Yahoo!ニュース

6月の沖縄戦と8月の敗戦の間にあった7月の空襲。31日中25日に実行されて被災地は58個所に及んだ

坂東太郎十文字学園女子大学非常勤講師
ところ構わず焼き尽くされた(提供:イメージマート)

 1945年7月は、「ありったけの地獄を集めた」と刻まれた沖縄戦が事実上終わった6月と敗戦の8月に挟まれて戦争の記憶が薄い月。しかし同月は筆者が確認できただけで日本本土爆撃が31日中25日、被災地は58個所に及ぶ「空襲の月」でした。ともすれば忘れがちな、この無差別攻撃の日々を振り返ってみます。

サイパン・テニアン失陥とB29

 日本本土爆撃は主として北マリアナ諸島テニアン島およびサイパン島の米陸軍航空軍(現在の空軍)飛行場から出撃したB29戦略爆撃機が投下する焼夷弾で都市もろともに焼き尽くす作戦を指します。

 サイパン・テニアンは戦前、日本の委任統治領でした。44年、アメリカの反攻を迎え撃ったマリアナ沖海戦で日本は大敗。連合艦隊がその役割を果たせなくなるほど消耗したのです。その前後の陸戦で両島は米軍に奪取されました。

 両島失陥は帝国陸海軍にとって痛恨事。両島はB29が日本全土を爆撃して帰還できる位置にあったからです。太平洋戦争当初から就任していた東条英機首相が辞任に追い込まれたというだけでも衝撃の大きさがわかります。

6月中旬以降に切り替えられた中小都市への爆撃目標

 45年3月の東京大空襲を皮切りに、当初の空襲対象は「東京-横浜・川崎」「名古屋」「大阪-神戸」といった大都市。これらが灰燼に帰した6月中旬以降、現地司令官のカーチス・ルメイは中小都市の爆撃へと目標を切り替えたのです。

 激しい地上製となった沖縄を除く46都道府県のうち、6月中旬以前に戦略爆撃の洗礼を受けていなかったのは36道府県。うち中旬以降の6月に8府県が被災。でもまだ半数以上が残っていました。

全国津々浦々に飛来して1日数カ所を空爆

 その方針を激化させたのが7月です。実に17県が焼き尽くされていったのです。

 子細に分析すると大きな特長がいくつか浮かびます。1つは地理的に全国津々浦々にまで及んだ点。北海道、東北(青森・宮城の大空襲)、北陸(日本海側で福井が初)、北関東(宇都宮大空襲)、東海(岐阜大空襲)、近畿(大津空襲と和歌山大空襲)、中国(鳥取・島根・広島)、四国4県すべて、九州(大分・熊本)などです。

 次に1日に数カ所を攻撃している点。1日に3個所以上空爆しただけで4日が高松(香川)、徳島、高知。7日に千葉、明石(兵庫)、清水(静岡)、10日に仙台(宮城)、大阪、堺(同)、14日の北海道は室蘭・根室・釧路・函館と札幌以外をほぼ網羅した上で釜石(岩手)にまで達しています。17日は桑名(三重)、日立(茨城)、沼津(静岡)、19に日立(茨城)、福井、銚子(千葉)。

 24日に大阪、津(三重)、大津(滋賀)、半田(愛知)、呉(広島)。26日に松山(愛媛)、徳山(山口)、平(福島)。28日に至っては青森、一宮(愛知)、鳥取、浜田(島根)、津(三重)、呉(広島)、平(福島)、宇治山田(三重)とところ構わずといっていい猛爆ぶりをみせました。

戦略的にさしたる意味もなさそうな攻撃がなされた訳

 こうした攻撃にいかなる意味があったのでしょうか。B29は元来、陸上からの高射砲や機関砲が届かず、戦闘機もなかなか近寄れない高高度を飛行して戦略拠点を精密に破壊する任務を帯びています。ただルメイの戦術はあえて低高度から侵入して精密爆撃というより無差別爆撃。その分だけ米側の危険も高まるのに主たる都市を機能不全に追い込んでなお、戦略的にさしたる意味もなさそうな地方都市を焼き尽くし続けたのです。

 確かに敗戦目前の7月段階で日本側が持つ迎撃能力は極端に低下していて撃墜の危険は遠ざかっていました。本来はB29の護衛戦闘機であったP-51 マスタングが、その必要がなくなったために機銃掃射で地上の日本人を打ち払っていたほどですから。

 人的被害は甚大。1回で100人以上亡くなった攻撃が40回を超え、1000人以上も10回ほどを数えます。とはいえ呉軍港を狙った空襲など要地無力化を目的としたケースはほぼみられず、単に非戦闘員を殺害し、田舎を焼け野原にするだけであったのです。

ポツダム会談の時期とのつじつま

 すると結果でなく動機が「田舎を焼け野原にするだけ」であったのではないかという推測が成立します。帝国海軍の継戦能力は消滅し、日本の選択肢は「城を枕に討ち死に」の本土決戦しかありませんでした。ならば来たるべき日本本土上陸作戦の露払いとして日本列島を先に空から徹底的に叩こうとしたのか。

 としたらしたでつじつまが合わない事態でもあります。米英首脳は7月17日から日本の戦後処理を話し合うポツダム会議を開催し米英中首脳名で26日、降伏条件などを記したポツダム宣言を出しているから。28日に鈴木貫太郎首相が出した「黙殺」コメント後に「そっちがそうならこちらも」と猛爆開始であったならばともかく、ずっと以前から焼け野原作戦を続けていたのでタイミングが合いません。

背景に米陸軍航空隊固有の事情

 実はルメイの属する陸軍航空隊および海軍や陸軍の一部からも列島を戦地として上陸作戦を決行する「ダウンフォール作戦」(11月1日決行予定)には消極的でした。陸海の消極論は沖縄戦だけであれほどの死傷者を米側もこうむった体験から本土決戦ともなれば連合国側の損害も計り知れないとためらう現実論が台頭し、それゆえのポツダム会談でもありました。

 陸軍航空隊固有の事情としてはトップのアーノルド司令官が抱いていた陸軍からの独立=空軍創設の格好の戦果として自身のみの手柄でダウンフォール決行以前に降伏を勝ち得たいとの念願があったのです。焦土化と海軍との連携による海上封鎖(飢餓化)で追い込めると。下僚のルメイは成算をアーノルドへ上申しています。そのためには遅くとも10月末までには現実のものとしなければならない。無意味かつ無慈悲とさえ呼べる7月のじゅうたん爆撃の多用も「急がなければ」という思いからとしたらうなづけます。

絶え間ない空襲の惨禍

 戦後78年。今や戦場で戦った兵士の多くは鬼籍に入り、戦争体験の多くは当時の子どもが中心となっています。出身地がどこであっても「焼け野原」体験が語られるのは、それだけ広範囲で空襲がなされたからです。

 8月に入っても地方都市への空爆は続きました。長岡(新潟)、富山、佐賀、長野、熊谷(埼玉)など、まるで空白地を埋めていくように攻撃。特に2日の富山大空襲の死者約3000人は地方都市の被害としては最悪レベルを記録しています。

 ここに、広島・長崎の原爆投下やソ連軍の対日参戦が加わってポツダム宣言受諾→敗戦に至ったのです。原爆の恐ろしさを語り継ぐ必然は言うまでもありません。ただ、内地国民を襲った残酷な運命は決してそれだけでなく7月をピークに全国を覆った絶え間ない空襲の惨禍もまた比肩して戦争の恐ろしさを今に伝えます。

十文字学園女子大学非常勤講師

十文字学園女子大学非常勤講師。毎日新聞記者などを経て現在、日本ニュース時事能力検定協会監事などを務める。近著に『政治のしくみがイチからわかる本』『国際関係の基本がイチから分かる本』(いずれも日本実業出版社刊)など。

坂東太郎の最近の記事