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シリア:アラブ人民の食生活の多様さを忘れるな!

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
シリアの地中海沿岸某所(筆者撮影)

 2021年1月5日、シリアの地元紙は、同国北西部のラタキアでフグ中毒により一家7人が病院に搬送され、そのうち女児1人が死亡したと報じた。しかしながら、このできごとはこれまでの幾多もの報道が伝えるようなシリア人民の困窮の結果、彼らがやむなく魚を食べるようになった末のことではなさそうだ。紛争がらみの「かわいそー」ネタの発信とその受容にしか関心がない本邦の報道・世論の動向とは異なり、実のところシリアに限らずアラブ人民の食生活は本邦におけるイメージよりはるかに多様で楽しいものだ。筆者の居住地の近所でも、今や「ワタリガニ」の産地は軒並み中東のバハレーンだ。シリアにおいても、漁港もあれば漁師もいるし、釣りを楽しむ人々もいる。筆者がシリアに滞在していたころも、内陸地のはずのダマスカスに海産物の行商や海産品を商う魚屋は少なくなかった。しかも、それらは外国人や富裕層だけのための商いではなく、ダマスカスの郊外の伝統的庶民街にも海産物商はたくさんあった。鮫肉を買い求めその調理方法を尋ねた筆者に、親切(かつ雑駁に)に鮫肉の調理方法を教えてくれた鮮魚店の店番のことは今でも昨日のことのように思い出される。

 とりわけ、シリアにおいては本稿で着目した報道で挙がったラタキア県、その南隣のタルトゥース県は地中海に面する立地のおかげで、海産物の豊富なところだ。さすがにその調理方法は日本ほど多様ではないが、焼く、煮る、揚げるなど様々な場で供される。となると、問題はフグのような毒を持つ魚についての情報提供や調理方法についての啓発や保健所レベルの規制が行き届いていないということだろう。筆者の乏しい現地経験に照らしても、エジプトのカイロでサバやエビの揚げ物が人気を博していたり、チュニジアの沿岸部で海産物を具にしたクスクスが比較的安価で供されていたりしたこと、アルジェリアの首都アルジェの港湾で釣りを趣味にする市民が多数いたりしたことは忘れられない。本邦でも年に複数件フグの無資格調理で死者・重症者が出ていることに鑑みれば、シリアに限らずアラブ人民向けの海産物の消費や調理に関する啓発に真剣に取り組むべきだろう。

 同様のことはキノコについてもあてはまる。アラブ諸国でも地中海沿岸の地域は、季節によって降水量が比較的豊富で、その結果キノコ類が繁茂する。本邦でも、産地表示をよく見れば「まつたけ」類の産地が実はアラブの国だったりすることは稀ではない。また、例えば「砂漠」でも、シリアでは「砂漠トリュフ」なるキノコが季節の産品として長らく人民に親しまれてきた。もちろん、沿岸部の山林でのキノコについての研究や情報発信でも、いろいろな意味でもっと本邦の研究者が乗り出す余地が広いだろう。つまり、アラム・ムスリムの食生活が(特に海産物について)「単調」に見えるのは、日本人から見た調理法や味付けの話であり、食材や採取方法、楽しみ方が「単調な」わけではない。

 筆者が中東やアラブやムスリムのことに関わるようになってからそれなりの時間がたったが、その間関係各位の尽力により、本邦においてこれらの地域・人民の食生活・食文化に対する心理的障壁はだいぶ低くなった。オリーブオイルやカバーブ、シャワルマ、フンムス、そして「アラブ・イスラーム諸国産の」ワインが身近になったのは喜ばしいことだ。しかし、現時点の本邦で知られている中東・アラブ・ムスリムの食生活の多くが、実のところごく狭い仲間内の当事者による特定の経験や商業的な利害関係の中の広報の範囲にとどまっていて、その多様性について考える機会を奪っていはしないだろうか、という危惧や疑問が生じるのである。筆者としては、特定の地域とその住民の「独自の」文化や生活を詳述し、他との比較検討を拒絶する類の「地域理解」は断固否定するが、だからと言って過度の「一般化」や「平準化」はもっと有害だと考えている。アラブの人民もうっかりフグを喰って中毒になったり、キノコを採取・摂食・栽培したりする生き物だということを忘れないでいたい。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会、『シリア紛争と民兵』晃洋書房など。

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