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防衛力強化を叫ぶより台湾海峡の安定には必要なものがある

富坂聰拓殖大学海外事情研究所教授
(写真:ロイター/アフロ)

 ナンシー・ペロシ米下院議長の台湾訪問に反発して、中国は大規模軍事演習を行った。

 バイデン政権は中国に「自制」を呼びかけ、先進7カ国(G7)は軍事演習を非難する共同声明を発した。日本の排他的経済水域にもミサイルが着弾し、岸田政権も中国非難のG7声明に名を連ねた。これを受け、日本国内では防衛力強化を求める声が高まっている。

 日本人は本気で、そんなことで台湾海峡が落ち着くと思っているのだろうか。

 国家統一は中国共産党(共産党)の極めて神聖な目標だ。どんな強い力が彼らの祖国統一の意志を挫けるというのだろうか。核兵器もなく、軍事力で劣っていた時代でさえアメリカと対峙し、台湾を諦めることはなかったのである。GDPで日本の3倍に膨らんだいま、なおのことだ。

 では日本は、ただ手をこまねいて見ているしかないのか。実は、そうではない。

 少し発想を転換すれば、台湾海峡を覆うきな臭い煙は、日本独力でも取り除くことは可能だ。単に、岸田政権が台湾の蔡英文政権に「『九二コンセンサス=九二共識』への回帰」を促せばよいだけの話だからだ。

 「九二共識」とは1992年、共産党と中国国民党(国民党)が「一つの中国」で認識を共有させた作業を指す。そして中台の対立では長らく、衝突回避の歯止めとなってきた。共産党が台湾統一のアクセルを緩め、現状維持を「黙認」する理由もここにある。

 ゆえに、もし台湾側が「九二共識」を否定すれば、共産党も台湾政策を根本から見直さざるを得なくなる。国土喪失にもつながる非常事態であれば当然だ。武力を使ってでも阻止しなければ国民に顔向けできなくなる。

 2016年に誕生した蔡政権は、この危険性を知りながら「九二共識」を否定した。

 ここ数年の台湾海峡の緊張の高まりはここから始まったと言っても過言ではない。つまり西側の常套句である「現状変更」は、中国に対してよりもまず、民進党に向けられなければならないのだ。

 この前提を無視して中国を批判しても習近平政権の耳に届くはずはない。

 だが、蔡政権は非難されることはなかった。米中対立の激化や香港デモ、コロナ禍で失墜した中国のイメージが追い風となり、加えてアメリカが中国をけん制する恰好の材料として、これを利用したからだ。

 大陸と台湾(以下、中台)の攻防は「民主主義を守る戦い」に塗り替えられ、日本で見るほとんどの報道からは「九二共識」の文字は消え、中国が一方的に台湾にプレッシャーを与えているという印象を与えている。

 だが繰り返しになるが安定していた中台関係に緊張を持ち込んだのは蔡政権の「九二共識」の否定だ。民進党が中華民国の政党である以上、国民党時代の約束だからと反故にしてよいものではないのに、だ。

 これを「専制主義との戦い」と正当化された中国の悔しさは、想像に難くない。

 台湾はまた「九二共識には(中台)双方の考え方の一致がない」とも主張するが、一致しないのは「一つの中国」の「一つ」が「中華人民共和国」か「中華民国」の違いであり、本質的な問題とはいえない。

 大切なのは、中台が「九二共識」を前提に関係を築いてきたことだ。台湾もそれによって多種多様のメリットを得てきたのだ。

 例えば、台湾が国際機関に参加する道を、中国が開いてきたことだ。

 2020年、コロナ禍のなか台湾の世界保健機関(WHO)からの排除が話題となった。日本のメディアのほとんどは「中国の意地悪」だと解説したが、正確には蔡政権の「九二共識」否定を受け、中国が従来認めていた台湾の参加に同意しなく なった結果である。

 事実、台湾は2017年までの8年間、WHOにオブザーバーとして参加していたし、逆にもし「九二共識」を認めれば、すぐにでも復帰は可能だろう。

 また中国に進出した台湾企業が、「一つの中国」を前提に多くの優遇政策を認められ、両岸の往来や通関でも特別扱いを受けている。

 そして最も見落としてならないのは、「九二共識」が中台の対立激化を防ぐ安全装置として機能してきた点だ。これが重要なのは、中国は「平和統一」を掲げながら、一方で例外にも言及しているからだ。

 共産党が武力を使うと公言しているのは、台湾の独立の動きに対してだ。そして「九二共識」の否定は、中国の目には独立への兆候と映る。民進党がそこに踏み込めば、中台関係が荒れるのは当たり前なのだ。

 西側はいま、「台湾海峡の平和と安定」と、中国をけん制する。だが「平和統一」はアメリカや国際社会、ましてや台湾が勝ち取った約束ではない。中国が一方的に宣言したのである。彭徳懐や葉剣英らが出した「台湾同胞に告げる書」を鄧小平が発展させたものだ。

 国共内戦では当初、近代兵器をそろえた国民党が圧倒的に優勢だった。だが最終的に共産党に敗れた蒋介石は台湾に逃れた。

 それでもアメリカの支援を受けた台湾は、まだ制空権を持てなかった――まともなレーダーもなかった――中国大陸を無差別に空爆する力を持ち、実行もしたのだ。

 その後も経済発展を続けた台湾は兵器の近代化を進め、やっと両岸の力の差が埋まり逆転し始めた――核兵器を除き――のは80年代の終わりから90年代にかけてのことだ。

 鄧小平が「平和統一」を打ち出すのは、共産党が力で台湾を統一できる見込みが出たタイミングだったのである。

 中国が平和統一に舵を切った理由はいろいろ考えられる。米軍の抑止力がある程度機能していたことやアメリカ政府が台湾に売却する兵器の性能に制限を加え、両岸のバランスに貢献していたこともそうだ。しかし、やはり最も重要なのは中国自身が戦争よりも経済発展を優先したことだ。

 中国は祖国統一より、足元の安定と経済発展を優先したことになるが、この選択は国民にも支持され、現在にも通じている。

 そんな中国に「平和統一」の看板をわざわざ下ろさせるような挑発をする必要があるのだろうか。疑問である。

 もちろん、だからといって「九二共識」への回帰を台湾に強いることが台湾の人々の不利益につながるのであれば、それは上策とはいえない。

 だが、現状維持で互いに付かず離れずの距離を保ちながら、双方が貿易の利益を享受しつつ、さまざまな判断を将来に委ねる選択が、それほど台湾にとって悪い選択だとは思えない。少なくとも短期間に何かを勝ち取ろうとしてチキンレースを挑むより、はるかに現実的でメリットも大きいはずだ。

 長期的にみても、台湾海峡を刺激し続ければ、共産党はその背後にある米軍を意識して大軍拡へと向かうだろう。それも日本を含めたアジアにとって望ましいことだと思えないのだ。

 だからこそ日本が、中台の話し合いの前提となる「九二共識」への回帰を蔡政権に促し、現状維持の条件を整えるべきなのだ。

 ロシアのウクライナ侵攻以降、台湾は「明日のウクライナ」と呼ばれてきた。しかし、ヨーロッパが戦争を回避できなかったからといって、アジアも同じ轍を踏むとは限らない。いまや欧州よりアジアの知恵は勝っているかもしれないからだ。

拓殖大学海外事情研究所教授

1964年愛知県生まれ。北京大学中文系中退後、『週刊ポスト』記者、『週刊文春』記者を経て独立。ジャーナリストとして紙誌への寄稿、著作を発表。2014年より拓殖大学教授。

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