安倍首相が通算在職日数で並んだ「伊藤博文」とは

1000円札の図柄にもなった(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロ)

 伊藤博文といえば言わずとしれた初代首相で明治の元勲。4度にわたって宰相をつとめた彼の通算在職日数(2720日)に本日、安倍首相が並びます。伊藤は尊皇攘夷から開国派へ、薩長藩閥のボスから政党政治家へと180度異なる立ち位置を変えた変幻自在のフットワークの軽さが持ち味でした。安倍首相と同じ山口県の出身でもあります。人物像を追ってみました。

松陰門下の尊攘派から開明派へ大変身

 長州藩(山口藩)で生まれた伊藤博文は元々、農民出身でした。父の養家の関係で足軽の身分を得るも、軍政になぞらえれば一兵卒の家柄で正規の武士(下士官以上)の下働きといったところ。吉田松陰が主宰する松下村塾に学び、同じく低い身分の山縣有朋(同士にして終生のライバル)と出会います。正式な藩士であった高杉晋作にも知遇を得て尊皇攘夷思想に一時凝り固まって高杉とともにイギリス公使館焼き討ち事件を起こすなど今でいえば若きテロリストでした。

 他方、向学心旺盛な彼は尊攘思想はそれとして海外を見聞したいという希望を持ち、藩に認められて何と焼き討ちしたイギリスへの留学が認められたのです。当地で超大国の偉容を知ってゴリゴリの尊攘派から脱し、帰国後は「英語の伊藤」として渉外などで力を発揮。倒幕・新政府樹立の立役者たる同郷の木戸孝允のバックアップを得て明治新政府の要職を歴任しました。

 次の1万円札の図柄となる渋沢栄一が尽力したアメリカの銀行制度を採用して銀行券を発行する第一国立銀行設立に法整備面から手助け(国立銀行条例制定)してもいます。

 1871年、当初は幕末の不平等条約改正を目的としていた岩倉遣外使節団の一行に選ばれて米欧を回覧します。同じ使節の大久保利通(薩摩藩)とここで親しくなったようです。途中、普仏戦争勝利で意気上がるドイツを訪問しビスマルク首相と面会しました。これが後の憲法制定につながっていくのです。

長州閥のリーダーとして板垣・大隈らと対立

 77年に木戸が病死、薩摩の西郷隆盛が西南戦争で戦死、すでに独峰の趣であった大久保すら翌年、不平士族に暗殺(紀尾井坂の変)されて維新の第1世代が相次いで世を去りました。伊藤は陸軍の中心となっていた山縣とともに長州閥を引き継ぎ、黒田清隆ら薩摩藩閥と組んで政界の中枢を占めていくのです。

 こうした権力構造に異を唱えたのが板垣退助(土佐藩)や後藤象二郎(同)らが主導(しつつ裏切るけど)の自由民権運動です。西郷挙兵が失敗し軍事力での転覆が難しいと悟って言論で薩長藩閥に立ち向かいました。主な要求は当時欧米列強が備えていた議会政治導入や憲法の制定。成功すれば薩長という地縁による寡頭政治が打破できると踏んでいたのです。

 これに加わった政府要人が財政家の大隈重信(佐賀藩)で国会即時開設を主張して消極的な伊藤と対立しました。折しも薩閥の黒田が開拓使官有物払下げ事件という贈収賄疑惑の渦中にあって世論も猛反発し大隈も板垣も同調します。薩長関係を壊せない伊藤は窮余の策として81年、大隈を追放(参議罷免)する代わりに10年後の国会開設を公約する勅諭を出すという足して二で割る提案で落着をはかったのです。

 余談ですが野に放られた大隈の憤激はすさまじく翌年に立憲改進党を結成して来たるべき政党政治に備えるとともに東京専門学校(後の早稲田大学)も開学しました。今に続く「反骨精神」(容易に人に従わない)は「伊藤ごときに従わない」で、「在野精神」(官職を求めず野にある)は追われても屈しないという気概の表れでしょう。同校は「謀反人の養成所」などと政権側から煙たがられます。まさに早稲田精神ですね。

第1次内閣(1885年~88年4月30日。861日)

 さて辛くも「10年」という時間を買った伊藤は日本にふさわしい制度を探るべく82年から欧州各国の憲法調査に赴きました。ウィーン大学のシュタイン、ベルリン大学のグナイストと弟子のモッセといった泰斗からドイツ風の憲法を学びます。

 帰国後の84年に華族令を制定。旧上層公家・旧藩主以外に新たに維新の功労者を華族に含め、上院(後の貴族院)の準備としたのです。そして85年、これまでの太政官制を廃して内閣制度を創設。初代総理大臣へと就任しました。

 華族令も含め、この内閣制度も民権運動勢力をあらかじめ牽制しておく意味合いが濃厚でした。国務大臣は自省の任務に関してのみ天皇に対して責任を負うとしたのも一例。88年に天皇の諮問機関として設置した枢密院も同様で、天皇の命令である緊急勅令の審議権を持たせます。

 宮中との分離もハッキリさせました。事務を統括する宮内省を内閣の外に置き、宮内大臣を長官としたほか天皇の常時相談役たる内大臣府を宮中に設置したのです。

 まず内閣制度を発足させて、いよいよ憲法草案作成を本格化。井上毅・伊東巳代治・金子憲太郎らが起草に加わり、ドイツ人顧問ロエスレルが助言する形を取ります。

 88年、憲法草案を審議し可決させる権能も持っていた枢密院設置にともない総仕上げをかねて議長へ就任すると同時に首相を辞任しました。大日本帝国憲法=明治憲法は2代首相の黒田の時(89年2月1日)発布されたのです。

第2次内閣(92年8月8日~96年8月31日。1485日)

 同年に制定された衆議院議員選挙法に基づき翌90年、歴史的な第1回総選挙が実施され、板垣らが結成した自由党の流れを汲む立憲自由党や立憲改進党など、民権勢力の「民党」が勝利し初の帝国議会で第1次山縣内閣と対峙しました。

 続く薩閥の第1次松方正義内閣で民党は減税と財政とくに海軍の軍艦建造費削減を主張、折り合わず初の衆議院解散に至りました。総選挙は警察などによる歴史的な圧迫に耐えて民党勝利。文字通り傷だらけで得た議席で乗り込んだ民党議員は軍事予算案を否決して松方内閣が閣内不一致まで起こして崩壊してしまいました。

 薩長藩閥政府維持に危機感を持った伊藤が後を襲って第2次内閣が成立しました。伊藤と自由党(立憲自由党から復名)は自由民権運動時代からの宿敵であると同時に1875年の大阪会議で板垣を政権側に引き込む道筋を作るなど伊藤は「人たらし」の変幻自在さも持ち合わせており、この時も自由党総理の板垣を抱き込むなど同党と接近して軍事予算を削減を天皇の詔書によって乗り切り、反発した立憲改進党など「対外硬派連合」と大詰めを迎えていた不平等条約改正内容の賛否で対立、解散総選挙で揺さぶりをかけたのです。

 94年になると日清戦争不回避の情勢下、自由党の提携を進めて軍備拡張予算を承認させました。戦争に勝利し、95年の下関条約=日清講和条約の締結で全権を務めたあたりが絶頂期。その後は大隈、薩閥、山縣らとの権力闘争が顕在化して挂冠したのです。

第3次内閣(98年1月12日~6月30日。170日)

 第2次松方内閣をはさんで98年、第3次伊藤内閣が誕生しました。伊藤は軍備拡張の財源として地祖増徴案を帝国議会に提出、反対する自由党と進歩党(旧改進党)に阻まれます。両党は勢いのまま憲政党を結成して合流したのです。

 ここに至って伊藤はついに政党の力量を認めざるを得なくなりました。かつての自分の主張と180度異なる政党政治を担う新党結成へ動くべく総辞職したのです。

 代わって成立したのが進歩党による日本最初の政党内閣である第1次大隈内閣。板垣が内務大臣として協力した通称「隈板(わいはん)内閣」です。しかし尾崎行雄文部大臣が「日本に共和政治が行われたら三井・三菱が大統領候補」と語った「共和演説問題」で紛糾し、天皇が侍従をつかわして尾崎罷免を求め、文部大臣を辞任した跡目争いが激化して寄り合い所帯の隈板内閣は約4ヶ月で退陣。同党も旧自由党系の憲政党と旧進歩党系の憲政本党に分裂しました。

 続く第2次山縣内閣は首相の徹底的な政党嫌いも相まって専門知識や経験のない者が政党の力で高級官僚になれないようにした文官任用令の改正や陸海軍大臣は現役の大将・中将に限るとした軍部大臣現役武官制の制定、労働者の団結権やストライキ権を規制する治安警察法の制定と「これでもか」と締め上げてきました。山縣は長州閥内で伊藤の最大のライバル。たまらず憲政党は伊藤と接近して新政党「立憲政友会」を結成しました。

 山縣はここで奇策に出ます。「どうせ持たないだろう」と見越して伊藤後継を推薦して退陣したのです。あれほど対立していた旧自由党勢力主体の政友会総裁となった伊藤に政権運営などできるはずがないと。

第4次内閣(1900年10月19日~01年5月10日。204日)

 案の定、1900年成立の第4次伊藤内閣は内側で党内不和、外からは山縣の牙城である陸軍と反政党で通じ合う貴族院の山縣系が攻勢に転じて瓦解しました。

 後継の桂太郎太郎首相は「長州・陸軍」を背景とする山縣直系。官僚や貴族院も支え手となる反政党色の強い人物です。彼と2代目政友会総裁に就任した西園寺公望が交互に首班を務める「桂園時代」が始まりました。桂は山縣が、西園寺は伊藤がそれぞれ後ろ盾となり、本人は一線を退いて背後から元老として政治を動かしていくのです。この桂こそ首相の通算在職日数歴代トップ。安倍政権が順調に続けば11月20日に抜き去ります。