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シリア:イドリブでの戦闘激化

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
(写真:ロイター/アフロ)

初めから存在しなかった「緊張緩和地域」

 2019年8月下旬、ロシアの支援を受けたシリア政府軍が「反体制派」の占拠するハマ県北部、イドリブ県南部に進撃した。これにより、ダマスカス・アレッポ街道(M5と呼ばれる幹線道路)上の要衝のハーン・シャイフーン市や、ハマ県北部の「反体制派」の占拠地域を解放した。これらの地域は、実は2018年9月のロシア・トルコ合意では「緊張緩和地域」として紛争当事者が重火器を撤去するなどしなくてはいけない地域だったため、今般の政府軍の進撃はちょっとした波紋を呼んだ。

 しかしながら、イドリブ県を中心とするシリア北東部の情勢、ひいてはシリア紛争全般の展開を観察・展望する上では、以下の二つの誤解を正すことが必須である。第一は、「緊張緩和地域」なるものは、ロシアとトルコとの合意や報道という、言葉や机上の世界でしか存在せず、実際には一瞬たりとも存在・機能したことがないものだという点だ。なぜそうなのかは、当該の合意が成立した直後に発表した筆者の駄文を参照されたい。「緊張緩和地域」が物理的に存在しない以上、そこで「緊張が緩和しなくてはならない」とか「戦闘が起きてはならない」とか信じる根拠は極めて薄弱である。かくして、ロシア・シリア両軍は、そこに元から何もなかったような風に今般の攻撃を行った。

 第二は、日本や欧米的な理解で「世俗的で、自由・平等・博愛の精神に満ち、シリア人民の人権・生活状況を向上させる」主体としての「反体制派」は、ずっと以前から存在しないという点である。現在イドリブ県などを占拠しているのは、シリアにおけるアル=カーイダ(「シャーム解放機構」こと「ヌスラ戦線」と、そこから分派した「宗教擁護者機構」)や、国際的なイスラーム過激派である「トルキスタン・イスラーム党」である。彼らは、シリア紛争の政治的解決や停戦に関するいかなる合意や取り組みも拒絶し、これらの取り組みに参加してもいない。当然ながら、「緊張緩和地域」を設置・維持する当事者でもない。イスラーム過激派以外の団体は、イスラーム過激派に従属し、その指揮下で救護・民生・広報活動を行う団体や、イスラーム過激派の戦闘員に随伴してマイナーな「戦果」動画を発信するだけの存在にすぎない。

 つまり、本当は初めから存在しない「緊張緩和地域」や「反体制派」が「ある」と信じ込んで情勢を論じても、最優先すべき「シリア人民の生命・財産・権利の保護」には何の役にも立たない空論に終わってしまうのである。

無力をさらした諸当事者

 上記に鑑みて事態を観察すると、シリア紛争の当事者のうちいくつかが無力をさらけ出してしまったことがわかる。その筆頭は、トルコである。トルコは2018年9月のロシアとの合意で、「緊張緩和地域」の設置と維持、合意を拒むイスラーム過激派との絶縁、シリア政府軍に対する抑止を請け負ったと考えられる。しかし、実際にはそのいずれも達成できず、それどころかシリア領内に設置したトルコ軍の拠点の一つが、シリア政府軍の制圧地の中に孤立する結果に終わった。この拠点、机上の議論では「緊張緩和地域」を監視する施設だが、実際には設置に際し「ヌスラ戦線」が同伴・支援したものであり、停戦やシリア紛争の政治的解決に役立つかと問えば、答えは間違いなく「否」だ。一方、ロシアは2018年の合意が成立する前から、トルコが必要な責務を果たせないことを承知の上だったように見える。ロシアとしては、達成不可能な合意をさせたうえで、その不履行を理由にトルコの影響力と発言権を剥奪することこそが合意の目的だったようだ。実際、今般のシリア政府軍の進撃について、ロシアはそれを支援し、トルコからの働きかけに全く応じていない。その上、アレッポ県北部を占領するトルコ軍の配下の武装勢力が、イドリブ県のイスラーム過激派を公然と支援したことから、イスラーム過激派対策という面でトルコのいごこちも非常に悪くなるだろう。

 もう一つは、主に報道とインターネットの世界に存在する「反体制派」広報が、さしたる反響を呼ばなかったことだ。周知のとおり、シリア政府軍やロシア軍の軍事行動は極めていい加減で荒っぽいものである。当然ながら、それにより本来は死傷すべきでない人々が多数死傷する。「反体制派」広報は、そうした蛮行をきめ細かに記録(場合によっては捏造)して、欧米の為政者と世論に向けて発信することにより、欧米諸国がシリア政府軍を物理的に攻撃するよう仕向けることを基本的な戦術としてきた。ところが、今般の進撃では、そうした戦術に対する反応が冷淡だった。確かに、多くの報道機関ががれきの中で乳児である妹を守ろうとする幼女の写真を大々的に取り上げた。しかし、肝心のアメリカの為政者の反応は、「(イドリブなんて片田舎で)ロシアとの本格的な対決を誘発するような行動を起こすつもりはない」とか「もうアメリカに期待するな」という趣旨のものであり、アメリカ政府の立場は相も変わらず「大量破壊兵器さえ使わなければシリア軍は何しても構わない」である。となると、近いうちにイドリブ県のどこかで「毒ガスの使用」についての情報が出る可能性にも備えなくてはならない。もっとも、情報が出て、それが社会的反響を呼ぶかどうかは、アメリカをはじめとする諸当事者の態度やシリア政府軍の進撃の速度に影響されるだろう。

展望と課題

 シリア政府軍に目を転じれば、彼らが今後イドリブ県で迅速に進撃するための能力は低い。シリア軍は、紛争を通じ兵士や士官の逃亡、徴兵を嫌ったものの国外脱出により人員不足が深刻である。そのうえ、現在活動している軍・親政府民兵のほとんどは、将兵らの出身地・居住地の近隣でのパトロール・検問任務に従事する者たちであり、高度な訓練を受け、欧米諸国やトルコからもらった高性能兵器で武装するイスラーム過激派に攻撃を仕掛ける能力はない。となると、シリア軍が攻撃的な作戦行動に投入できる人員は限られており、彼らに十分な訓練・装備・休養を与えつつ作戦を展開しなくてはならない。また、シリア軍の活動はロシアからの援護によって左右されるため、ロシアの外交日程にも影響される。このため、シリアのどの地域であろうと、政府軍の活動や作戦は「ゆっくり」展開せざるを得ない。

 その一方で、イドリブ県にはシリアの経済や社会の活動を左右する幹線道路が通っていることを見逃してはならない。同県を通過するダマスカス・アレッポ街道(M5)、ラタキア・アレッポ街道(M4)の再開は、復興とシリア人民の生活水準の改善に不可欠である。となると、たとえ「ゆっくり」でも幹線道路を再開させるための軍事作戦は必ずあると考えるべきであるし、軍事作戦を防止したいというのならば幹線道路の再開とシリアの復興についてなにがしかの「成果」が必要になるだろう。ちなみに、イドリブ県の県庁所在地であるイドリブ市は、いずれの幹線道路からも遠くにあるため、こちらはイスラーム過激派の占拠の下で長期間放置される恐れも残る。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会、『シリア紛争と民兵』晃洋書房など。

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