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「ウクライナの小麦」の奇妙な動き

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
(写真:ロイター/アフロ)

 2022年6月16日、ロイターはアメリカの衛星写真企業の発表を基に、ウクライナの小麦がロシアの手によってクリミア半島から出荷され、シリアで荷揚げされたと報じた。この報道は、ウクライナでの紛争に伴いロシアがウクライナの小麦を「略奪」し、それをよそに売り払っているとの非難を裏付けるものであろう。しかし、この小麦の流通を、単にロシアとウクライナとの間のできごととして観察しているだけでは、何故これがシリアに荷揚げされるのか、それがどんな意味を持つのかについてさっぱりわからないだろう。もちろん、シリアはロシアの強固な同盟国としてロシアがウクライナで行う軍事行動を支持しており、その文脈で出所がウクライナであろうがロシアから小麦を買うべき立場にあるという風に物語を「処理」してしまうことも簡単だ。しかし、シリア情勢の観察という視点からは、シリア紛争の勃発以来シリア産の小麦はとても奇妙な流通をするようになっており、それがシリア人民の生活水準の低下の一因となっているとともに、出所が何であれシリア政府が何処からか小麦を調達しなくてはならない重要な理由となっている。

 紛争勃発前、シリアは一応農業国としての性質を持っており年間300万~400万トンの小麦を生産していた。小麦は国内の需要を賄うだけでなく、EU諸国や近隣諸国向けの輸出作物だった。しかし、2000年代後半からの干ばつ、紛争による住民の逃亡、生産設備の破壊などが原因で近年は生産量が大幅に減り、紛争前の半分程度にまで落ち込んだ。また、各地の備蓄施設も破壊や略奪の対象となり、「反体制派」の一部は困窮する住民に備蓄小麦を提供するのではなく、トルコなどに売り払って自らの活動費に充てた。こうして、シリアの小麦の生産・流通・備蓄は重大な打撃を受け、今やシリアは外国からお金を借りて小麦を輸入する状態に転落した。ここに、ウクライナでの紛争に伴う穀物や燃料価格の高騰で更なる打撃を受けているのだ。

 しかし、シリアで小麦が足りない最大の理由は他にある。というのも、シリア国内で最大の小麦の産地であるハサカ県を中心とするユーフラテス川東岸の地域を、アメリカ軍とその配下のシリア民主軍が占拠し、同地で生産される小麦も、石油もシリア国内で流通せずにイラクに搬出されてしまっているのだ。この状態はウクライナで戦闘が始まる何年も前から続いている。アメリカやシリア民主軍の行為はシリア領を占領・分割する行為だし、占領地の産物を外部に持ち出すことも非難されるべき行為だ。これについては、アメリカ軍が小麦や石油を持ち出すための車列をイラクからシリアへ導入する度にシリア政府が非難しているが、まともに取り合う国はほとんどない。

 ユーフラテス川東岸地域の小麦や石油がシリア国内の需要を満たすために用いられれば、シリア国内の物価や食糧の問題は幾分か緩和するだろうし、シリア人民の生活水準の低下も現在の様に劇的ではなかったかもしれない。しかし、残念なことにシリア国内で産出される産物から裨益することができないシリア人民の苦境や、身近な消費地に産品を出荷できない生産者の苦境は、西側の報道機関や人権団体の目には入らない。この問題を取り上げるのは、シリア政府系の報道機関か、ロシアや中国の報道機関が主なので、本邦においては「独裁政権のプロパガンダ」として片付けられるだろう。

 結局のところ、ウクライナの小麦がロシアの手によってシリアに荷揚げされるというできごとで「奇妙な」点は、シリアで小麦や燃料の不足を招いているアメリカとシリア民主軍による産品の持ち出しが、誰からも咎められることなく公然と、何年間も続いていることなのだ。他国の領域を占領することや、占領地の産品を地元の人民から奪うことに対する評価は、その舞台がウクライナであろうがシリアであろうが同じになるべきだが、現実はそうではない。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会、『シリア紛争と民兵』晃洋書房など。

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