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この国の民主主義はコロナ禍の1年半で死んだ

木曽崇国際カジノ研究所・所長
(写真:イメージマート)

さて、ワクチン接種率が一定レベルに達し、やっと緊急事態宣言が開けるそうです。以下、朝日新聞からの転載。

飲食店での酒類提供、都が来月から解禁へ調整 午後8時までで検討

https://www.asahi.com/articles/ASP9W5TT1P9WUTIL03H.html?ref=tw_asahi

新型コロナウイルス対応の緊急事態宣言が30日に解除された場合、東京都は10月1日以降、全面的に自粛を求めてきた飲食店での酒類提供を認める方向で調整に入った。都が、感染対策が十分だと認証した店舗が対象となる。政府が宣言の解除後、現在、午後8時まで求めている営業時間の短縮要請については午後9時までとし、酒類の提供は午後8時までとする案を軸に検討している。

ということで、政府が緊急事態宣言を外すのに入れ替わる形で、こんどは東京都が飲食店への時短営業および酒類の提供制限に関する「要請」を行う方向とのこと。いや、だとしたら何のための宣言解除だよ、と。

私自身、このコロナ禍の1年半ずっと申し上げてきたことですが、営業者には憲法で定められた財産権の一部として、経済活動の自由が保障されています。「公共の福祉」を目的としてその権利を制限する場面はあるでしょうが、それを実行するのならば法治体制の民主主義国として、その公的権限を担保する法と制度が必要であります。

今回のコロナ禍にあたっての各種私権制限に関しては、新型インフルエンザ等特措法に定められる緊急事態宣言と蔓延防止等重点措置がその法的根拠となるわけですが、今回政府は全国で発令されている緊急事態宣言と蔓延防止等重点措置を全面解除する方向でいるわけで、だとしたら東京都は何の法的権能をもって民間事業者に対する営業制限を行うのか?そこに法的根拠はない、ということになります。

我が国は議会制民主主義を前提とする法治国家です。その法治国家においては、行政がどんなにその行為が必要であると考えたとしても、法と制度の裏付けのない限りにおいてはその行政行為は「実現できない」のがルールですし、もしそれが本当に必要だと考えるのならば市民を説得して法と制度を整備するのが政治の役割です。雨が降ろうが、槍が降ろうが、お隣のアカい国が領海侵犯をして来ようが、法律によって付託を受けた権限「以上」の行為はできない。それを大前提としながら国民の安心と安全をギリギリのラインで守ってきたのが、我が国の安全保障であり、法治国家としての矜持であったのではないでしょうか。

ところがコロナ禍に苛まれたこの1年半で、我が国の政治と行政はその民主主義と法治国家としての矜持を完全に失ってしまった。法に定められた行政権限を超えて、さも当たり前のように営業者の権利制限を主張する。マスコミもそれを何の違和感もなく報道し、一部の市民はそれを歓迎はおろか「もっと制限強化せよ」と主張する。それを当たり前のように許してしまうことの先には、「緊急事態」と称して法の権限を超えて市民に向かって銃口を向ける国の誕生があるわけで、そんな事を許して良いのか?と改めて思うわけです。

特に今回の様な有事にあたっては、民主主義は圧倒的に「遅い」ですし、何をするにも法の規定を求められる法治国家はとても「面倒くさい」です。しかし、その様な民主主義と法治体制の欠点を享受しながらも、我が国日本は民主主義に基づく法治国家であることを選択してきたわけで、例えコロナ禍という危機的環境下であっても、我々はその民主主義国としての矜持を失ってはならないと思います。

現在、自民党は次期総裁を巡って政策論争の真っ只中。そして、その先にはすぐに政権選択を我々、国民自身が行う総選挙が控えているわけですが、長い長いコロナ禍のトンネルの向こうに光が見え始めたこのタイミングで、この国の民主主義と法治体制のあり方について改めて総括をしてみるのは如何でしょうか?我々は、民主体制の法治国家として、このコロナ禍に適切に立ち向かって来たのであろうか? 少なくとも、私はこの1年半のコロナ禍の間、日本の民主主義と法治体制は完全に死んでいたし、主権者たる国民側がそれを「仕方がなかった」などと受け止めてはならないと思っています。

国際カジノ研究所・所長

日本で数少ないカジノの専門研究者。ネバダ大学ラスベガス校ホテル経営学部卒(カジノ経営学専攻)。米国大手カジノ事業者グループでの内部監査職を経て、帰国。2004年、エンタテインメントビジネス総合研究所へ入社し、翌2005年には早稲田大学アミューズメント総合研究所へ一部出向。2011年に国際カジノ研究所を設立し、所長へ就任。9月26日に新刊「日本版カジノのすべて」を発売。

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