世界遺産登録前に振り返る、生糸産業が変えた日本の植生と景観

長野県宮坂製糸所。ここの糸繰りは人手に頼る座繰りで行う。

群馬県の「富岡製糸場と絹産業遺産群」が、世界文化遺産に暫定登録され、指定されるのはほぼ間違いなしになった。おかげで現地では大いに盛り上がっているようだ。これらの施設が、日本の生糸産業のの出発点になったのは紛れもない事実である。

せっかくだから、世界遺産登録記念に「製糸業と日本の森の関係」を考えてみよう。

富岡製糸場は1872年に建設されたが、当時の国家予算の約1%をつぎ込み、国運を担った。製糸場で働く若い女性たちのことを女工哀史として語られがちだが、最近の研究では富岡で働く女性は元武家の子女を中心に選ばれた、いわばエリートだったらしい。待遇も、当時の農家の暮らしと比べたら、ずっとよかったという。だから女工時代を懐かしむ声も記録に残されている。ブラック企業ではなかったのだ。

その後、全国に多くの製糸工場が建設され、また農山村では養蚕が行われた。各地に養蚕と製糸で繁栄する「蚕都」「桑都」と称される都市が生まれている。

日本の生糸生産量は、世界恐慌直前の最盛期だった1929年に40万トンに達して、世界の生糸生産量の約8割を占めていた。驚異的シェアだろう。それを支えたのが、日本の養蚕農家は221万戸(これは全国の農家の4割が養蚕を手がけていたことを意味する)、製糸工場も1万2640箇所、従事者53万人である。

生糸の生産は養蚕から始まるが、それが日本の植生に与えた影響にも眼を向けてみよう。

養蚕にはクワの木が欠かせない。カイコはクワの葉しか食べないからだ。そのため桑畑が全国に広がっていく。水はけのよい土地がクワの栽培に向いていたから、河川岸や急傾斜地の開発が進んだ。山間部の焼き畑の跡地も桑畑へどんどん切り換えられた。また林業を基幹産業とする山村でも、日常的な仕事は養蚕に頼るところが多かった。

最盛期の桑畑の面積は、昭和初期には71万ヘクタール! 全国の畑地面積の25%を占めていた。それは森林面積の3%程度に達した計算になる。日本の農山村の植生と景観、そして生態系に大きな影響を与えたと言えるのではないか。

桑畑だけではない。

養蚕は非常に多くの燃料を必要とした。カイコの飼育には、一定の温度を維持しなければならなかったから、山間部では蚕室の暖房が欠かせなかった。薪では温度調節が難しいため木炭が使われたという。必要な木炭の量は莫大だ。山梨県の記録によると、一回の蚕の飼育に要される木炭の原料を得るためには、500ヘクタール以上の森林が必要だったという推計も出ている。当時の木炭生産量の過半を、養蚕が消費していたのである。

さらに製糸工場でも薪と水を消費した。なぜならカイコの繭を煮沸するための燃料がいるからだ。糸繰りも最初は人力や水力だったが、やがて蒸気機関を使用するようになった。その燃料は薪だった。これまた多くの森林から収奪される。燃料が足りなくなって、生産が拡大できない事態になった記録もある。

蒸気機関の燃料が石炭へ置き換わったのは明治末頃から。ようやく森林の収奪は一息つく。それでも養蚕が森林に与えた影響は少なくないだろう。

富岡製糸場の世界遺産登録を語る際には、こんなウンチクも語ってほしいなあ。