Yahoo!ニュース

この春から英語教育学を志すM1の皆様へのメッセージ

寺沢拓敬言語社会学者

誰にもたのまれないので、こちらから勝手にメッセージを送ってしまいます。英語教育学の新M1の皆さん、進学おめでとうございます。今後自分の研究テーマを決めることになると思いますが、その際は「自分のテーマは、本当に統計手法では検討できないか」という点をまずよく考えて欲しいと思います。そして、自問自答の結果本当に無理そうだった場合にのみ、質的研究や歴史的手法などのオルタナティブな方法論の可能性を考えるのがよいと思います。

方法論の選択に注意しよう

計量研究(統計を使った研究手法)が優れた方法で、質的研究や歴史的アプローチが劣った方法だと言いたいのでは決してありません。(稀にそのようなことを言う先輩院生がいるかもしれませんが、無視しましょう)

計量研究のほうが「真実」を得られやすいというわけでもまったくありません。

しかし、計量研究は他の手法に比べて特に標準化が進んでいることは事実です。そして、標準化されているので、マスターしさえすれば、あとはあまり頭を使わなくても「間違った結論」に陥りにくくなります。

極端な話、統計がわかるサルがいたとしたら、このサルの計量分析は「まあそこそこのクオリティ」になると期待できます。そして、このサルが導き出した結論は、「賢さ」を売りにしている大学教授や教育評論家の印象に基づく批評よりも優れているのが普通です。

「数字で教育の本当の姿は語れない」。このように言って、計量研究を軽視する院生の人がたまにいます。(本気で思っている場合もあれば、統計を学ぶのを回避する方便として使っている場合もあるでしょう)。

たしかに、この発言は真実には違いありません。計量研究は、「本当の姿」を数字で要約したものですから、その要約の際に切り捨てられてしまった部分は多数あります。

しかし、その他の手法でも同じように「要約」をしています。インタビューデータも授業観察記録も、要約の一形態に違いなく、そうした手法を使っても「本当の姿」などは決してわかりません。歴史的手法も同様です。史料をいくら集めても「本当の姿」などはわかりません。

特定の方法を使えば、教育の本当の姿や学習者の「真実」がわかるなどと考えるのは研究する側の傲慢です。

念のために言っておくと、私は計量研究の宣教者などではありません(「統計学が最強の学問である」とか言いません)。むしろ、日本の英語教育学の計量研究偏重・偏向にウンザリしています。現に、修士論文は文献研究で、博士論文は歴史的手法を使って書きましたから、どちらかといえば「計量研究ではできないことを研究テーマにした(してしまった)タイプ」です。

当たり前ですが英語教育学は統計学ではありませんから、皆さんに「証明を理解しろ」とか「まずは線形代数から始めなさい」とか「微積分を知らないのに最小二乗法を使うな」とかそういうことは言う気はまったくありません。基本的なロジックの理解と、統計ソフトを適切に使う方法(=マニュアルから逸脱せずにその記述を丁寧にトレースする方法)を理解すればまずは十分ではないでしょうか。

ガチの歴史家やエスノグラファーを目指す人であれば別ですが――そんな人が英語教育学専攻にやってくるかは疑問ですが笑――、そうでないのなら統計分析でできるかどうかをまず考えてください。そのうえでどうしても無理そうだと判断したときにのみ別のアプローチにすすむことをお勧めします。

お勧めの参考書

「なんでわざわざ質的研究やるの?」問題

ここからは、統計ではなく、質的研究をめぐる状況に関する話です。なぜ「量的研究を優先的に考えよ」などと(量的研究の宣教師でもないのに)言ったのかというと、英語教育学における質的研究にはなかなか難しい事情があるからです。

英語教育学の院生の中にたまに「質的研究ありき」で研究をはじめてしまう人がいます(正確に言うと、欧米の学者の中にすらそういう人はいると思います)。そのなかには、傍から見る限り、計量分析でやればもっと簡単に答えがでるのにと思えてしまう研究もすくなくありません。

これは統計分析向きの研究対象を質的研究で検討してしまうという問題だと考えています。つまり、対象と手法のミスマッチです。

「人類学における質的研究」?

他の学問領域に目を向けてみると事情はけっこう違います。「どうしてわざわざこのテーマを質的研究でやったんだろう???」という疑問を、社会学の質的研究に関して抱いたことはほとんどありません。そして、さらに容易に納得できることだと思いますが、人類学の発表を前にして「どうして質的研究でやったのかな?」と疑問を抱いた人は未だかつて存在しなかったでしょう。そもそも人類学内部の議論で「質的研究」などというラベルはわざわざ使われないでしょう。質的に研究することは当然ですから。

以下、比較対象としてとりあえず社会学に限定します。社会学は方法論がいい具合にミックス(カオスとも言う)されていて都合がいいからです(主要なものとして質的研究、計量研究、歴史研究の3本。さらに非実証系の数理系、哲学系もあります)。

社会学における質的研究になぜミスマッチが起きにくいかといえば、社会学が取り扱うトピックには質的研究と相性がいいものが多いからだと思います。たとえば、体験とかアイデンティティなどは社会学のメイントピックですが、このような個人の意味付けに関わる概念は質的研究の得意領域でもあります。これ以外にも、社会学は伝統的に質的研究と相性が良い対象を多数扱っているので、ミスマッチが起きにくいのでしょう

一方、英語教育学には統計分析と相性が良いトピックがけっこうあります。その代表格が「効果」でしょう。英語教育学は、その存在意義みたいなところも関係しているはずですが、「どうしたら効果的な英語学習・英語教育になるか」ということを考えてしまいがちです。「ソトから現象をただ眺めてメカニズムを記述して終わり」という冷めた態度にはなれないところがあります。

「効果」は統計分析とたいへん相性が良いトピックです。統計分析を得意とする教育心理学や教育経済学は、特定の介入の効果を見事に数値で明らかにします。反面、「効果」は質的研究と相性が悪いわけです。ですから、「質的研究でX学習法の英語習得上の効果を明らかにしたい」という問の立て方はけっこうな悪手なのです。

難しく、同時に、やりがいがある

ここまで読んでもらえれば「社会学の質的研究は優れている!英語教育学の質的研究はクオリティが低い!」と主張したいわけではないとわかってもらえると思います。社会学はそもそも質的研究と相性が良いのでミスマッチを免れやすいが、英語教育学はミスマッチの危険性を常にはらんでいるという趣旨です。その点でいえば、もし英語教育学がミスマッチの危険性を常に意識しつづけることができたのなら、他のどの分野よりも方法論的に成熟することができるという可能性を秘めています。特に何も考えずに惰性で方法を選んでいる人々より、常に自問自答している人々のほうが、理論的に強靭ですから。

言語社会学者

関西学院大学社会学部准教授。博士(学術)。言語(とくに英語)に関する人々の行動・態度や教育制度について、統計や史料を駆使して研究している。著書に、『小学校英語のジレンマ』(岩波新書、2020年)、『「日本人」と英語の社会学』(研究社、2015年)、『「なんで英語やるの?」の戦後史』(研究社、2014年)などがある。

寺沢拓敬の最近の記事