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ネット弁慶殺人事件の事実をうけ、私たちが真剣に考えるべきこと

徳力基彦noteプロデューサー/ブロガー
ネット弁慶は、インターネットの中のみで強気な人だと考えられてきました(写真:アフロ)

 6月24日に福岡でおきてしまったHagexさんの刺殺事件から、もう3週間以上が経過しています。

 正直、この事件についてはまだ全ての真相が明らかになったわけではありませんし、いまだに自分の中では整理ができていない点も多々あるのですが。

 このまま事件を風化させるのは良くないのではないかという複雑な思いが、どうしても頭の中でぐるぐるぐるぐると空回りしてしまうのと、この事件に関する取材の打診を受けたこともあり、一度自分なりの整理を書きだしてみたいと思います。

 今回の事件は、直接面識がなかった容疑者と被害者が、オンライン上での投稿がきっかけとなって発生してしまった殺人事件ということで、事件発生直後は情報が錯綜し、メディアの報じ方や、言及の仕方に対しても様々な問題提起がなされました。

 特に初期の報道では、容疑者と被害者が直接ネット上で論争をしていた結果、今回の事件が発生したという誤解をしたままの報道も多かったため、ネット上のケンカにより発生した事件であり他人事として受け止めているネット業界関係者も少なくないようです。

■同じことは自分にも起こりえたのではないか

 ただ個人的には、今回の事件の恐ろしいのは、今回の事件が単純な二人のネットユーザーの間でのケンカとは言えない点にあると感じています。

 誤解を恐れずにあえて書くと、今回の事件の裏側を知れば知るほど、私自身も同じ状況に追い込まれた可能性があったのでは無いか、と感じてしまうのです。

 こうやって書くと、私が自分を重ねるのは被害者であるHagexさんだろうと思う方も多いと思います。

 実際、私はこうやってYahooにも記事を書かせて頂いているブロガーですし、過去にブログがきっかけでプチ炎上したり、訴訟をほのめかされたこともある人間ですので、Hagexさんと同じことが起きると身の危険を感じていないかと言えば、感じている人間ではあります。

 Hagexさんと直接面識はありませんが、ブログでリンクしたりされたりしたことはありますし、私が主催しているメディアミートアップというイベントの登壇者としてHagexさんを候補として考えたこともあります。

 そういう意味では、もし自分が主催したイベントで今回の事件が起こってしまっていたらと考えると、言葉にできない恐怖を感じてしまうのは事実です。

 しかし、今回の事件が私にとって本当に恐ろしいのは、自分が被害者のHagexさんではなく、低能先生と呼ばれる松本容疑者と同じ状況に追い込まれることもありえたのではないか、と感じてしまうところにあります。

(低能先生という言葉を繰り返し使いたくないこともあり、以下「容疑者」に統一させて頂きます。)

 もちろん、念のために明確にしておきますが、今現在、私自身が精神的に追い込まれているわけではありませんし、当然ながら今回のような凶行を起こす可能性を自分の中に感じているわけではありません。

 何卒、通報はしないで頂ければと思いますが。

 私の中でどうしても消せないのが、今回の容疑者は殺人事件を起こすべくして起こすような人間だったのだろうか、という疑問です。

■事件の引き金を引いたのは被害者ではない

 今回の事件がなぜ発生してしまったのかについては、容疑者の心の中を覗いてみなければ本当のところは分かりませんが、現時点でおそらく最も整理された内容は、こちらのおおつねさんの分析結果でしょう。

参考:「本当の引き金は6月10日の"増田"ではないか」Hagexさん殺害事件、親交のあったおおつねまさふみ氏に聞く 

 

 事件の背景は上記の記事を読んで頂いた方が想像がしやすいと思いますが、念のため事件までの流れを時系列でまとめるとこうなります。

■2015年頃から  容疑者が、はてなブックマークのIDコールという機能で、一部のネット有名人を批判しているはてなユーザーや、そのユーザーのブログに賛同ブクマをつけたユーザーへの「死ね」や「低能」などの罵倒コメントを繰り返していた模様。

(「低能」という罵倒投稿自体は2011年頃からしていたのではないか、という説もあるようです。)

■2015年  容疑者は勤務していたラーメン店を退職

(退職により投稿がエスカレートしたかどうかの因果関係は不明)

■2016年  特徴的な罵倒コメントから、容疑者が「低能連呼君」や「低能先生」として、はてなユーザーに認識されるようになっていく

■2017年9月21日  容疑者により利用されたID一覧リストが作成され、明確に低能先生問題がはてなユーザーの間で共有されるように

参考:低能先生の捨てIDをわかる限り集める(2018/5/31まで)

■2017年~2018年  並行して容疑者のIDコールもエスカレートし、はてな運営側の通報後のアカウント停止の対応も迅速になっていた模様

■2018年4月29日  容疑者に対する集団損害賠償請求の提案がされる

参考:「低能先生」への集団損害賠償請求について

 

■2018年5月2日  Hagexさんが標的になったきっかけと考えられているブログが書かれる

参考:低能先生に対するはてなの対応が迅速でビックリ

 

■2018年5月  発信者情報開示請求が通過

       これにより容疑者による罵倒コメント自体は減少していた模様

■2018年6月9日  東海道新幹線での殺人事件が発生

■2018年6月10日  はてな匿名ダイアリー上で、容疑者が犯人ではないかという投稿がされ、その過程で容疑者のようなネット弁慶には無理だという趣旨の議論がされる

■2018年6月18日  容疑者らしき人物がネット弁慶を卒業しようと思っている旨の発言を書き込み、「じゃあ行動してみろよ 早く早く早く」とあおられる

■2018年6月24日  刺殺事件発生

         その後「おいネット弁慶卒業してきたぞ」と犯行声明ととれる投稿がはてな匿名ダイアリーにされる。

参考:hagexと低能先生のネット上での絡み - 暗夜を行く

 この一連の流れを見る限り、容疑者が実際に刺殺行為にいたる直接的なきっかけは、東海道新幹線での殺人事件であり、その後にネット上で「ネット弁慶」と煽られたことにあるように見えます。

(追記:山本さんとおおつねさんにご指摘頂きましたが、容疑者の供述によると「Hagexさんの福岡入りを知り一か月前から殺害を準備していた」という趣旨の発言もあるようで、6月のネット弁慶発言に煽られて突発的に殺意が起こったのではなく、5月上旬の情報開示請求あたりから計画をしていたと推測されるようです。)

 実際、一部報道では、Hagexさんは標的の一人でしかなかったことが明らかになっているようです。

 そういう意味で、今回の事件はネット弁慶だと扱われた容疑者が、その言葉に反発する形で殺人事件を起こしてしまったということから、記事のタイトルはあえて「ネット弁慶殺人事件」と書きました。

 ただ、この「ネット弁慶」と煽られたことだけで、突発的に殺人事件につながったわけでもないというのが、今回の事件の深刻なところです。

■罵倒行為の背景にあった「正義」

 正直、私は実際に事件が起こるまで、今回の容疑者を巡る騒動は一切知りませんでした。

 個人的には、はてな匿名ダイアリーの独特な言論空間は性に合わず、ほぼ出入りをしていませんし、最近はイケダハヤトさんやはあちゅうさんのような、いわゆるネット有名人界隈の論争にもできるだけ関わらないようにしているからです。

 低能先生という呼び名も、その存在も、事件後の報道で初めて知りました。

 ただ、今回の事件が起き、一連の記事をむさぼるように読み漁る過程で自分の中で恐怖を感じてしまったのは、今回の事件が「正義感」を起点として発生している点です。

 過去の容疑者の投稿とされている投稿の文章から想像するに、容疑者の一連の罵倒コメントのエネルギーの源泉となっていたのは、容疑者なりの「正義感」だったように想像されます。

参考:「低能先生」と呼ばれていた人の書き込みと思われるもの 

 容疑者としては、ネット有名人に対して、匿名で集団で批判をしている人たちの行為を「集団リンチ」と捉えていたようです。その集団リンチが許せないからこそ、そうしたネット有名人に対する批判を投稿するユーザーに対して、「低能」という罵倒を繰り返していたようです。

 我々第三者からすれば、容疑者自身の罵倒行為も、その罵倒の矛先を向けている批判投稿者と同種の行為でしかないですし、彼のねじれた「正義感」を理解できる人は少ないでしょう。

 本人からすればこの罵倒行為によって、自らが批判の矛先になる感覚を批判投稿者に感じさせることができ、匿名での批判投稿者を黙らせる効果があると思い込んでいたのかもしれませんし、実際に何人かで成功して手応えを感じてしまったのかもしれません。

 そんな彼の中でのねじれた「正義感」は、当然はてなの他のユーザーや運営側には受け入れられず、彼は孤立を深めていくことになります。

 一方で本人が数年にわたって、罵倒コメントを続けていたことを考えると、本人の中ではこの本人なりの「正義」を行うための活動こそが、彼の中での存在意義を感じる行為でもあり、「ガス抜き」であったのでしょう。

 何度IDを停止されても、次々にアカウントを作り続けるその姿勢には、ある種の恐怖を感じますが、本人の中ではそれこそが彼の中での「正義」を行うための当然のプロセスのように感じていたのではないかと想像できます。

■容疑者の反応は特殊と言えるのか

 ここで、私が恐怖を感じてしまうのは、そんな容疑者の「正義」を自分が少し理解できてしまうという点です。

 私自身、ブログを書いていて筆が滑ってしまい、プチ炎上した経験は何度もあります。 

 10年以上前、ブログを書いて数年ぐらい経った頃、はてなブックマーク上で顔の見えない人たちに一斉に批判されることに、非常に腹が立ったことをよく覚えています。

 この人たちは私のことを何も知らないのに、なんでこんなにヒドい批判をしてくるのだろうと、少しブログを書くのが嫌になったこともありますし、その投稿をしてくる人の本人特定をしてその人の会社におしかけるのをイメージしたりとか、ドス黒い思いが湧きあがってくることも、正直ありました。

 ある意味、今回の容疑者と同じ感情を私も持ったことがあるわけです。

 そう考えてみると、その後の彼の心境も、想像できてしまう自分がいます。

 

 容疑者の中では、匿名で集団でリンチをしている集団を横から罵倒することで、その集団リンチを減らそうという、ある意味ねじ曲がった「正義」の行為があり。

 その「正義」の行為を実行するための場所が、はてなブックマークと、はてな匿名ダイアリーだったわけです。

 その後いつの間にか、本来は自分自身も匿名IDによる罵倒をする無名の存在だったはずが、徐々に「低能先生」という自分が罵倒に使っていた名称で認識されるようになり、気がついたら多くのはてなユーザーどころか、はてな運営からも明示的に速攻でアカウントを停止される存在になっていたわけで。

 おそらく、容疑者の視点からすれば、自分はネット上の集団リンチを止めようとしていた存在だったはずなのに、気がついたら集団リンチの対象になってしまった、と感じてしまっていたのでしょう。

 その過程で、たまたまHagexさんは顔が見えない集団リンチをしている集団の中で、顔が見える存在としてフラグが立ってしまったのではないかと考えられます。

 現実社会でラーメン店という仕事を失った後、容疑者は、はてな上での罵倒という行為を自らの存在意義と感じたまま、3年近くを過ごしています。

 その彼にとって、アカウント停止の即時化や、発信者情報開示請求により、その居場所を失う可能性が出てきたということが、どれほど大きい話なのかを想像できてしまう自分がいます。

 そのような精神状態の中、東海道新幹線の殺人事件という「事例」を見てしまい、それを実際に自分がやったと想像している人たちの投稿を見てしまい、「ネット弁慶」にはできっこないという煽りに背中を押される形で、今回の犯行を決意してしまったのだろうと想像できてしまう自分がいるわけです。

 ネット上の集団リンチというイジメに加担している人たちを横から止めようとしていたら、いつの間にか自分がそのイジメの対象になっていた。

 そのいじめっ子集団から、お前はネット弁慶だから、リアル社会で何かをするなんて無理だと煽られる。

 もし、自分が容疑者と全く同じ状況に追い込まれて、同じような精神構造に追い詰められてしまったら。

 そんなことをついつい考えてしまう自分がいるわけです。

■いじめている側には小さい行為だとしても。

 今回の話を読んで自分の中でフラッシュバックしてしまったのが、自分自身過去にいじめる側も、いじめられる側にもなったことがあるという経験です。

 中学生の時、クラスの中で一番弱そうなA君をしょっちゅういじっていた時期があります。

 なんで彼をいじっていたのかは正直覚えてませんが、おそらくクラスの中にいた好きな女の子に、強い男だと思ってもらいたかったとか、そういうレベルでしょう。

 私の中でのその行為は、毎日の軽いちょっかいでしかなかったのですが、A君にとってはイジメでしかなかったんだと思います。

 ある日、授業が終わったあとA君を後ろからヘッドロックした時。

 私の行為は彼の限界を超えてしまったのでしょう。

 なんとA君は、私の手首に本気でかみつきました。

 手首の内側の皮が一部の肉ごとこそげおち、驚いた私は痛みと衝撃でフリーズしてしまったのですが、私がかまれたという事実のみを見た私の友人が、私を守ろうとA君を引き剥がしてくれました。

 その後、A君は恐怖からだと思いますが、自分の机からハサミを取り出します。

 その瞬間、クラスの全員が、A君をヤバいやつと認識しました。

 本来、私とA君のケンカだったのが、A君と私の友人のケンカに状況が変わってしまい、ハサミを取り出したA君が一気に悪役になってしまったのです。

 そもそも、悪いのは明らかに私で、A君をその状況に追い込んだのは私だったのに。

 ハサミを取り出すほど彼に恐怖を与えていたのは私だったのに。

 私は彼がそんなに追い詰められていたとは全く気がつかず、毎日彼を追い詰めていたのです。

 その場は友人のお陰でうやむやに終わったものの。

 今でも、私の左手首にはその時のキズが残っています。

 因果応報とはよくいったもので。

 その後、高校生になり、私は逆にいじめられる側になる羽目になりました。

 私は背だけは高かったものの、眼鏡もかけててスポーツも不得意な帰宅部という典型的ないじめられっ子側。

 高校で目立っていた、いわゆるヤンキー集団に目をつけられていた人間でした。

 多分、彼らからすると私をいじめているという感覚は薄かったのではないかと思います。

 どちらかというと、私もいじめられていると思いたくないので、彼らと遭遇していじられても、何とか表面上は彼らと会話を成立させ、その場を取り繕おうとしている人間でした。

 ある日、その集団の一人のメンバーに休み時間に彼の教室に連れて行かれました。

 当然私は断りたかったんですが、表面上、彼らの仲間っぽく振る舞いたかったので、うまく断れないまま彼の教室についていき、流れ上帰れない雰囲気になります。

 分かりますかね、帰ろうとしても帰らせてもらえない雰囲気。あの空気。

 その教室から私の教室まではかなり距離があったので、本当は休憩時間が終わる前に帰りたいのですが、なんだかんだ引き留められて帰らせてもらえません。

 ようやくチャイムが鳴ってその教室に先生が入ってきて私は解放され、あわてて走って帰りました。

 走りはじめた時、後ろから彼らのバカにした笑い声が聞こえてきて。

 私は、自分がいじめられていることを認識せざるをえなくなったわけです。

 もちろん、こんな私の経験は本当にいじめられていた人からすると、イジメとは呼べない小さな小さな出来事でしかないと思います。

 ただ、いじめたことがない方、いじめられたことがない方に分かって頂きたいのは、いざ自分がその立場に追い込まれると、小さな出来事の一つ一つがとても重い冷たい出来事としてのしかかってくると言う現実です。

(私の小さな経験ではイメージできない方には、Netflixの「13の理由」というドラマをご覧になっていただくと、いじめている側にとっての小さな行為が、いじめられている側にいかに大きくのしかかるかを理解して頂けるのではないかと思います。)

■容疑者と自分の間に違いはあるか

 そんな精神状態の時に、自分が彼と同じ状況に追い込まれてしまったら、どうなっていただろうか、とつい考えてしまう自分がいます。

 私自身、実は10年以上前、仕事が上手くいってなかった時期に、オンラインゲームに現実逃避してネトゲ廃人に近い状態になっていたことがあります。

 

 その時、現実社会での仕事は全く上手くいっておらず、私は仕事をクビになるのではないかと日々密かに恐れていたのですが、オンラインゲームの中では多くのプレイヤーにリーダーとして頼られることができて、私の中で、一時期オンラインゲームの中での人格の方がリアルよりも大きく感じられていたものです。

 もし、あの時、私が容疑者と同じように仕事を失っていたら。

 そんな自分にとっての新しい居場所を、集団リンチを自分に対してしていると思っている人間たちに奪われると感じたら、集団リンチをしていた集団から、ネット弁慶のくせに何かやれるものならやってみろと煽られたら、自分もどうなっていただろうか、とつい考えてしまう自分がいます。

 容疑者と私の間には、恐ろしいことに、それほど大きな違いはありません。 

 私は、ネットリンチをする人たちに対して嫌悪感を感じる人間ですし、それをする人たちに何らかの反撃をしたいと考えてしまう人間です。 

 ただ、容疑者と私の間にあった最大の違いは、おそらく友人や師匠の存在でしょう。

 ネタフルのコグレさんは、私に「ネガティブなことは書かない」という基本を教えてくれました。

 はてなブックマークからの批判に嫌悪感を示していた私を、モダンシンタックスの永沢さんは「そんなに批判が怖いなら、ブログなんてやめちまえ!」と一喝してくれました。

 もし、容疑者にも私と同じように、友人や師匠がいたら、とつい考えてしまう自分がいます。

■不幸な出来事の連鎖

 当然ながら容疑者がした殺人という行為は、決して許される行為ではありません。

 容疑者が、現在自分がしてしまった行為を反省しているかどうかも全く分かりませんし、反省できる精神状態なのかも分かりません。

 仮に容疑者が集団リンチをされている精神状態に追い込まれていたとしても、容疑者の罪の重さが軽くなるものでもありません。

 ただ、やはり、今回の殺人事件を単純に被害者と容疑者のケンカとして他人事と考えてはいけないのではないか、と。

 容疑者が殺人を起こすべくして起こす人間だったと、特殊な人間扱いして、今回の事件をなかったことにするのも違うのではないか、と。

 そう考えてしまう自分がいるのです。

 今回の殺人事件は、Hagexさんがこのタイミングで福岡で勉強会を開催しなければ発生しなかったかもしれません。

 もしくは、Hagexさんが5月にあのブログ記事を書かなければ、彼が明確に対象になることもなかったかもしれません。

 でも、もし、事件の直前に東海道新幹線の殺人事件がなければ、容疑者が殺人という手段を思いつくこともなかったもしれません。

 東海道新幹線の容疑者として、低能先生の名前があがらなければ。ネット弁慶には無理だという発言がなければ、容疑者が自分を殺人犯と結びつけて考えることもなかったかもしれません。

 はてな匿名ダイアリーの「行動してみろよ」、という煽りの発言がなければ、容疑者が本気で殺人の実行まで思い詰めることはなかったかもしれません。

 そう考えていくと、今回の殺人事件は不幸な出来事の連鎖の上に発生してしまったと感じることもできます。

■今回の事件はなぜ起こってしまったのか

 ただ、逆に、こういう事件が発生するのは時間の問題だったと考えることもできるはずです。

 私たちは永らくネット上の言論は、「バーチャル」だから、「リアル」の世界とは別だと考えてきました。

 ネット上で、「死ね」とか「殺すぞ」とか書いてる人が、会ってみたら実は良い人だった、みたいな話はたくさんあります。

 今回の容疑者のように、死ねと毎日のように書いている人が、本当に殺人事件を起こすなんて、ないだろう。

 ネット弁慶が殺人事件を起こすことなんて無いだろう、と私たちは思ってしまっていたのではないでしょうか。

 ただ、残念ながら事件は起こってしまいました。

 もし、容疑者が、「死ね」や「低能」という罵倒の繰り返しをネットではなく、現実社会で行っていたら、容疑者は当然要注意人物として社会から認識されていたはずです。

 罵倒した相手に罵倒し返されるだけでなく、血の気が多い人には暴力で反撃されるでしょう。

 だからこそ、私たちは子供の時に、他の人を罵倒してはダメだということを学ぶのです。

 でも、容疑者の罵倒はネット上だったため、容疑者への直接的な制裁や指導は行われず、3年以上のながきにわたって、彼は罵倒行為を続けてしまっていました。

 

 もし誰かが罵倒を続ける彼に、手を差し伸べることができていたら。

 もし誰かが罵倒を続ける彼を、厳しく一喝することができていたら。

 もし誰かが彼の正義感の表現の仕方が間違っていることを、教えることができていたら。 

 もし誰かが彼の精神状態が異常なレベルに達していることに気がついていたら。

 もしネットにおける罵倒行為が、現実社会同様に注意される行為だったら。

 

 そんな思いがぐるぐるぐるぐる頭の中を巡ってしまうのは、私だけでしょうか?

 

 今回の殺人事件は、相手のことを「死ね」「低能」と罵倒しあうのがおかしいことだと感じることが麻痺してしまっている今のインターネットの空気が、さまざまな偶然と重なった結果生み出されてしまった事件だと感じてしまうのは、私だけでしょうか?

 

 もちろん、こんな「たられば」は、第三者が今だからこそ書ける後付けの妄想です。

 今回の容疑者と被害者のどちらかと接点を持っていた人は、誰もがその責任を大なり小なり感じておられると思いますし。

 はてなの運営事務局の方々の後悔は、私なんかの想像をはるかに絶するレベルで深刻なものだと思います。

 

 くどいようですが、今回の事件の責任は、当然ながら事件を起こした容疑者一人にあります。

 容疑者をその状況に追い込んでしまったのは、複数の投稿のつながりや、偶然の積み重ねであり、被害者であるHagexさんや、はてな運営事務局、そして匿名ダイアリーへの投稿者一人一人の責任を問うことは、違うと思います。

 ただ、逆に、今回の事件が発生したことに対する後悔は、私たちネットユーザー全員が強く感じるべきだとも思います。

 今回の殺人事件では、全てのピースが悪い方に重なったからこそ、ネット弁慶であったはずの容疑者が、現実社会の殺人犯になるという結果を生んでしまいました。

 この3年間の間に、どこかのピースが一つでも違う方向にはまっていれば、少なくとも今回の殺人事件は避けられたのかもしれません。

 

 そもそも、このネットの言論空間において、罵倒する行為がもっと深刻な行為だと捉えられていれば、3年もの間、彼が放置され、殺人事件を起こしてしまうほどの状況に追い詰められることはなかったかもしれません。

 私はネットが大好きですし、匿名で自由な発言ができることはとても重要だと思います。

 でも、やっぱり今のネットの現状は明らかに異常です。

 誰も彼もが簡単に「死ね」とか、平気でお互いを罵倒しあったりとか。

 この状態を放置すること自体が、殺人事件につながることがありえるという事実を私たちは知ってしまったのです。

■もし違うインターネットであったなら

 Hagexさんは亡くなる直前に開催していた福岡の勉強会で、「今日、皆さんに紹介することは、悪いことではなく正義のために使ってください」と発言していたそうです。

参考:Hagexに聞けなかった正義 kotobato

 

 勝手に想像するに、Hagexさんがしていたネットウォッチの背景にある「正義」は、いわゆる信者ビジネスを展開しているネット有名人たちのダブルスタンダードな発言や行動を赤裸々にすることだったのではないかと感じています。

 Hagexさん自身が、信者ビジネスで信者を盲目的に信奉させて、信者以外の人を批判させる構造に嫌悪感を感じていたはずで。

 それが、容疑者からすると、逆にHagexさんがネットリンチを行う集団のリーダー格の一人に見えてしまっていた可能性が高い、というのは本当に残念でなりません。

 もしHagexさんが今も元気なら、彼らしい独特の文章で、この皮肉な構造の気持ちを上手く表現してくれるはずで。

 実は、Hagexさんの「正義」と、容疑者の「正義」にはそれほど大きな違いはないように感じてしまうのです。

 もし、Hagexさんと容疑者が違う形で出会っていたら、ネットリンチの問題について意気投合した可能性すらあったのではないでしょうか?

 罵倒から出会うのが当たり前のインターネットではなく、相手を尊重することから出会うのが当たり前のインターネットであれば、今回の殺人事件は起こっていないどころか、二人が衝突することすらなかったのではないでしょうか。

 ついそんなことを考えてしまうのは、私だけでしょうか?

 失われた命は永遠に戻ってきません。

 でも、私たちは失われた命の意味を変えることはできます。

 今回の殺人事件は、たまたま運悪く発生した通り魔事件ではありません。

 3年以上ものながきにわたって送られ続けていたシグナルに、誰も気がつかなかった結果起こってしまった悲劇です。

 今までは誰もこれをシグナルと考えていなかったのですから、様々なパズルのピースが最悪の形で並んでしまった以上、今回の悲劇を止めることは誰もできなかったと思いますが。

 私たちは、この悲劇から学び、悲劇の繰り返しを止めることはできるはずです。

 私たちがこの悲劇を受けて、どう行動するかで、インターネットの未来は大きく変わるはずです。

 正直、私自身も「では何をお前はするのか?」と問われても、今は即答できないのですが。

 少なくとも、この事件の記憶を風化させないあがきをするために、この結論のない無駄に長い記事を投稿させて頂きます。

 あらためて、Hagexさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

noteプロデューサー/ブロガー

新卒で入社したNTTを若気の至りで飛び出して、仕事が上手くいかずに路頭に迷いかけたところ、ブログを書きはじめたおかげで人生が救われる。現在は書籍「普通の人のためのSNSの教科書」を出版するなど、noteプロデューサーとして、ビジネスパーソンや企業におけるnoteやSNSの活用についてのサポートを行っている。

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