『拝謁記』の張作霖爆殺事件における昭和天皇発言と定説との違い

皇居二重橋(写真:アフロ)

 田島道治初代宮内庁長官が昭和天皇とのやりとりを書き残した、いわゆる『拝謁記』の一部が8月、報道陣に公開されました。サンフランシスコ講和条約(サ条約)発効と日本国憲法施行5周年を祝う式典での「おことば」を巡り「反省」のくだりを入れたい天皇と吉田茂首相の間でのやりとりや「軍備といつても国として独立する以上必要である」といった見識が示されていて大きな話題となりました。

 確かに大ニュースなのですが筆者が注目したのは張作霖爆殺事件に関する部分でした。主要メディアがどうも深掘りしてくれないので自ら論じてみました。

田中総理の言うことはちっともわからぬ

 張作霖爆殺事件とは1928年6月、中国人軍閥指導者の張作霖の乗った列車を関東軍が爆破し死亡させた事件です。

 関東軍とは1905年のポーツマス条約(日露戦争講和条約)で得た遼東半島(中華民国の一部)南部の租借地の守備と同じく条約で譲渡された旅順(遼東半島先端)-長春(中国東北部)に敷かれた鉄道(06年より南満州鉄道株式会社)の保護を主目的とした日本軍で19年から独立した参謀本部(陸軍統帥部)直属の軍事機構に衣替えしています。事件は自ら守る満鉄で起こしました。

 以下、主に『西園寺公と政局』から抜き出してみます。

 事件は中国側が犯行に及んだよう偽装するも憲兵(軍内の警察)などの調べで、どうやら関東軍のしわざである疑い濃厚とわかり田中義一首相(陸軍大将・立憲政友会総裁)へ報告。12月に昭和天皇に「どうも我が帝国の陸軍の者の中に多少その元凶たる嫌疑があるやうに思いますので、目下(白川義則)陸軍大将をして調査させております。調査の後、陸軍大臣より委細申し上げさせます」と昭和天皇へ上奏、天皇は「陸軍の軍紀は厳格に維持するように」と述べました。

 ところがさまざまな方向から事件をあいまいにする圧力が田中へかかります。政友会および内閣からは、日本軍の行為と認定して処罰したら天皇のお顔に泥を塗るので闇から闇へと葬るべきとの意見が噴出、陸軍内も行為はけしからぬかもしれないけど志は忠誠心から出ていて壮なりと擁護の声が。一方、元老の西園寺公望は当初「断固処罰して我が軍の綱紀を維持」せよと厳罰を主張します。

 田中首相はかつて君臨した陸軍内の反発を抑えきれず、さまざまな板挟みにも窮して再び天皇に対した際に、よく調べた結果として「日本の陸軍には幸いにして犯人はないということが判明」しかし「警備上責任者の手落ちであった事実については行政処分をもって始末致します」と上奏します。

 先に「軍紀は厳格に」(事実上、軍法会議にかけて処断する)と指示していた昭和天皇は怒り「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と不信を露わにした発言をし、鈴木貫太郎侍従長に「田中総理の言うことはちっともわからぬ。再びきくことは自分は嫌だ」と言い残します。鈴木侍従長がそのまま首相に伝えたため田中は辞意を決して(実は発案者の)村岡長太郎関東軍司令官(中将)を予備役編入=現役引退、(実は実行者の)河本大作関東軍参謀(大佐)を停職とする行政処分案を了承した後に総辞職しました。

 側近の牧野伸顕内大臣もおおむねこうした天皇の判断を了としていたようです。

「辞表を出してはどうか」発言は「若気の至り」

 こうした経緯について終戦直後、宮内省御用掛(通訳)を務めた寺崎英成による聞き取りである『昭和天皇独白録』は以下のように記されています。

「然るに田中がこの処罰問題を、閣議に附した処、主として鉄道大臣の小川平吉の主張だそうだが、日本の立場上、処罰は不得策だと云ふ議論が強く、為に閣議の結果はうやむやとなつて終つた」

「そこで田中は再ひ(び)私の処にやつて来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云ふ事であつた。それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云つた」

「こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りであると今は考へてゐる」

 『西園寺公と政局』など同時進行の史料と比べると『独白録』の「うやむやの中に葬りたい」は内容がやや異なっていますが「辞表を出してはどうか」と直接言い渡したのが新発見でした。それがトドメとなって総辞職したのを「若気の至り」と反省し「この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事に決心した」「この時以来、閣議決定に対し、意見は云うが、『ベトー』は云はぬ事にした」(『独白録』)と決意したとあるのです。

 確かに太平洋戦争開戦に至る御前会議などで昭和天皇の言動は『独白録』通りでした。そこに今回の『拝謁記』が登場。従来の見解とは異なる部分が垣間見えます。

「厳罰」でも「軍でも大して反対」しなかった

 『拝謁記』には「張作霖事件の処罰を曖昧ニした事が後年陸軍の紀綱のゆるむ始めニなつた。張作霖事件のさばき方が不徹底であつた事が今日の敗戦ニ至る禍根の抑々(そもそも)の発端」とあります。行政処分に止めたのがよくなかったという点では過去の史料と矛盾しません。

 しかし「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ。田中(義一)内閣の時ニ張作霖爆死を厳罰ニすればよかつたのだ。あの時ハ軍でも大して反対せず断じてやればきいたらうと思ふ」は驚きです。既に敗戦という結果を知っての回想で、かつ宮内庁長官という職責を帯びた人物による聞き書きという点で証拠能力がどれぐらいあるのかという疑問はあるにせよ『独白録』の「若気の至り」発言とはかなり異なっています。

 「下克上」とはおそらく関東軍が勝手に大元帥たる天皇の指揮を待たずに動いたという意味でしょう。「さばき方が不徹底であつた」までならば主語が田中内閣ないしは統帥部とも読めますけど「厳罰ニすればよかつた」時期を「田中(義一)内閣の時ニ」としたくだりの主語は「私(=昭和天皇)が」と思われます。

 『独白録』は軍法会議(すなわち「厳罰」)取り止めと内閣総辞職について「田中にも同情者がある。久原房之助などが、重臣『ブロック』と云ふ言葉を作り出し、内閣の倒(こ)けたは重臣達、宮中の陰謀だと触れ歩くに至つた」「いやな言葉」を憂慮して「仮令自分が反対の意見を持つてゐても……」と続きます。重臣とは西園寺、牧野、鈴木あたりでしょう。自らはともかく彼らの身を案じたとも読める部分です。

 ところが『拝謁記』では自ら厳罰を下せたのに下さなかった後悔を感じます。しかも「あの時ハ軍でも大して反対せず断じてやればきいたらう」。たぶん統帥大権を振るっても陸軍はいうことを聞いたはずとまで述べているのです。

控えたはずの「ベトー」を発動できたのか

 当時の状況を鑑みると昭和天皇が「断じてや」るとは田中首相および白川陸相の上奏を蹴飛ばして行政処分を却下し軍法会議にかける……に他なりません。そうしたとしても田中内閣崩壊は目に見えています。そこを「若気の至り」と反省した天皇(『独白録』)が更なる強硬策を選択しても軍は「きいたらう」と推測しているのは明らかにニュアンスを異にします。別の部分でいえば「『ベトー』は云」えたと。

 『独白録』で天皇は首相辞任を迫ったのを「ベトー」(天皇大権で拒絶する)ではなく「忠告」のつもりであったと述懐しています。忠告レベルでさえ総辞職を引き起こしたので以後はより強力な「ベトー」を封印したと。しかし『拝謁記』の通り「断じて」「厳罰ニ」しようとしたら「ベトー」そのもの。やはり齟齬を来します。

 『西園寺公と政局』や『独白録』その他の史料によると「若し軍法会議を開いて訊問すれば、河本(大作)は日本の謀略を全部暴露すると云つたので、軍法会議は取止め」となったという伝聞を残しています(『独白録』)。それは何だったのでしょうか。

 例えば白川陸相は事件当時、首相の弟分である久原房之助逓信大臣らの関与を疑っていて陸軍だけに責任を押しつけられては堪らないと不満を募らせていました(『西園寺公と政局』)。一方で白川が『独白録』にも出てくる小川平吉へ大金を渡していたとも判明しているのです(半藤一利著『昭和史1926-1945』)。

 また河本が加わっていた陸軍佐官級エリートのグループ「二葉会」は後の軍部独裁体制をイメージした「バーデン・バーデンの密約」をたぶん共有してました。「密約」は「長州閥人事の刷新」も決めており田中義一はまさに長州閥の正統伝承者。宿敵の上原勇作元帥(薩摩)は村岡と近く二葉会とは反長州で一致していたのです。

 上原は元帥府条例(勅令)という法的根拠を持つ元帥府の一員として「軍事上ニ於テ最高顧問」の権限が与えられています。厳罰方針に強く反対したという見方も(大江志乃夫著『昭和の歴史3 天皇の軍隊』)。

 これらの情報を河本は知り得る立場でした。「全部暴露」されたら「関東軍独走」どころか陸軍そのものの関与や陰謀が明らかになるばかりか、久原、小川ら政治家はもとより財界にも火の粉が降りかかる一大疑獄になっていた可能性があります。

『拝謁記』と『独白録』の性質の違い

 昭和天皇はリアルタイムで情報を相当程度聞き及んでいたはずです。知らなかったとしても『拝謁記』の書かれた時期が極東国際軍事裁判後なので追加でわかったことも多かったと推測します。なのに厳罰にできたはずという認識を持っていたのは不思議です。

 1つの可能性として『独白録』が天皇を戦犯訴追するかどうかの決着ギリギリのタイミングで書かれている点。寺崎が聞き取ったのもまさにそこが理由です。ゆえに事件に対する弁明にも似た発言をなされた。一方の『拝謁記』における爆殺事件の記載は裁判も終わり、サ条約も結ばれ、後は発効(独立回復)を待つばかりの51年から翌年にかけて。この状況の違いや時間軸が生んだ差なのかもしれません。

 いずれにせよ『独白録』以降、張作霖爆殺事件を始末する過程で昭和天皇が強い叱責で内閣総辞職に追い込んだのを「若気の至り」と反省し、以後立憲君主の枠組みからはずれないよう納得できない内容でも裁可するようになったというこれまでの解釈に一石を投じる発見でした。

 もっとも『拝謁記』は全文が公開されておらず、明らかになった部分だけでも史料批判はこれから。以後の研究成果に注目したいところです。

※参考文献

原田熊雄述『西園寺公と政局』(岩波書店)

舩木繁著『支那派遺軍総司令官 岡村寧次大将』(角川書店)

『牧野伸顕日記』(中央公論新社)

寺崎英成著『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』(文藝春秋)

『岡田啓介回顧録』(中央公論新社)

半藤一利著『昭和史1926-1945』(平凡社)

大江志乃夫著『昭和の歴史3 天皇の軍隊』(小学館)