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「お土産は百円ライター」から「爆買い」へ ~ 平成の三十年で中国と日中関係はこれだけ変わった

富坂聰拓殖大学海外事情研究所教授
連休にはドッと押し寄せる中国人観光客(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

 かつてトウ小平は、香港返還交渉に際し「五十年不変」と語り、香港に暮らす人々の不安に配慮した。だが、ほとんどの香港人はこれをマニフェストとしか受け止めなかった。

 五十年後を想像できる者などいないのだから、当たり前の反応かもしれない。

 五十年どころか、十年後を予測することさえ容易ではない。平成の三十年となればなおさらだ。日本では、平成元年に〇・三%しかなかった携帯電話の普及率が二九年には一一〇%にまでなった。子供や老人を除けば「二台持ち」市場も飽和しつつある。

 まもなく終わろうとしている平成の三十年間で、日中関係も大きく姿を変えた。

二国間で起きた変化、また中国の激動を改めて振り返ってみたい。

世界を驚愕させた平成元年の事件

 日本のわずか一五%しかなかった中国のGDPは、いまや日本の三倍に膨らんだことは象徴的だろう。だが、何より平成元年の中国は存亡の危機のなかにあったことだ。

 平成元年は、私にとって忘れられない年だ。

 週刊誌の記者一年生で、天皇崩御とぶつかり、殺人事件の現場を走り回るなか、川を一本隔てた(一衣帯水の意味)隣国、中国で世界を震撼させる事件が起きたからだ。

 血の惨劇、天安門事件である。

 民主化を求める学生や市民を中国共産党は人民解放軍を使って力で排除した。

 早朝、カーテンのすきまから漏れる弱い光のなか、受話器を持ち上げると、取り乱して嗚咽する中国の友人の声に、尋常ではない何かを予感し、鳥肌が立った。

世界を駆け抜けた社会主義政権崩壊ドミノ

 国民に銃を向けるような政権が、長続きするはずはない――。誰もがそう思った事件だった。

 平成元年は、国際政治の激動期とも重なる。ソビエト連邦が崩壊へと向かう社会主義政権のドミノ倒しが東欧から始まった元年で、東西冷戦が終焉へと向かってゆく勢いに包まれた世界では、中国共産党の命脈もいずれは尽きるだろう、そんな観測が広がっていた。

 中国経済も疲弊していた。

 トウ小平の登場により政治から経済へと大きく舵を切った中国は、改革開放の掛け声の下、やっと国民が「豊かになる喜び」を公然と爆発させられる環境を整えたばかりだった。その直後の天安門事件だ。

 世界は中国共産党の暴挙を非難し、制裁を発動した。孤立した中国では、国民生活が窮乏し、中国は再び長い冬へと向かうかのように消沈した。

 平成の三十年間を振り返ったとき、中国は幾度となく強い逆風にさらされ紆余曲折を繰り返してきたといえるのだが、それでも中国共産党にとっての最大の危機は、まさにこの年であったはずだ。

韓国の人口に匹敵するリストラ

 少し発展史を振り返ってみよう。

 九〇年代には開放政策の下、外資に門戸を開放したことで国内産業がダメージを受け、リストラの嵐が吹き荒れた。一説にはこの十年間で韓国の人口に匹敵する人員削減が断行されたともいわれた。

 重厚長大産業の集積する東北・内陸部を中心に労働者の呻吟する声があふれた。東北では靴工場の労働者が道端で現物支給された靴を自ら販売する様子がメディアでも伝えられるほどだった。

 だがその一方では、トウ小平が発展のチャンスを逃すなと大号令をかけた「南巡講話」によって再び火のついた金儲けへの欲求が爆発し、九〇年代末には外資導入の効果もあらわれ、「世界の工場」へのテイクオフが本格化していった。

 同じころアジア通貨危機で冷や水を浴びせかけられた中国は、少しの足踏みを経験するが、世紀をまたぐころにはその潜在力を爆発させる。長らく「幻」と言われ続けた巨大市場――この時点では市場ではないが――が目覚め、日本企業が大陸で大きな利益を手にする時代を迎える。ここから北京オリンピックまでが最も幸せな時代ともいわれる。

 二〇〇八年、リーマンショックに端を発した世界金融危機は、対欧米輸出に依存していた中国を慌てさせ、四兆元の巨額投資に走らせる。投資の効果は大きく、中国経済は世界に先駆けてV字回復を遂げ、世界経済をけん引し始めるのだが、その後遺症は長く中国を蝕むことになる。

次の発展モデルを模索する苦しみ

 平成二四年には、中国が一つの発展モデルを失ったことを総理が宣言したように、経済の「老化」という問題と、高速発展する社会に蔓延した格差の問題が、ダブルパンチとなって政権を襲う。現役の国家主席と総理がそろって未来を悲観する発言をする場面もあった。これが習近平の反腐敗キャンペーンにつながったことはよく知られている。

 だが、概してみれば、平成の三十年は中国にとって「台頭する三十年」であったことは間違いない。

 中国ブランドなど入る余地のなかった日本の家電量販店の店頭には、ファーウェイ、レノボ、ハイアール、格力、TCLといった製品が日本ブランドを押しのけて陳列されるようになった。

 平成元年には一家に一台の電話など、まだまだ夢の話であったのに、いまや街の物乞いまでがスマートフォンを持ち、横にQRコードを書いた紙を立てかけている。

 中国人に渡す土産も、そろそろ百円ライターでは喜んでもらえなくなり、九八〇円の電卓をもっていっていた時代から、いまや中国人観光客が年間八三〇万人も訪れる時代となったのである。

 映画の興行収益は日本の四倍である。

憎しみ合う平成三十年を超えた日中

 日本にとっての最大の貿易パートナーがアメリカから中国へと変わったのも平成の変化だ。

 輸出は、平成二一年。輸入に至っては平成一六年、それぞれ中国が最大のパートナーとなっている。

 そしてこの間、日中関係も大きく変わった。

 平成の入り口で友好の終焉を迎え、下り坂の一途であった関係は、平成の終わりを迎えて再び友好へと向かう、その兆しが返ってきているのだ。つまり、日中関係の平成とは「日中が激しく対立する時代だった」と記憶される時代なのだ。

 平成元年の天安門事件で世界は中国に制裁を下したが、日本は「中国を孤立させることは得策でない」と制裁に慎重だった。

 だが、中国共産党は事件により人民からの信頼を失い、経済的にも疲弊し、その危機のなかで自らの正当性を主張することにまい進した。すなわち、「誰が侵略者を大陸から追い出したのか」という党の実績を強調することで対日関係を犠牲にした。危機感からの選択とはいえ、愛国教育という名の歴史教育は、日本が侵略者代表として古傷をえぐられることとなり、多くの日本人の頭のなかに中国共産党に対する不信感を芽生えさせた。

 両国の国民は、互に激しい感情をぶつけ合うようになり、国際社会にもその認識が広がった。

 だが、平成の三十年を経て、いま日中は互いに対立することのデメリットを痛感した。

 もし令和の時代に「平成は仲悪かったね」と振り返ることができれば、これも無駄ではなかったと言えるのだろう。

 平成は日中対立の時代だったが、それは「よそよそしい友好の昭和」から「本当のウインウインの令和」に至る必要な対立だったと。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

拓殖大学海外事情研究所教授

1964年愛知県生まれ。北京大学中文系中退後、『週刊ポスト』記者、『週刊文春』記者を経て独立。ジャーナリストとして紙誌への寄稿、著作を発表。2014年より拓殖大学教授。

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