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DF高木和道が18年間のプロ生活に終止符。 今年から古巣・ガンバ大阪の強化に力を注ぐ。

高村美砂フリーランス・スポーツライター
18年11月11日のホーム最終戦には家族や仲間が多数駆けつけた。(撮影は筆者)

 2000年6月。京都産業大学2年生の時に、プロの世界に飛び込んだ。以来、特に大きな目標を描くわけでもなく、ただ淡々と目の前の試合に出場し、勝利することだけを考えてキャリアを積み上げてきた。

 振り返れば、清水エスパルス時代にはキャプテンを担うなどしながら日本代表にも選出され、キャリアの晩年には海外移籍も実現したが「運が良かっただけで、自分ではずっと大した選手じゃないと思っていた」と高木。唯一誇れることがあるとすれば「自分の直感通り、素直にいろんな選択をしてきたこと」だと笑う。もちろん、選手にとって一番難しいはずの『引退』という決断も、だ。

 だが、裏を返せば、そうしてまっすぐに自分の気持ちに向き合ってこれたから、彼は一切の悔いを残さずにピッチを去ったとも言える。

「僕、サッカーがめっちゃ好きやのに、あっさり引退を決められたし、引退した今も全くボールを蹴りたいと思わないんです(笑)。それは、多分自分の中でやり残したことがないから。この18年、『これ以上はない』と思えるくらいの経験をさせてもらって『サッカーってやっぱり楽しいな!』って気持ちのまま、引退できる。ほんまに出来すぎた現役生活でした」

 プロサッカー選手としてのキャリアは、思わぬ形でスタートした。京都産業大学2年生だった00年2月に清水エスパルスの石垣島キャンプに参加したのがきっかけだ。

「高校時代から『プロになりたいな』とは思っていたけど、あくまで漠然とした夢で、現実は『どこでもいいから、サッカーで大学に行けたらいいな』くらいに思っていました。その目標通りに早めに京都産業大学への進学が決まってからも『4年間サッカーをして、大学が終われば働こう』と思っていましたしね。夢や野望は微塵もなかった (笑)。でも、清水のキャンプでモリさん(森岡隆三)、斉藤俊秀さん、戸田和幸さんをはじめ、アレックスやノボリさん(澤登正一朗)ら、すごい選手を目の当たりにして…その清水から話をもらったので、行きますと。自分が試合に出られるのかなんて全く考えずに『あの人たちからもっと刺激を受けたい』という一心での決断でした」

 実際、00年6月に清水の一員になってからの毎日は、刺激に満ちていた。結果的にその年は1試合も公式戦のピッチに立てず、2年目も状況はほぼ変わらなかったが、ピッチでは日本代表クラスの選手が顔を揃える守備陣に鍛えられ、ピッチ外でも彼らの考え方にたくさんの感銘を受けた。

「当時の清水には経験豊富な年上の選手が多く、本当にいろんなことを教わりました。中でもモリさんにはよくご飯に連れて行ってもらったし、家にも呼んでもらうなど可愛がってもらいました。そういった先輩方からプロとしての心構えを学び、のちに自分のプレーのベースになっていく足元の『技術』を鍛えられたことはかけがえのない経験でした」

 そんな高木が公式戦に絡むようになったのは、コーチを務めていた大木武氏が清水の監督に就任した03年頃から。センターバックには不動の存在がいたため、左サイドバックを預かることが多かったが、試合に出て課題に直面し自分を磨く、というルーティンがいかに成長速度を速めるかを実感したからだろう。翌年、アントニーニョ監督が就任し、再び出場機会を失っていく中で、彼は初めて『期限付き移籍』を決断する。結果的に短い時間に終わったものの、ヴィッセル神戸で過ごした05年夏からの半年間は『分岐点』になった。

「プロになって初めてコンスタントに先発出場した経験は、自分の中で培ってきたものを公式戦の中で確認するという意味でも、純粋に試合経験を積み上げる意味でもすごく大きかったと思います。ここでの半年があったおかげで後に清水でもレギュラーの座を掴めたし、日本代表にも繋がった。ただ、神戸から慰留していただきながら半年後に再び清水に戻ったのは、お世話になった清水に何の恩返しもせずに出てきてしまったという思いがあったから。神戸で掴んだ自信をもってすれば、清水でもレギュラーの座を掴める、絶対に力になれるという根拠のない自信もありました」

 05年に清水に復帰してからのキャリアは改めて説明するまでもないだろう。揺らぎのない自信も背中を押したのか、長谷川健太監督のもとでレギュラーの座を掴むと、時間の経過とともに心身両面でチームの支柱となり、06、07年は副キャプテンに就任。08年にはプロになって初めてキャプテンを預かる。

 といっても全てが順風満帆だったわけではない。05年は残留争いに巻き込まれ、時に本職のポジションから外れてボランチを預かったことも。それでも、公式戦の中で新たに『タフさ』という武器を備えられたことはディフェンダーとしての成長にも繋がり、08年には初めて日本代表に選出。同8月のウルグアイ戦では国際Aマッチデビューを果たした。

「05年は陸上出身のフィジカルコーチ、杉本龍勇さんのもと『人生で、こんなにもしんどい思いをしたことがない』と言えるくらい走り込みました。キャンプなんて、1000メートル走を10本とか、600メートル、500メートル、400メートル走を100メートル15秒のペースで走るとか…まさに地獄でした。でも、そのおかげで夏場は全く負けなかったし、何より心が鍛えられました。根性論になりますけど、どれだけしんどいことをやったのかという経験は最後の最後で気持ちのよりどころになっていた…って思ったのは後からですけど(笑)。でも、この時期は本当にケガもなく、思いっきりサッカーができて、試合にも出れて…選手としてすごく伸びたという実感もありました。ただ、だからといって、日本代表といった高い目標を描くことは一切なかった気がします。どんなに試合に絡んでも、試合に出たい、勝ちたいということが僕の全てでした。それは多分、心のどこかで『自分はそれほどの選手ではない』と思っていたからかも。実際、日本代表に選ばれるようになってからも、自分の中ではモリさんを始めとする先輩方を『超えられた』と思った瞬間は一度もなかった。そういう存在に出会えたことも僕のキャリアに大きな影響を与えた出来事でした」

 

 結果的に復帰から4年間の時を過ごした08年までの時間をサッカー人生の『第1章』とするならば、ガンバ大阪への移籍を決断して以降、移籍を繰り返しながら過ごした引退までの時間は『第2章』というべき時間だ。日本代表にも選出され、サッカー選手として絶頂の時期にあった09年、高木はガンバ大阪への完全移籍を実現する。キャプテンを預かっていた清水から離れるという決断は簡単ではなく、恩師と慕う長谷川監督にも何度も相談したが、最後は自分で踏ん切りをつけた。

「この頃から僕の中で『タイトル』を獲りたい欲がどんどん大きくなって…清水は02年に天皇杯を征しましたが僕は全然、試合に絡めなかったですしね。だからこそ、自分が試合に絡みながら『タイトル』を掴むという経験をしてみたかった。もちろん、清水でもその可能性はありましたが、08年、ACLを制覇したガンバの姿は魅力的で、純粋にタイトルを獲れるチームとの差は何かを肌身で感じたいと思った」

 その思いのもとで09年にガンバの一員となった高木だが、正直、移籍当初は苦しんだ。攻撃サッカーを持ち味とするガンバと清水で経験していたサッカーは対照的で、清水での戦い方に慣れていた分だけプレーを変えるのに時間を要した。それでも『タイトル』を明確に目指し、山口智(現ガンバ大阪コーチ)ら、自分とは違うプレースタイルを持ったディフェンダーの存在から学ぶことも多く、それまでになかったサッカー感を体感する日々は新鮮だった。

「結果的に、目標としていたタイトルは09年の天皇杯1度きりで、しかも準決勝でイエローカードをもらったことで決勝は出場停止というオチでしたが(笑)、予選からコンスタントに試合に絡み、タイトルにたどり着けたのはすごく嬉しかった。ただ、ガンバの3年目あたりから加齢によるものか、ケガが増えてしまって。それに伴い、それまでにはないくらいコンディションに気をつけるようになったものの、しばらくはコンディション悪の状態から抜け出せないままサッカーをしていました」

 事実、ヴィッセル神戸に移籍した12年も、13年に大分トリニータに移籍してからもケガに悩まされ、思うように試合に絡めない毎日を過ごした。それでも「起きてしまったことを悔やんでも仕方がない」という考えから、不思議とその状況に落ち込むことはなかった。

「清水時代のチームメイトだった真田雅則さん(*11年9月逝去)に言われたんです。『自分の人生を決めるのは自分。後悔するより前を向け』と。その言葉がいつも心にあったから、ガンバで試合に出られなかった時も、ケガをした時も、『起きてしまったことは、しゃあない!』と前を向けたのかな、と。いや…『しゃあない』と言い切れるくらい、その時々でやれることをやり切ってきたから、割り切れたんだと思う」

 『ケガ』という長いトンネルを抜け出せたのは、大分での2年目、14年頃からだ。それもあって高木はこの年、J2リーグ42試合のうち40試合に先発出場を果たす。だが、皮肉にも、そのシーズンで大分を契約満了になると、以降は15年はFC岐阜、16年はジュビロ磐田と単年でチームを変えながらキャリアを重ねていく。

 そうした状況下で15年頃からシーズンを終えるたびに繰り返し可能性を探っていた『海外移籍』を実現したのが17年だ。行き先はタイ。2部のエアフォース・ユナイテッドFCだった。

「その頃から常に、いつ契約が終わってもおかしくない状態でサッカーをしていたとはいえ、当時はまだ引退は考えられなくて。最初に大分で契約満了を告げられた時も、すぐに『カテゴリーを落としてでもサッカーをしよう』と思っていました。ただ、キャリアの終盤を送っている自覚もあった中で、磐田での1年目が終わったあとに…契約はもう1年残っていたんですけど、『海外』に行くなら最後のチャンスかもしれないな、と。それもあって磐田には自分の気持ちを伝えて翌年の契約を解消してもらいました。その上で海外でのプレーを模索していたら、ハットさん(服部年宏/磐田GM)や名波浩さん(磐田監督)が連絡をくださって。『磐田の親会社であるヤマハさんがタイの2部リーグのスポンサーをしている関係で、タイのサッカー関係者が練習場の視察にくるから会いにきたらどうだ?』と誘ってくれた。で、実際に挨拶に出向いたら、そこからトントン拍子に話が進み、エアフォースと契約できることになった。そう考えてもハットさん、名波さんをはじめとする磐田の関係者には感謝しかないというか…磐田の契約を断った僕に、同じサッカー人として最後まで寄り添っていただいて、本当に感謝しています」

 高木が『海外』を目指したいと考えるようになったのは、プロになり、海外遠征をする機会が増えた中で、違う文化や環境に触れることによる刺激の大きさを実感してきたからだ。また「言葉の通じない場所で自分が何を感じ、どう行動ができるのかを確めたかった」からでもある。実際、タイの文化や現地での生活はあまりに日本でのそれとかけ離れ、当初は驚きの連続だったが、その事実を素直に受け入れ、楽しめるようになってからは、言葉では言い表せないほど充実した毎日を送れるようになったそうだ。それはプレーにも表れ、リーグ戦では開幕から先発出場を果たすと、以降もフル出場でピッチに立ち続ける。結果、クラブの最大の目標だったタイ・リーグ1部への昇格を実現し、高木自身も翌年の契約延長を掴み取った。

「英語はあまり得意じゃなかったので、最初は思いが伝わらないことも多かったですが、むしろその状況をすごく楽しめたし、その中で日本でプレーする外国籍選手の気持ちがわかるようになったのも収穫でした。それに、言葉って通じなくても自分が心さえ開けばなんとかなるものですから。この『なんとかなる』という考えは、自分の人生にも言えることかもしれません。いつ、何が起きるか分からない世の中だけど、人生は必ず前にしか進まない。つまり、なんとかなる。そう考えれば、どんなことも乗り越えられる気がしています」

 

 ところが、タイでの1年目のシーズンを終えて、帰国の準備をしていた矢先、高木は思いもしない出来事に見舞われる。妻の身に起きた異変だ。実はシーズン中の8月にも悪性リンパ腫の中でも稀な血液の癌が見つかり、抗がん剤治療を受けていたが、12月のPET検査で再発が判明。高木を取り巻く状況は一変した。

「1度目の抗がん剤治療の後、ドクターから『タイに戻ってもいい』と言われるくらい回復していただけに、再発は予想外の出来事でした。しかも再発による抗がん剤治療は、前回とは比べ物にならないくらい長くて辛いと聞かされていましたから。それを踏まえて今後の生活をどうするかを考え…例えば、嫁と2人の子供を日本に返して僕だけがタイで頑張ることも考えたけど、嫁が入院している間の子供たちの生活をどうするのかとか、嫁だけを返してタイで3人で生活するにしても、タイの練習は基本的に夜ですからね。その間、子供たちだけで留守番させられるのか、とか、僕が遠征中のことを考えると現実的ではないな、と。実際、最初に癌が発覚した時は、僕と子供の3人でタイでの生活を続けましたが、嫁がいないタイでの生活はどう考えても無理がありましたからね。それに…何よりも辛い闘病生活を想像すれば、彼女ひとりを日本に戻すことはできないな、と。それで最終的にはエアフォースに事情を説明して契約解除を申し入れ、帰国を決めました」

 日本への帰国を決断するにあたっては、『引退』も考えないではなかった。それもあって、Jクラブを始めとする方々に就職口がないかを打診したりもしたが、一方でタイでのシーズンをフルで戦い抜き、コンディション的にも、プレーにも自信があったからだろう。また「このまま引退したら、嫁は自分のせいだと責任を感じるんじゃないか」という思いから、高木は現役続行の意思を固める。その場所に選んだのが、唯一、正式なオファーを受けた、地元・滋賀を拠点にJFLで戦うMIOびわこ滋賀だった。

「ステージを下げることにはなりましたが、MIOなら僕の実家も近く、子供たちとの生活もより安心して送ることができる。それに現役選手にとって地元に戻ってプレーできるのはすごく幸せなこと。環境などは当然Jクラブより劣りますが、ピッチに立ってプレーする選手のサッカーに対する情熱には温度差もない。それに急な帰国となった僕に真っ先に声を掛けてくれたクラブの気持ちに応えたいとも思った」

 MIOびわこ滋賀に加入してからの生活は、それまでとは一変した。高木自身はプロ契約選手ではあったものの、チームを取り巻く環境は過去に在籍したどのクラブよりも厳しく、コンディションの管理や体のケアなどにおいてもこれまで以上に自分で管理する必要にも迫られた。それでも「プレーする楽しさは変わらなかった」と高木。その中では練習の合間を縫って母校の草津東高校に指導に赴くなどの新たなチャレンジもしながら、結果的にほとんどの試合で先発出場を果たし、チームをJFLではクラブ史上最高位(年間7位)に導く。その姿は、中口雅史監督も舌を巻くほどで、だからこそ今シーズン限りで現役引退を決断した彼の退団を惜しんだ。

「うちのチームは、どちらかというと泥まみれになってプレーしてきた選手ばかりですからね。プロとして日本代表にまでなった和道が浮いてしまわないか、正直、最初は心配しました。でも実際に加入したら彼の素晴らしい人間性もあってでしょう。和道がうまく若い選手の目線に降りてきてくれたことで、彼の周りには自然に仲間が集まってチームが一つになれたし、それがピッチでもいい効果として見られました。彼自身のプレーやプロフェッショナリズムに刺激を受けた選手も多かったと思います。それだけに、もう少しこのチームで頑張ってもらいたかったというのが僕の本音ですが、彼にも人生があるので。今は彼の決断を心から応援しています(中口氏)」

 といっても、MIOびわこ滋賀でのプレーは最初から1年と決めていたわけでは決してない。「体が動き、メンタル的に向上心を持ってサッカーに向き合える限りは、できるだけ長く現役を続けたいと思っていた」のが本音だ。だが、シーズンの終盤に受けたガンバ大阪の松波正信強化・アカデミー部長兼アカデミーダイレクターからのオファーに心が動いた。

「ガンバのために、和道の力を貸して欲しい」

 11年にガンバを離れてからも常に、その動向を気にしていた古巣からの誘いは素直に嬉しく、その思いに応えたいという気持ちが彼を現役引退へと向かわせた。

「地元の滋賀で、地元の仲間に応援してもらいながら、チームメイトと目標を目指した時間はすごく充実していました。ただ、松波さんからオファーを頂いて、迷うことはなかったです。そのくらい古巣からの誘いは魅力的だったし、念願の海外移籍を経験し、最後は地元でプレーできたこともきっぱり決断できた理由だと思います。そう考えても18年間、出会いに恵まれ、いろんな人に支えられて、自分の持っている力を出し切って、やり切ったと思える、本当に悔いのない現役生活でした。そう言い切れる『幸せ』を支えてくれたたくさんの人、仲間、家族に心から感謝しています」

 古巣のガンバでは来年1月から強化・アカデミー部に配属され、トップチームの強化に関わる仕事を任されることが決まっている。高木にとって清水の次に在籍年数の長いガンバは「サッカー感にたくさんの刺激を与えてくれたチーム」。今では同時期にガンバでプレーした元チームメイトもスタッフとして数多く在籍しており、立場は変われど、そんな彼らと再び、志を共にする『真剣勝負』を楽しみにしているそうだ。

「引退した選手の誰もがJクラブでの仕事に携われるわけではない中で、ガンバというビッグクラブで、日本のトップレベルの戦いに関われるのがすごく嬉しいし、責任も感じています。元チームメイトである仲間も、今ではスタッフとして在籍していて、その彼らとまた違う形で仕事をできるのも楽しみだし、僕自身もこれまで経験してきたことを生かしたいという思いはありますが、新たなキャリアでは間違いなく僕は新人なので。これまで通り、人との出会いを大切にしつつ、周りからいろんなことを吸収しまくって、ガンバのために自分らしく仕事をしていきたいと思います」

 現役時代と同様に自分の心にまっすぐに次なる一歩を踏み出す決断をし、『第3章』の扉を開けた高木。今はまだその先にどんな道が続いているのかはわからない。だが、自分の足で一歩一歩、歩みを進めながら切り拓く道は、きっとまた彼らしい輝きを放つに違いない。

フリーランス・スポーツライター

雑誌社勤務を経て、98年よりフリーライターに。現在は、関西サッカー界を中心に活動する。ガンバ大阪やヴィッセル神戸の取材がメイン。著書『ガンバ大阪30年のものがたり』。

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