは、飛行機の座席が満席であったことと台湾に着き各政党の支援集会を回ったときだけだった。

 空港から乗ったタクシーの運転手は、選挙の話題を持ち出したとたん、興味はないと首を横に振った。

投票に行く暇などない

「投票に行けば2時間はつぶれる。もったいない。でも、もし誰かが1000ドルくれるっていうなら仕事を休んで投票に行くよ。オレたちはこんなに働いても、一生でマンション一つ買えない。こんな惨い状況を変えてくれる候補がいれば、一票入れに行くよ」

 中国への警戒はないのか。そう訊ねても、

「考えても仕方がないだろう。どうせ遅かれ早かれ飲み込まれるんだ。オレは毎日一生懸命働いて、家族を養うだけだ」

 偽悪的な言い草だが、「どうせ」というやや投げやりな態度は、程度の差こそあれ多くの人が共有していた。

 投票前日、初二のため土地の神を祀る線香の香りがうっすらと街を包むなか、歩道に供物を並べていたレストランの初老のオーナーに声をかけると、「前回は民進党に入れたが、今回は別の政党にいれる」とその理由をこう語ってくれた。

「新型コロナウイルス感染症対策での蔡英文政権の迷走ぶりはいまも忘れられない。一人一人の生活も悪くなるばかりだ。しかも、好転の兆しも見当たらない。お灸をすえる? そういう意味じゃなくて単純に嫌になった」

 4年前、国民党を熱烈に応援し選挙活動にも携わった60代後半の男性は、いまは選挙そのものに関心を失ったと嘆く。

「私の両親は浙江省出身の軍人。だから当然国民党を熱心に応援してきた。でも生活は苦しいまま。昨年妻が入院して、もう政治なんてどうでもよくなった。国民党の応援どころか、もう投票にも行きたくない」

 投票日はあなたたちが尊敬してやまない蔣経国の命日だが、と水を向けても、ただ迷惑そうに目の前の空気を払ってみせたのだ。

 日々の生活に忙殺される人々の耳に、日本メディアが歓呼し続ける「民主主義を守る戦い」は、どれほど響いていたのだろうか。

 こうしたある種の「しらけ」ムードは選挙結果にも少なからず反映された。

勝者なき選挙

 日本経済新聞は14日「勝者なき台湾総統選、3陣営が「謝罪」 支持者も複雑」という記事を配信した。これは現地で見聞きした感覚とピタリと符合する。

 実際、選挙に勝った民進党は、この戦いで多くの支持者を失った。

 今回の総統選は与党・民進党と中国国民党(国民党)、台湾民衆党(民衆党)からそれぞれ頼、侯友宜、柯文哲が立候補し、政党のシンボルカラーから緑と藍と白「三つ巴の戦い」と称された。それを二大政党の一騎打ちだった前回(2020年)と単純に比較すべきではないかもしれない。だが、そうした点を勘案しても得票の見劣りは顕著だ。

 前回、817万票を獲得した蔡英文の得票率は57・13%超。対抗馬だった韓国瑜(国民党)の552万票(38・61%)に大差をつけた。しかし今回、頼と侯の得票率はそれぞれ40・03%と33・50%でその差は7%に満たない。民衆党にも多くの票を奪われた。

 40%の得票率といえば、民進党が国民党に大敗した2008年の数字(41・55%)にも満たない。頼以外に投じられた票のすべてが与党への不信任票とはいえないものの、厳しい結果だ。

 さらに目立つのは伝統的に民進党が強い南部での地盤沈下だ。4年前との支持率を比較すると台南市が約67・38%から50・9%へ、高雄市が約62・23%から48・8%へ、いずれも大きく支持率を下げた。

 総統選と同時に行われた立法委員選挙では民進党が議席を10減らしたのに対し国民党はプラス14で第1党の地位を奪った。

 議会でのキャスティングボートは今後、民衆党が握り、頼政権は苦しいかじ取りを余儀なくされる。

対中国では差はほとんどなくなっていた

 これがどう対外関係に影響するのか。日本をはじめ各国の関心事だが、選挙戦の終盤には各党候補の対中国の姿勢にはほとんど差異が認められなくなっていた。どの候補も相手陣営の票を奪おうと政策の間口を広げたことで、みなが「現状維持」という真ん中に寄ってしまったからだ。

 目下の台湾の問題は、短期的には物価高騰と賃金の伸び悩み、不動産価格の高止まり、長期的には半導体産業に吹く逆風と深刻な少子化、台湾経済をけん引する産業の不在などだ。それらと正面から向き合うのを避け、「中国の脅威」という万能薬を多用して東アジアの安全を不安定化させる時代は終わりへと向かうのかもしれない。

 一方、少し心配になったのは台湾内部で進む静かな対立と反目だ。

 台湾の日系企業の責任者たちは、「選挙のことを社員と話したいけど、あまり深く訊くとパワハラになるから」とことわりながら、「(現地の社員は)みな選挙に触れたがらない反面、政治的な立場はすごくしっかり持ってる」と口をそろえた。

 台北市内でタクシーに乗れば、ラジオから大音量で流れてくるのは投票を呼び掛ける候補者のCMだ。そのラジオをきっかけに運転手に選挙の話を振ってみても、たいていは口が重い。だが、一たび相手が日本人だと分かると、突然堰を切ったように話し始め、止まらなくなる。

 これは裏を返せばいま政治は台湾人同士では話しにくいテーマになっているということだ。社会が抱えるある種の息苦しさだ。

 中国との距離を対立軸にして折り合えない溝を社会に刻み込む。それが台湾の団結を損なっているのだとすれば皮肉な話だ。日本にとっても他山の石だ。

拓殖大学海外事情研究所教授

1964年愛知県生まれ。北京大学中文系中退後、『週刊ポスト』記者、『週刊文春』記者を経て独立。ジャーナリストとして紙誌への寄稿、著作を発表。2014年より拓殖大学教授。

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