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【レバンガ北海道:水野宏太】コーチを職業とするきっかけはNCAAの名将2人との出会い

青木崇Basketball Writer
バスケットボールへの情熱と危機感を持ってのハードワークが水野コーチの強み

 2016年9月25日、Bリーグが日本のトップリーグとしてスタートした開幕週の大阪エヴェッサ戦。レバンガ北海道を指揮する水野宏太コーチはシーズン初勝利を手にした試合の記者会見後、「久しぶりです」と筆者に声をかけてきた。水野との出会いがいつだったかは、正直なところ記憶がない。しかし、NCAAの強豪校に留学し、バスケットボールチームのマネジャーを務めた経歴の持ち主ということもあり、あの日をきっかけに試合会場で話をする機会が増えた。また、これからが楽しみな若手コーチというのも大きかった。

 水野が留学した元々の理由は、トレーナーを目指していたから。ニューヨークにある短大から4年制の大学に編入する際、自身にとって最適な学部があることからウエスト・バージニア大を選んだという。そこで男子バスケットボールチームのマネジャーとして、ジョン・ビーライン(ディビジョン1で通算541勝)とボブ・ハギンズ(通算773勝)というNCAAファイナルフォー進出させた実績のある名将の下で1年ずつ働いた。水野はこう語る。

「自分にとっての始まりを作ってくれた大きな影響力を持った2人。自分がコーチとしてやっていくという決意をするところの大きな原動力になりました」

 しかし、どこのだれかわからない、それも日本人留学生がNCAAトーナメントに何度も出場している大学で、NBAのロゴモデルである往年のスーパースター、ジェリー・ウエストの母校でスタッフになるのは、決して簡単なことではない。マネジャーのトップにメールを送信しても無視され続けたが、それでも水野はあきらめない。スカラシップ(奨学金)をもらえないウォークオンの選手を募集するトライアウトに参加し、小さなアジア人ということで指揮官だったビーライン(現ミシガン大ヘッドコーチ)の記憶に残っていたのが、水野にとっては大きなプラスに働いた。

「マネジャーの仕事は相当断られましたからね。断られたというか、門前払いだった。一番偉いマネジャーのところを訪ねて“やらせてください”とお願いすると、『このアドレスにメールして。明日返信するから』と言っても2週間返ってこない。おかしいなと思って再度訪ねて『メール届いていませんか?』と言っても返事は届いていない。また送っても1週間たっても返事がない。

 当時、恥ずかしながらもウエスト・バージニアのトライアウトを受けたんですよ。後日、もう一度直談判しに行ったんです。ビーラインコーチはKJ(松井啓十郎:コロンビア大出身で現シーホース三河)をリクルートの一人に入れていたことを後に知ったわけですが、『あれ、お前はトライアウトを受けに来た日本人じゃないか』と言われ、『はい、そうなんです。バスケットボールを勉強したいので、マネジャーをやらせてください』と伝えました。学部を変えることも決めていたので、マネジャーをやりながらコーチを目指していこうというきっかけになり始めそうなときだったんです。

 トレーナーの仕事が自分に合っているのか考え始めていたし、バスケットボールをもっと知りたかった。あのころ自分のことをまったくわかっていなくて、そのくすぶりを残しつつ、それをやるためにはただレクリエーションセンターでバスケットボールをやっていればうまくなるってことじゃないなと。だったら、関われるところでバスケットボールを学んで、知識を自分に生かせばいいじゃないかということから始めようとしていました。ビーラインコーチにマネジャーにしてほしいと言ったら、『そうなのか。じゃあ、コーチングクリニック招待してやるから、やる気があるなら来い』と。

 2、3日後だったのかな、すぐに行って『マネジャーやらしてください』って言ったら、ビーラインコーチがヘッドマネジャーに『こいつそういう風に言っているぞ』と話したらすぐにメールが返ってきて、そこから試験的にやってみようということになった。結局、(ビーラインの後任となった)ハギンズコーチがマネジャーの数を減らしていくというときに、『残してもいいんじゃないか』と言ってくれた方が、当時自分をまったく相手してくれなかったヘッドマネジャーだったので、アメリカはそういうところだよなとすごく感じましたね」

 マネジャーとしてチームに入ることを認められた水野は、勉強をしながらもだれよりも働き、授業以外の7〜8時間はバスケットボールチームのオフィスか体育館で過ごしていた。コーチや他のスタッフに「何かやることはありますか?」と常に声をかけるだけでなく、日本人というアドバンテージを生かし、マネジャーの仕事じゃないこともたくさんやっていたのである。数多くあるというエピソードの中でも、水野が今でもすごく印象に残る話をしてくれた。痒いところに手が届くという日本人のいいところと、アメリカで生きていくうえで必要な能動的にすぐ実行することを両立したエピソードであり、信頼を勝ち取るために必死だったことを物語っている。もちろん、自己アピールをするための方法でもあった。

「フライトで(遠征に行って)帰ってくるのが夜中の2時とか3時とかのときかな、ウエスト・バージニアは冬に雪が降るじゃないですか。自分は遠征に参加しないときがあったので、24時間やっている図書館で勉強をやりつつ、帰ってくる時間がわかっているから、コーチ、選手、帯同スタッフ全員の車の雪かきを帰ってくる前に終わらせるのです。まったく頼まれていないですよ。勝手に自分でやったんです。彼らも次の日授業があるので、すぐ車に乗って帰れるような状況にしてから、また図書館に戻って勉強していた。

 彼らが『あれ、どうなっているの?』という感じになったけど、自分は知らんぷり。それでも、見ててくれるんだなと思ったのが、スタッフのだれか覚えていないんですけど、次の日『コウタ、あれをやったのはお前だろ?』と言われたので、それを聞かれてウソをつく必要もないから、『僕がやりました』と答えました。でも、それ以上のことはないし、だから何ということも言わず、『助かったよ』と言われたから、『それはよかったです』というやりとりをしていました。ただ、何かしら彼らの心の中に覚えてもらうということと、必要としてもらうということ、居場所は自分で作らなければいけないというのがすごくありましたね」

 水野がウエスト・バージニア大で過ごした2006年からの2シーズンで、チームはNIT(NCAAトーナメントに出られなかったチームで争われるトーナメント)優勝し、翌年のNCAAトーナメントでスウィート16進出。チームの一員として、記念のリングももらった。卒業後は大学院に進学するつもりでいたが、栃木ブレックスからアシスタントコーチ兼通訳の仕事をやらないかという勧誘がくる。水野は非常に迷ったが、ハギンズコーチを筆頭に多くの人から勧めもあり、帰国を決断した。当時をこう振り返る。

「今の環境で自分がやらせてもらっているのを考えたら、あのとき大学院に残ってやるよりも、日本に戻ってプロの現場で揉まれたこの10年というのは、確かにあの決断でよかったのかなと思います。あのときハギンズコーチとも話をさせてもらいましたし、アシスタントコーチやいろいろな方とも話をしました。昔日本でやっていたエリック・マーティン(シンシナティ大でハギンズコーチの教え子)という人がアシスタントコーチでいたんですよ。

 日本の環境を知っている彼から言われたのが『コーチとしてちゃんと責任を持って現場で経験するのと、バスケットボールが進んでいるアメリカで一人の学生マネジャーで大学院に行き、もっと深く学べる経験とどっちが大事? そこはバスケットボールのレベルじゃなく、自分が責任を持って仕事をすることのほうがいい。もし、またアメリカに戻ってきたいのであれば、俺からすればこんなチャンスをみすみす逃しても意味がないから、帰ったほうがいいんじゃないか?』と言ってくれた。

 当時のビデオコーディネーターにも『母国でコーチをやった経験がない、言語もままならないのに、どうやってこのアメリカで生きていけると思っているんだ』と言われたときは、ズシーンときましたね。悔しさ半分。情熱だけは勝てますと言えるけど、それがなんぼの話じゃないですか。向こうは情熱を持った人なんてたくさんいるわけで、『お前がやれるものは何かあるのか?』というのもなかったですし、それを言ってもらったときに悔しいだけで言い返せる言葉もなかったのは、自分の原点で始まりだと思う。そういう話をしてもらったときに、迷いましたけど『やっぱりそうだな』と思えました」

 ハギンズコーチからも、こんなことを言われたという。

「コウタ、なかなかそんなチャンス、大学卒業してすぐにプロのアシスタントコーチ兼通訳という仕事なんてもらえない。これを逃したら、次があるかどうかわからない。それを踏まえたうえで考えろ」

 大学院進学でなく日本に戻ることを選択した水野は、トーマス・ウィスマン、アンタナス・シレイカ、ピティ・ウルタドの下でバスケットボールをより深く学んだ。2014年12月1日に代行となり、2015-16シーズンからレバンガ北海道のヘッドコーチを務めているのは、バスケットボール好きな人ならご存知のとおり。しかし、コーチという仕事を自分の職業にしようと決断したのは、ウエスト・バージニア大でビーラインとハギンズの下で働いたことが大きく影響している。

「コーチという仕事がどういうものなのか、それに対するその人のエナジーのかけ方だったりですね。何よりもあの2人から教えてもらったことは、コーチという職業が存在して、それはやりがいがあって生きがいになるという、自分の人生でやりたい仕事を本当に見せてもらったことが一番です。あの2人を見て職業にしたいと思ったので…。厳しいけど温かいですよね。ハギンズコーチが恐いのはバスケットのときだけですね。試合の大事な局面で汚い言葉を使って鼓舞することはしますけど、あの方の人に対する思いはすごい。面倒見がめちゃくちゃいいです」

 名将2人からバスケットボールの真髄を学べなかったという水野だが、人間としての懐の広さは知ることができたのは貴重な経験。ウエスト・バージニア大を卒業して10年、危機感を持ってひたすら走り続けるようにコーチという仕事に打ち込んだ。「基本的に雑草根性なので、怠けて成長するのを止めたら、自分くらいの人材はこの世界から簡単に消えていなくなるでしょと思っている」と話す水野は、コミュニケーションやマネジメント能力でまだまだ力不足で、弱い部分と認識している。しかし、日本バスケットボール界の発展に欠かせない人材へと成長したことに疑いの余地はない。

 水野は卒業後一度だけハギンズと会えたが、ビーラインとは実現していない。また、顔を合わせて話をすれば、2人は「お前を誇りに思う」と言うのが容易に想像できる。このオフでの実現は難しいかもしれないが、そろそろ渡米して近況報告してもいい時期を迎えているのはまちがいない。

Basketball Writer

群馬県前橋市出身。月刊バスケットボール、HOOPの編集者を務めた後、98年10月からライターとしてアメリカ・ミシガン州を拠点に12年間、NBA、WNBA、NCAA、FIBAワールドカップといった国際大会など様々なバスケットボール・イベントを取材。2011年から地元に戻り、高校生やトップリーグといった国内、NIKE ALL ASIA CAMPといったアジアでの取材機会を増やすなど、幅広く活動している。

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