レバノンでは、依然として2019年秋以来の深刻な政治・経済危機の解消のめどが立たないままである。確かに、2021年9月にはミーカーティー内閣が発足し、懸案の一つだった内閣の空白は一応解消した。しかし、その後は10月14日にベイルートで抗議行動を行っていたヒズブッラーの支持者らへの銃撃事件が発生し、治安の不安は相変わらずある。また、国会も2022年3月に選挙を早期に実施すると議決したものの、その選挙を実施するための改正選挙法が大統領によって差し戻されてしまった。要するに、内閣や国会の陣容を整え「改革」を行うことについての総論では皆が一致しているものの、では何をどうすれば「改革」なのかについての合意は成立していないということだ。こうした状況を受け、ミーカーティー内閣発足直後には若干持ち直したレバノン・ポンド(LP)の価値は再び下落し、1ドル=2万LP以上へと下落した

 短期間のうちに生活水準が一挙に低下しているにも拘らず、それに対する措置が何ら講じられないことに見切りをつけたレバノン人民の一部は、海外への移住に活路を見出そうとしている。レバノンは、伝統的に海外との往来が盛んで世界各地にレバノン起源の移民集団が広がり、そうした移民たちが母国の政治・経済・社会で活躍する事例も多くみられる。そして、レバノン人は「フェニキア人の末裔」として商才に長け、世界中で活躍する人々であるとの「神話」が広く信じられてきた。しかしながら、最近は諸般の事情により海外に活路を見出そうとするレバノン人の前途に不安要素が増しているそうだ。その中の一つに、アラビア半島の産油国におけるレバノン人労働者の賃金水準の低下がある。2021年10月23日付『ナハール』紙(キリスト教徒資本のレバノン紙)によると、アラビア半島諸国で就労を希望する、または就労しているレバノン人の雇用条件が大幅に悪化し、賃金水準が半分程度になってしまったとのことである。

 上記の『ナハール』紙の報道によると、アラビア半島諸国におけるレバノン人の求人としては、医師・看護師、飲食業・接客業、情報通信・携帯電話・デジタル取引分野の技術者、マーケティングなどのアナリストへの需要があり、レバノン在住のまま遠隔勤務が可能な雇用があるそうだ。一方で、技術者や金融部門の職員としての雇用は不振のようだ。そして、レバノン人の出稼ぎ・移住を難しくしている要因としては、入国査証の発給に(競合者となる)他の国の出身者よりも時間がかかることや、アラビア半島諸国が進める労働力の自国民化により、金融分野などでの事務職員の雇用が減少していることなどが挙げられている。さらに、アラビア半島諸国の雇用主の一部が、レバノンの経済危機に乗じてレバノン人の雇用条件を切り下げていることが重大な問題として挙げられている。報道によると、アラビア半島の一部の国・勤務先では、レバノン人の賃金が半減するなど雇用条件が悪化している。

 雇用条件の悪化は、レバノン国内での状況悪化に伴いアラビア半島諸国での就労を希望する者が増加した結果、雇い主側が好条件を提示しなくてもよくなったり、求職するレバノン人の側にも必要な学歴や技量の条件を満たさないものが増えたりしたという、需要と供給の問題のようにも思われる。また、雇用条件についての交渉ではLPの為替相場も考慮されるため、賃金を支払う側からすればLPの価値が大幅に下落したことを受け、ドル建てなどで支払う賃金を減らしてもかまわないという発想もあるようだ。つまり、レバノンの政治・経済危機がレバノン人の出稼ぎや移住にも悪影響を与えている中で、アラビア半島の企業や雇い主の一部にはそれに乗じて「レバノン人の労働力や技量を買いたたく」動きもあるということだ。

 その一方で、たとえ条件が悪化しているとはいえ、海外への出稼ぎや移住に活路を求めることができる人々は、レバノン人の中でも恵まれた人々であるともいえる。「フェニキア人の末裔」として世界中で活躍するレバノン人というイメージを体現しているのは、実はレバノン人の中でも一定以上の所得、教育水準、そして出稼ぎや移住に不可欠なネットワークのあるごく一部なのである。そのような恵まれた人々の占める割合は、レバノン人全体の中ではあまり高くはない。そうなると、出稼ぎや移住に必要な技量やネットワークを持たない大多数のレバノン人は、一向に解消しない政治・経済危機の中に取り残されることになるのである。