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母に誓った夢の実現から18年。FCティアモ枚方、MF田中英雄が現役引退。「全ての人に感謝」。

高村美砂フリーランス・スポーツライター
どんな逆境に直面しても、自分を信じて戦い抜いたプロキャリアだった(筆者撮影)

 10月28日にFCティアモ枚方から出された、現役引退を告げるリリースは、感謝の言葉で溢れていた。

「本格的にサッカーを始めて30年が経ち、プロサッカー選手として18年間プレーすることができました。人生の中でサッカーは特別な存在でサッカーを通して、楽しさ、苦しさ、辛さなどさまざまな経験ができ、サッカーがたくさんの人に出会わせてくれたり、色々な場所へ連れて行ってくれたりと、僕を1人の人間として成長させてくれました。共に闘った仲間、監督、コーチ、トレーナー、ドクター、スタッフなどたくさんの人達、そして、ファン、サポーターの存在、支えがあったからこそ、長い間サッカー選手を全うすることができました。田中英雄に関わってくれた、全ての人に感謝…。そして、ありがとう!(一部抜粋)」

 メッセージの最後にある「全ての人に感謝」は彼がプロになって18年間、サインを求められるたびに、したため続けてきた言葉だ。

「これまで数え切れないくらいたくさんの人に支えられた。これまで出会った人の一人でも欠けていたら、今の僕はなかった」

 多くの出会いに恵まれ、それを自分の力に変えて進んできたサッカー人生だった。

■「お金を稼いで親孝行がしたい」。カズに憧れプロサッカー選手を目指す。

 サッカーとの出会いは、小学5年生の時。野球少年だった彼に、サッカー部の監督だった担任の先生が声を掛けた。

「野球の練習が休みの時は、サッカーをしに来いよ」

 週3日の野球部の練習ではどう見ても田中が体力を持て余しているように見えたからだ。当時は、Jリーグが開幕した直後とあって空前のサッカーブーム。テレビから漏れ伝わってくる華やかな世界に心を奪われ、カズこと三浦知良(鈴鹿ポイントゲッターズ)に憧れた田中は、野球部の練習が休みの日になると決まってサッカー部に顔を出すようになった。

「最初は『野球部出身でボールを取るのがうまいだろう』という理由でGKをしていたけど、フィールドの選手を見ていると体がうずうずしてきて、かなり前まで出て行って攻撃に参加し、慌ててゴールマウスに戻っていました(笑)。今になって思えば、その時に今の自分にもつながる『前に出る意識』が育まれたのかもしれない」

 そうした攻撃力が評価されてFWや中盤を預かるようになると、彼のサッカー熱はヒートアップ。野球よりサッカーに気持ちが傾いていく。だが、そのことを母親に言い出せないでいると、6年生として新学期を迎えるにあたり母親からあるプレゼントを渡される。なんと、大ファンだった桑田真澄モデルのグローブだった。

「母子家庭で育ったので、子供ながらにお母さんに無理をさせちゃいけないと思っていて。せっかく野球道具を揃えてもらったのにサッカーをしたいなんて我儘は言えないよな、と思っているうちにプレゼントをもらって…。余計に悩んでいたら、お母さんが察して『何か言いたいことがあるんじゃないの?』と声を掛けてくれた。その言葉に一気に思いが溢れて大泣きしながらサッカーをしたいと伝えたら『なんで、グローブを買う前に言わなかったの!』と怒られて(笑)。泣きながら気持ちを伝えて、最後は頑張りなさいと言ってもらった」

 その時から、目標は『プロ』に定めていたという。秘めた思いが胸にあった。

「お母さんにプロサッカー選手になった姿を見せたい」

「お金を稼いで親孝行がしたい」

 そのために、中学生になると入学式から卒業式まで1日も休まず、登校前に1時間、新聞配達のアルバイトを続けた。

「カズさんブラジルに行ってサッカーが巧くなったという記事を読んで、僕も将来は海外でプロになろうと。そのためには自分でお金を貯めなくちゃいけないと考え、新聞配達をすることにしたんです。そしたら卒業時には、一緒に貯めていたお年玉を合わせて150万円くらいになった。ただ、進路をきめるにあたって『卒業後はブラジルに渡りたい』とお母さんに伝えたら『高校くらいは出ておきなさい』と。それで県選抜で一緒だった仲間の8割が進学を決めていた大津高校に行くことにしました」

 必死に貯めたアルバイト代は、母親へのプレゼントに変えた。

「お母さんは、頑張って貯めたんだから自分の好きなように使いなさいと言ってくれたけど、高校は寮生活になるし、試合を観にくるとなれば車で1時間強はかかる。それなら古くなった車を買い替えなよ、と。その代わり色は僕が選ぶから、とゴールドみたいな車にしました(笑)」

■突然の母との別れ。「自分だけは自分のことを信じる」。

 大津高校での3年間は、ポゼッションサッカーをスタイルとするチームにあって、ボールを動かすことや1対1での仕掛け、相手との駆け引きの重要性を学びながら、サッカーの面白さに気づかされる時間になった。加えて、平岡和徳監督に「日々、気持ちがビリビリと震えるようなことを言われ続けた」経験は、人間性を育む上でも大きな影響を受けたという。残念ながら2、3年生の時に出場した全国高校サッカー選手権大会では結果を残せず、プロ入りも叶わなかったが、そこで自分の甘さを思い知らされたことは、鹿屋体育大学での4年間を、より明確にプロを意識する時間に変えた。

「大学時代は高校とは真逆のスタイルで、違う角度からサッカーを学ぶことができた。4-4-2のボランチを預かることも多かった中で『攻撃は最大の防御。攻撃しているうちは攻められない』と、常に意識を前に向けてプレーしていました」

 母親との予期せぬ別れに直面したのは大学2年生の時。週末の公式戦に向けた準備をしていた最中に、母親の妹である叔母から「お母さんが脳梗塞で倒れて意識がない」と連絡を受けた。

「木曜日に連絡を受けてすぐに熊本に帰ったら、ICUに入っていたとはいえ、到着した時には意識があって。顔を見るなり『なんで、帰ってきたと! 明後日試合でしょが! 大丈夫だけん、もう帰りなさい』と怒られた。いきなり言われたから僕も面食らって『いや、倒れたって聞いたから帰ってきたんやん!』と言い返し、仕方なく鹿児島に戻ったら、その道中にまた意識がなくなったと連絡が来て…。監督は試合を休めと言ってくれたんですけど『お母さんなら絶対に休むなって言うと思うから』と週末の試合に出場して熊本に帰ったら、結局最期まで意識は戻らず、怒られたのが最後の会話になってしまった。思えば、子供の頃からどんな時も僕を愛情深く、でも厳しく育ててくれたお母さんで…母子家庭であることを気にしていたのか、僕を正しい道に進ませようと決して甘い顔を見せなかったし、何なら、試合中、僕がラフプレーで倒されても『早く立て〜!』って怒るくらいの人でしたから。ある意味、お母さんらしいな、と。でも、お葬式の時には高校のチームメイトの親御さんから『お母さんが一番頑張って、サポートしてくれてたよ』『英雄くんの話をする時はいつも嬉しそうだった』と聞かされて…僕のことをどれだけ応援してくれていたのかを知り、そうして全力で僕を育て、支えてくれたお母さんの思いに応えるためにも、僕は自分を信じて何事にも100%で向き合っていこうと心に決めた。それは自分のサッカー人生を支えてくれる芯になりました」

 実際、母の死をきっかけに一時は大学中退も考えながら、彼は母方の祖父母や叔父、叔母に支えられて少しずつ悲しみを乗り越えていく。その証拠に、サッカーでも少しずつ輝きを取り戻すと大学3、4年生では九州大学選抜にも選出。大学4年生時には九州大学サッカーリーグの得点王にも輝いた。

「お葬式からしばらくたって叔母と将来の話になった時に、お母さんに約束していた通り『プロサッカー選手になりたい』と伝えたら、なれるわけがないでしょ、と。でもそこでハッキリと言ってくれたことで、そんな甘い世界ではないということを自覚してもっと努力しなくちゃいけないと思ったし、100人中99人が無理だと言っても、自分だけは自分のことを信じると決めて『絶対にプロになってやる』と覚悟を決めた」

J1リーグでは196試合出場10得点。J2リーグでは94試合8得点を刻んだ。写真提供/Hiroyuki SETSUDA
J1リーグでは196試合出場10得点。J2リーグでは94試合8得点を刻んだ。写真提供/Hiroyuki SETSUDA

■「ヴィッセルに恩返しをしたかった」。たくさんの出会いに刺激を受けた13年間。

 プロを実現したのは05年だ。サガン鳥栖に契約の意向を伝えられながら直前に破談になり、傷心のまま鹿児島に引き返していた道中、大学の先輩でもあり当時のヴィッセル神戸の強化部長だった前田浩二氏から連絡を受けた。

「3日後に、サガン鳥栖とプレシーズンマッチを戦う。練習生として出場しないか? そこでお前のプレーを見てみたい」

 その言葉を聞いて、少しでもチャンスがあるのならと、すぐさまチームに合流した田中は、若手を中心に臨んだプレシーズンマッチにフル出場。そこでのプレーが評価され練習生としての契約ながら加入を決める。「根拠はないけど自信だけはあった」と振り返った。

「ヴィッセルは自分をプロにしてくれた、思い入れの強い特別なクラブ。思い返せば、いろんな思い出があるけど、この13年間で一番大きかったのは人との出会いでした。プロ2年目を迎えるにあたりキャンプで同部屋になったアツさん(三浦淳寛)のストイックな姿に刺激を受けたことに始まって、いろんなシーンで本当のプロフェッショナルとはどういうことかを身をもって教えてくれたこと。J2リーグを戦った2年目に、バクスター監督に出会い、サッカー選手として当たり前のことを当たり前にやる大切さを学んだこと。一度『飾りだけのサッカーをするな』と怒られたことがあったんですけど、そんな風にプロとしてのあり方みたいなものを最初の2年で偉大な先輩や監督から学べたのは、すごく大きかった」

「また、07年から12年まで共に戦った親友でもある大久保嘉人にも…ここにボールを出せ、(出す)タイミングが悪い、そこでは(ボールを)溜めろと何度も怒られ、喧嘩にもなったけど(笑)、それによって成長できた部分もたくさんあった。一番長く一緒にプレーしたクニさん(北本久仁衛/現ヴィッセル神戸コーチ)にはボランチとセンターバックという近い距離でプレーする中で、ピッチで感じる心強さもさることながらサッカーに対する姿勢、その人間性に触れてたくさんの刺激をもらった。それ以外にもツネさん(宮本恒靖)やルーカス(ポドルスキ)ら、その時々で出会ったたくさんのチームメイトに学び、刺激を受けた。ルーカスには、加入してすぐの試合前夜に僕らがサラダを食べているのを見て『お前ら、なんで試合の前日にサラダなんか食っているんだ。肉を食え』と言われて…。栄養を吸収しやすくするためのサラダなんだけどなと思いつつ、でも、世界一になったナンバー10に言われると『なるほどな』って思っちゃうんですよね(笑)。ヴィッセルは毎年のように、そういうスペシャルな選手が集まるチームだったので、自分のサッカー観になかったことをたくさん学ばせてもらいました」

17年7月のポドルスキのJデビュー戦では二人揃ってゴールを決めた。写真提供/Hiroyuki SETSUDA
17年7月のポドルスキのJデビュー戦では二人揃ってゴールを決めた。写真提供/Hiroyuki SETSUDA

 また30歳を過ぎて出会ったネルシーニョ監督(現柏レイソル監督)にも「選手寿命を延ばしてくれた人」だと感謝を口にする。

「ネルシーニョ監督は『毒を以て毒を制する』タイプの監督で…。自分のスタイルとは真逆の、リアクションのサッカーを好む監督だったけど、ネルさんに出会えたからこそ、それまでの自分のサッカー哲学みたいなものを一度ぶっ壊せたし、ネルさんの哲学を織り交ぜることでプレーの幅を広げられた。12年に約半年間一緒に仕事をさせてもらった西野朗監督もそうですけど、何があっても決してブレないサッカー観、懐の深さはサッカー選手としてだけではなく、一人の男として学ぶことも多かった。32歳という年齢でネルさんのサッカーに出会えたからヴィッセルを離れた18年以降もキャリアを続けられられたんだと思う」

 ヴィッセルの在籍年数は実に13シーズン(注:14年は半年間京都サンガF.C.に期限付き移籍)。そのキャリアの途中には幾度か他クラブからオファーを受けながらも「このクラブに何としても恩返しをしたい」という一心で思いとどまり続けた。

「自分を信じて獲得してくれた、僕の可能性に賭けてくれたヴィッセルへの一番の恩返しはタイトルを獲得すること。つまり目に見えた結果を残すまではこのチームを離れられないと思いながらシーズンを重ね、気がつけば13年が経っていた。実は一度だけ、日本代表候補の大枠に入ったことがあり、それに選ばれたら恩返しの1つになるかなと思ったんですけど最終的にはメンバーに選ばれなかったですしね。結果的に何も残せずに退団することになったのは心残りでしたけど、そこから時が過ぎ、アツさんがスポーツダイレクターに就任された中で、20年元日に天皇杯で優勝した時は、本当に嬉しかった」

■Jリーグを離れてプレーする中で考えた「本当のプロサッカー選手とは」。

 17年を最後にヴィッセルを離れてからはJFLに所属していたテゲバジャーロ宮崎、J2リーグのカマタマーレ讃岐を渡り歩いた。以前、テゲバジャーロでプレーする彼を取材するべく、宮崎に足を運んだことがあったが、ヴィッセル時代とは大きく異なる環境にも「これも新鮮で楽しい」と話していたのが印象に残っている。

「決められた練習場がないとか、日によって仕事で練習に参加できない選手がいるとか。クラブハウスがないから自分の車の中がロッカールーム状態になっているとか。いろんなことに直面しても、気持ちとしては『そうなんだな』って程度。むしろ、初めての経験、いろんな人との出会いが新鮮で楽しかったりもします。それに、こうした環境でもサポートしてくれる人がいて、応援してくれる人がいることに感謝しかない。今はとにかくこのクラブのJ3リーグ昇格のために自分の全てを注ぎたい」

FCティアモでの1、2年目はキャプテンとしてチームを牽引した。 写真提供/FC TIAMO
FCティアモでの1、2年目はキャプテンとしてチームを牽引した。 写真提供/FC TIAMO

 19年からは当時、関西サッカーリーグ1部に所属していたFCティアモに移籍。プロキャリアでは初めて仕事をしながらボールを蹴った。その中では20年に元チームメイトの野沢拓也や二川孝広ら、かつてはJリーグで鎬を削った仲間とJFL昇格を実現。それも特別な喜びとして記憶に刻まれているという。

「ヴィッセルから離れるとなった時点で、まだまだ体が動ける、やれる、という感覚が強かったのでサッカーを続けてきて、18年以降はほとんどの時間をJリーグ以外の舞台で過ごしましたけど、そうした環境でプレーする中で、自分の『プロ』という定義が形を変えていったというか。綺麗な芝生で、たくさんのお客さんに観てもらってプレーするのがプロなのか。はたまた、心からサッカーを愛して、どんな環境でもサッカーに打ち込む姿を魅せるのがプロなのか。僕の中ではキャリアを進めるうちに後者が本当のプロなんじゃないかと考えるようになった。環境は違えど、いろんな人に支えてもらってチームとしての活動が成立し、応援してもらってプレーするのはどのステージでも同じ。加えて、ティアモでは高校サッカーでのコーチ業や、メディアに関わる仕事にも携わらせてもらいましたが、その仕事を通してもいろんな人に出会えて、学んで、一人の人間として成長を実感することもたくさんあった」

 もっとも、昨年は5月に右膝の前十字靭帯断裂という大ケガを負っただけではなく、手術した箇所から感染症を患い、長きにわたって苦しめられた。それが発覚したのは、術後、リハビリを経て退院した7月13日。高熱が下がらず当初は新型コロナウイルスの感染も疑ったが、結果的には手術した箇所から発症した感染症と診断され、田中は再び緊急入院となる。それを受け、膝の患部を開いて洗浄手術を行なったものの菌を追い出し切れず、そこから更に体内に残った菌を絶滅させるため2週間、ベッドの上での治療が続けられた。

「洗浄手術の際に採取した組織から菌が出てしまい、絶滅していない、と。それを受け、ドクターとも話し合って、右膝に5ヶ所穴を開けて、24時間態勢でダイレクトに抗生物質を入れるための手術を行いました。術後2週間、ベッドから降りられるのは1日15分、トイレに行く時だけという状況で、穴を開けた膝に突き刺した管から抗生物質を入れ続ける毎日は、さすがにサッカーをするしない以前に、普通に歩けるようになるのか不安で怖かったし、人生で一番苦しい時間を過ごしました」

 結果的に2度目の手術で菌は絶滅したものの、長期にわたるベッドの上での生活は修復手術を終えていた右膝の受傷箇所を固めてしまうことに。結果、膝が全くと言っていいほど曲がらなくなってしまったため、田中は10月14日に再び右膝を曲げるための授動術を行う。晴れて10月30日に退院した時には、最初の手術から約5ヶ月が過ぎていた。

「正直、右膝の靭帯を痛めた時点で『いよいよ、もう辞めなきゃいけないのかな』って本気で考えました。でも…最初の手術で入院する直前に、僕をティアモに誘ってくれたクラブオーナーのイバさん(新井場徹)に呼ばれて。『サッカーを辞めるなら、ピッチに復帰してからや。お前が復帰に向かう姿をチームメイトや子供に見せてやれ。そのためにきっちり手術で治してこい』と、言ってもらって涙が出るほど嬉しかったし、その上、翌シーズンの契約書を提示されて『ここに、サインをしてから安心して手術を頑張ってこい』と言ってもらった。正直、全く想像もしていなかったから驚いたのと同時に、ともすれば僕以上に、僕の復帰を信じてくれていたイバさんの気持ちが本当にありがたかった。あとは、息子ですね。その年末、息子とボールを蹴った際に、ふと冗談半分で『パパ、サッカーやめるかも』と漏らしたら、あっさり『え〜やめないで! まだ続けてよ!』と言われたこともあって、とにかくピッチに戻ることだけを考えてリハビリと向き合いました」

 そうして田中は4度の手術を乗り越え、今年の3月に部分合流。さらに5月17日には全体合流を果たす。時間はかかったが、1年ぶりに仲間とボールを蹴れる幸せを噛み締めた。

■引退の決断。嬉しかった長年のファンから届いたメッセージ。

 では、なぜ引退を決めたのか。ピッチに戻り公式戦への復帰を目指していく中で、ケガをする前のパフォーマンス、コンディションに戻らなかったことが一番大きな理由だという。

「自分の性格的に、100%でやれない悔しさ、もどかしさだとか、頭で描くイメージとプレーが伴わないギャップを感じる中で、サッカーを続けるのがしんどくなってしまったのと、何よりそんな状態でサッカーを続けることを、自分自身が許せなかった」

 これまで所属チームを変えるときは、サッカーが好きだという気持ちと、もっとサッカーをやりたい、という気持ちに背中を押されてきたが、今シーズンはサッカーが大好きだからこそ、引退を決めた。自分らしく、自分のサッカーを貫くために。

「18年のプロキャリアを振り返ると、嬉しかった記憶より悔しかった記憶の方が多いです。でも、その悔しさをその都度、自分の肥やしにして成長してこれたというか。悔しさを嬉しさにまでは昇華できなかったけど、きちんと自分の経験にして、力に変えてくることができた。また、どんな状況に置かれても『自分を信じる』ということも最後まで貫けたことの1つでした。お母さんが亡くなった時も、試合に負けた時も、試合に出られない時も、常に自分を信じて走り続けてこれたし、普段の練習から、全てをサッカーに注いで戦ってくることができた。だからこそ、それができなくなったなら引退だなと。と言っても、寂しくはないですよ。サッカー選手を続けられるなら続けたいし、サッカーを諦めなきゃいけないことは今も悔しいけど…自分のTwitterにも書いた通り『引退もアスリートという儚い生き物の美しさ』だと思うから。これは漫画『鬼滅の刃』の台詞にあった『老いることも死ぬことも、人間という儚い生き物の美しさだ』から引用したんですけど(笑)。人は、生まれた時からいつか死ぬことは決まっていて、だから1日1日を大事にするし1つの出会いを大切だと思える。それと同じで僕も、サッカーを始めた時から同時に引退を考え、いつか終わりが来ることをわかっていたから、毎日を全力で1分1秒を無駄なく戦ってこれた。そう思えるから引退に暗いイメージはありません。むしろ、ここまで全力で戦い抜けたことに自信を持ってまた次の人生に進みたい」

 そんな彼の元には引退を発表した日から、かつてのチームメイトや仲間、ファン・サポーターから多くのLINEやメッセージが届いていると聞く。

「自分としては今更、反応もないだろうと思っていたら、本当にいろんな人からメッセージをもらって引退を実感しています」

 中でも嬉しかったのは、ヴィッセル時代、ホームゲームのたびにスタンドで田中のゲーフラを掲げ、応援してくれていた小学生サポーターが、時を経て高校生になり、メッセージを届けてくれたことだ。『初めてのサッカー観戦でピッチを駆け回るヒデ選手を見てファンになりました。ヴィッセルから移籍してしまってからも、情報を追って陰ながら応援させていただいていました』で始まるメッセージは、『ヒデ選手のようなプレーがしたいという憧れと人間性への尊敬から背番号を17番にしました』という報告と『これからもファンでいます! 本当にお疲れさまでした。ありがとうございました』という感謝の言葉で締め括られていた。

「いつもスタンドの最前列で一生懸命、僕のゲーフラを掲げてくれていたので印象に残っていたのですが、そんな彼が今では高校生になり、僕と同じ『17』をつけてサッカーをしていると。実は、感染症で入院している際にも一度、彼からお見舞いの言葉とともに『ヒデ選手の無尽蔵のスタミナや味方を活かすパスなど自分もできるように日々練習しています』といったメッセージをもらったんですが、その時もすごく感慨深かったというか。彼もいろんな人との出会いの中で、そんな素敵なメッセージを送れる男に育ったのだと思いますが、僕もそのうちの一人として役に立てたのならプロサッカー選手としてこんなに嬉しいことはない。僕たち選手は、夢や希望を与える側の立場だと思われがちですけど、僕は決してそうじゃないと思っていて。そのメッセージをもらった時にも改めて感じたけど、僕はこれまで応援してくれる人、支えてくれる人、出会った人たちに、本当にたくさんのパワーをもらってきたからサッカーを続けてくることができた。そのことに感謝しかないです」

■嬉しかったカズとのピッチでの再会。セカンドキャリアも「自分らしく進む」。

 そしてもう一つ。田中の復帰戦となった10月30日のJFL27節・鈴鹿ポイントゲッターズ戦で、彼がサッカーを始めるきっかけになった人、カズと対戦できたことも嬉しかったことだと笑う。80分からピッチに立った彼は、同じく途中出場のカズとアディショナルタイムを含めて約15分間、向き合った。

「鈴鹿にはカズさんだけではなく、僕がヴィッセルに加入した際のGMだったヤスさん(三浦泰年)も監督をされていて…。自分としては本当に嬉しい対戦でした。試合後、カズさんに引退報告をしたら『ヒデはいくつになったの?』と聞かれて40歳ですと答えたら『俺が40歳の時は、横浜FCでJ1リーグに30試合近く出たぞ』と言われて、やっぱり敵わないなと(笑)。この日もカズさんにゴールを決められちゃったし、勝手ながらカズさんは還暦まで現役が出来そうだなと想像して嬉しくなっちゃいました」

復帰戦となった鈴鹿ポイントゲッターズ戦ではカズと再会を果たした。写真提供/FC TIAMO
復帰戦となった鈴鹿ポイントゲッターズ戦ではカズと再会を果たした。写真提供/FC TIAMO

 そう言って笑う表情に少年時代の田中を想起したが、後に続いた「でも僕は思い通りにはプレーできなかったな」という言葉に、現実に引き戻される。やはり『引退』なのだ。

 だが、先の彼の言葉にもある通り、そこにネガティブな感情はない。実際、セカンドキャリアに対しても、自分の進むべき道を思案している最中とはいえ「ワクワクしかない」という。

「サッカーに関わって仕事をしていこうという考えは固まったけど、具体的なことは何も決まっていません。ただ、今年7月に現役時代、スパイク契約をしていただいていたアシックスの低酸素環境下トレーニング施設、ASICS Sports Complex OSAKA SUITA(https://sports-complex.asics.com/osaka-suita/)の『クロッシングサポートパートナー』に就任したので。そこでパーソナルトレーニングを行ったり、アシックスの認知を広める活動はすでに始めています。そうやってこれまでの縁も大切にしながら、自分ができること、やりたいことを見つけて、選手時代と同様に一人の人間として成長を続けること。その中で自分らしいセカンドキャリアを進んでいきたいと思っています」

 果たして、そんな彼に亡き母はどんな言葉を掛けてくれるだろうか。「まだ最後の試合があるから、墓前には報告していない」と前置きしたあと、少し思いを巡らせて「お疲れさまとは絶対に言わないな」と笑った。

「倒れるまでやりなさい。もっと頑張れるでしょ、と。最期も『なんで帰ってきたと!』と怒られたように今回も怒られそう(笑)。でも、そんなお母さんの顔が想像できるから、ここまで何があっても頑張ってこれた」

 ラストマッチは11月20日にホーム・たまゆら陸上競技場(枚方市立陸上競技場)で戦うJFL最終節・ホンダロック戦(13:00キックオフ)だ。

「ヴィッセルを離れるときに、引退するわけじゃないからと、応援してくれた人たちに挨拶せずに退団してしまったので。それがずっと心の奥底で引っ掛かっていたから、最後の試合ではこれまでお世話になった人、応援してくれた人、全ての方に感謝の思いを込めてプレーしたい。もし時間があるなら、最後、スタジアムで皆さんに会えたら嬉しいです」

 たくさんの出会いに、ありったけの感謝を込めて。田中英雄は自分を信じ、闘い尽くした選手人生に、別れを告げる。

フリーランス・スポーツライター

雑誌社勤務を経て、98年よりフリーライターに。現在は、関西サッカー界を中心に活動する。ガンバ大阪やヴィッセル神戸の取材がメイン。著書『ガンバ大阪30年のものがたり』。

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