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ウクライナ情勢で機能不全の安保理。常任理事国5カ国はどのように決まったか。なぜ中国とフランスが?

坂東太郎十文字学園女子大学非常勤講師
ヤルタに集った米英ソ3首脳(写真:ロイター/アフロ)

 国際連合(国連)の安全保障理事会(安保理)は「国際の平和及び安全の維持に関する主要な責任」「に基く義務を果す」重責を担っています。にも関わらずウクライナ情勢では機能不全。当事国のロシア(旧ソ連から継承)が常任理事国で拒否権で何もかも阻止してしまうのが主因ではあります。

 広く知られるように国連は先の大戦で勝利した連合国が母体。ドイツと死闘を演じた米英ソ、太平洋戦争で日本と対峙した米が含まれるのは当然として何で中仏も常任理事国なのでしょうか。探ってみました。

 なお本稿は当欄に掲載している「常任理事国の拒否権は万能でない。『平和的解決』の当事国棄権条項や団結を目的とした権利付与の経緯」という記事の背景説明にあたる位置づけですが、先に紹介しておかないと訳が分からないので分割してアップしています。

日独+ソ連vs英で仏脱落。アメリカは参戦せず

37年7月 日中戦争勃発(~45年)

39年8月 独ソ不可侵条約締結

  9月 独のポーランド侵攻。英仏が独に宣戦布告(第2次世界大戦スタート)

  11月 ソ連のフィンランド侵攻。国際連盟はソ連を除名

40年6月 独にフランス降伏。7月にヴィシー政権成立

  9月 日独伊三国同盟締結

41年4月 日ソ中立条約締結

 この段階で戦争は「独vs英仏」(欧州)と「日中」ソ連は日独と接近してフィンランド戦争で英仏中心の国際連盟から除外されています。連盟不参加のアメリカは「欧州」「日中」いずれもに直接参戦していません

 フランスは40年にドイツへ降伏。当地には親独で傀儡に近いヴィシー政権が打ち立てられた一方でロンドンには同政権を認めないド・ゴール将軍による亡命政権「自由フランス」が抗戦を呼びかける構図となるのです。

独ソ戦勃発で構図が一転

41年6月 独ソ戦勃発

  8月 大西洋憲章

  12月 日本の真珠湾攻撃。アメリカ参戦

42年1月 連合国共同宣言

 41年6月、ドイツは不可侵条約を一方的に破棄してソ連へ攻め込みます。ゆえにソ連と英ソ(フランスはドイツに降伏している)は共通の敵をいただく形へと変化し、両国は軍事同盟を締結したのです。

 大西洋憲章は米英首脳会談で合意。後の国際連合成立の基点となります。驚くのはアメリカがこの時点でまだ参戦していない点。少なくとも近い将来の対独戦を見越していたのかもしれませんが、戦う前から出口を模索するアメリカのグランドデザイン型戦略を象徴しているともいえそうです。

 ここに結果的に「待っていました」とばかりに12月、日本が米ハワイ真珠湾を攻撃して米が正式に日独を相手に参戦します。翌42年1月、日独を共通の敵とする(※注)米英ソ中らが「連合国」を構成する「連合国共同宣言」が出されました。

 フランスの除外はアメリカがヒトラーの操り人形とはいえ一応政権の体を成すヴィシー政権を仲間ではなくとも無視できない、しょせん亡命政権の「自由フランス」を同時点で積極的に持ち上げる価値も見出せなかったからでしょう。

米英がソ連を、米が中国を引き入れた思惑

 米英にとって共産主義国家ソ連を引き入れるのは躊躇も。とはいえ現にドイツと「絶滅戦争」と称された死闘を展開していて戦略上味方に引き込むのが上策である上、ここで英米がソ連を見捨てたら再びドイツと手を結びかねません。そこで米英が作った案をソ連が了解するという形で連合国の一員としたのです。

 中国を加えたのは太平洋戦争で主に日本と対峙したアメリカが長く日本と戦っている中国を励ましておきたいという理由の他に、現時点では独ソ戦でそれどころでないにせよ、将来ソ連が中国大陸に領土的野心を露わに向けないようにしておきたかったといったところ。

 牽制される側のソ連は中国を主たる仲間とするのを露骨に嫌いました。イギリスも「何で中国が我々と同列なのか」と不満。欧州を主戦場とする彼らに中国の存在感は薄かったので。

 かくして連合国の中心は「米英ソ」で中国は形式上「4大国」とみなされるも英ソが嫌ったため格下扱いが続きます。

「4人の警察官」構想を了承

43年11月 カイロ宣言

 同    テヘラン会談

 日独の退勢が明らかになりつつあった43年、米英中首脳会談で対日戦後処理方針が話し合われた結果がカイロ宣言。ソ連は中立条約の関係で参加しません。

 テヘラン会談は初の米英ソ首脳会談でソ連に対日参戦が持ちかけられるとともに米のかねてからの持論である米英中ソによる「4人の警察官」構想が了承されました。

「5大国」の枠組みを同意したダンバートン・オークス提案

44年6月 ノルマンディー上陸作戦敢行

 同   仏ド・ゴールを主席とする共和国臨時政府成立

  8月 パリ解放。ヴィシー政権崩壊

  10 月 英米ソが臨時政府を正統なフランス政府と認める

 同   ダンバートン・オークス提案

 ドイツ降伏下にあったフランスを連合国軍が奪還した年です。10月にまとまったダンバートン・オークス提案は戦後の「国際機構」の骨格を決める重要な実務者協議です。

 「国際機構」で中心的な役割を担う集団安全保障体制を支える大国(後の安保理常任理事国)として会議に参加した米英ソは文句なしとして問題は中国とフランスを加えるか、でした。

 前述のように中国を同列に扱うのに英ソは消極的でした。おそらく次の2点で折り合ったと推測されます。

イギリス……こと「植民地主義」への親疎を問えば米ソが反対、英が維持。中国は長年、大国による分割に悩んできた「侵略される側」であったから頑なに阻むと孤立する懸念があった。ゆえに同じ理由で植民地大国のフランスを招き入れたくもあった

ソ連……中国の主敵たる日本との中立条約が実効中。その日本は中国を推すアメリカと戦闘のさなか。ここで頑なな態度を取ると対独戦での支援を受けづらい。ゆえに会議は先に「米英ソ」で行ってソ連が外れた後半に「米英中」と2段階でなされた。

 フランスの大国認定は前述のようにイギリスの推しで実現します。

 なおこの時点で大国に拒否権を与えるかどうかの決着はつきませんでした。「拒否権」の攻防は「常任理事国の拒否権は万能でない。『平和的解決』の当事国棄権条項や団結を目的とした権利付与の経緯」と題して改めて論じます。

ヤルタ密約で中国権益がソ連へ

45年2月 ヤルタ宣言

  5月 ドイツ降伏

  8月 ポツダム宣言

 同   ソ連の対日参戦

 同   日本がポツダム宣言を受諾して降伏

  10月 国際連合発足

 ヤルタは米英ソ首脳会談。拒否権問題が解決して国際連合設立、秘密協定でソ連の対日参戦と中国への一部権益確保が約されたのです。

 会議にすら招かれないままの決定に中国は驚愕するも彼我の実力差を鑑みて涙を呑みます。戦後、協定は実現するも中華人民共和国建国とその後の中ソ対立でソ連の権益は今は消滅したのです。

 イギリスは崩壊状態のドイツの戦後処理政策にフランスを加えるよう奔走しました。ソ連は大戦初期に降伏して結果的に独ソ戦を惹起したフランスの地位回復に嫌悪感を示すも最後は同時期に孤塁を守ってくれたイギリスへ譲歩。

 ドイツ降伏で連合国の唯一の敵は日本となりました。そこでポツダムでの米英ソ首脳会談で日本の無条件降伏を勧告する宣言を採択。中立条約の枷から米英中の連名で発表しましたのです。

 ほどなくヤルタの密約通りソ連が8月9日に対日参戦。同月に日本がポツダム宣言を受諾して終戦。9月に降伏文書に調印して正式に戦争は終わりました。

「米英」から「米英ソ」。中国は主な会議に招かれず

 このように現在の国連安保理常任理事国は大西洋憲章の「米英」を基点に構想され、ドイツと敵対して以降のソ連を味方に引き入れたい思惑から「米英ソ」3国主導へ変更。中国は太平洋戦争を踏まえて特段の配慮をしたいアメリカの意向を英ソも渋々呑んで連合国共同宣言から形式上「4大国」の一員に。

 ただしその後の重要な国際会談は「米英ソ」が基軸で中国が関わったのは自身に関わるカイロ宣言とダンバートン・オークス会議の後半のみ。ヤルタでは権益を損ねる秘密協定を参加もしないで結ばれ、ポツダム宣言も名を連ねただけです。

 第2次世界大戦の初期にドイツへ降伏したフランスに至っては大戦終了約1年前にやっとド・ゴール政権が回復。イギリスの奔走で常任理事国になれたとはいえ大戦の主な会議・会談には当事者能力すらなかったので参加していません。「なんちゃって5大国」です。

※注:ただし日ソ関係は中立条約が有効のままである。

十文字学園女子大学非常勤講師

十文字学園女子大学非常勤講師。毎日新聞記者などを経て現在、日本ニュース時事能力検定協会監事などを務める。近著に『政治のしくみがイチからわかる本』『国際関係の基本がイチから分かる本』(いずれも日本実業出版社刊)など。

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