ギャンブル依存症の怖さ
筆者は競馬の世界に30数年、身を置いてきた。
この世界に入るまでのあいだ、競馬サークルと呼ばれる競走馬を出走させる側の組織に居場所を保つまでは、一般的な競馬との接点である"馬券"が好きな人たちやそれにまつわるマスコミの世界の人々の中にいた。
競馬をつくる側の人々は馬券はご法度だが、競馬に携わりたいという方々は馬券が好きな人が多い。そして、その中には賭け事に中毒的にハマっている人もいる。
筆者はそんな職業柄、一般的な生活をしている方々よりもいわゆる"ギャンブル中毒者"を多くみてきたと感じる。故に、あくまでも一般論、というか自らの体験談としてギャンブルに中毒的にはまっていった人々の様子を記しておく。
ギャンブル中毒になる人でも、実に性格のいい人もいた。カリスマ性がある人気者もいた。そんな彼らに共通して、お腹が空いたときに食事をしたくなるのと同じように、ギャンブルを本能的に求めていた。
空腹はなんらかの食事を摂れば一旦治まるし、時に時間でごまかして一時的に空腹を忘れることもできる。
ギャンブル中毒も基本的にその欲求と同じだ。
ただし、その欲求が最終的におさまるには勝利、つまりギャンブルで勝つことが必須要件だ。しかし、それまでの要する過程、つまり賭けの回数は未知数だし、自らの戦略に対してのリターンが大きければ大きいほど興奮を覚える人もいる。
ギャンブル中毒にならない人は賭ける前に賭け事そのものにリスクを感じてしまう。戦略が成功したときのリターンが大きさより、ギャンブルという不安定なものへ大きな戦略を立てるリスクを感じる気持ちが勝ってしまう。
しかし、ギャンブル中毒と呼ばれる方々の多くはそれらのリスクにさえも"勝つ"ことに快感を感じるのだ。
しかし、厄介なのはギャンブルを行うには必ず種銭、つまり金が要る。そして、ギャンブルの快感は自らの勝利で解き放たれる。だから、種銭がなくなったとき、金を無心する。
かつて、ギャンブル中毒を自認する競馬の仕事仲間がいた。その人は誰でも知っている有名大学の出で、頭も良く仕事もできる上にユーモアもあり温厚で周囲の人にも好かれていた。筆者自身もその人を尊敬していた。
ある時、その人に「今度、自分が種銭がなくなっても金をギャンブルに使おうとしたときは止めてくれ」と言われたことがある。当時、筆者はギャンブル中毒者の実態をよくわかっていなかったこともあり、その言葉を真に受けた。そして、実際にその人が使ってはいけないお金をギャンブルにつぎ込もうとしたのを知ったとき、言われた言葉のとおり、必死に止めた。
しかし、筆者の考えは実に甘かった。その時、目の前にいた仕事仲間の眼は飢餓に溢れていた。温厚で頭のいい人柄なんて、これっぽっちもなく、ただギャンブルそ自分の欲求を満たすことしか頭になかったのだろう。
後先考えずに種銭をむしり取るだけに必死だった。その姿には理性の欠片もなく、罵詈雑言を浴びせる。そして、最後にはにっこり笑って言うのだ。
「次は勝つから、大丈夫」
怖かった。そして、空しかった。
それから、その仕事仲間とは距離ができた。やがて、その人は仲間うちからも姿を消した。この仲間は競馬が共通の話題なのだから、競馬というギャンブルから距離を取ったのだろうか。その答えを聞きたい気持ちよりも"もう、巻き込まれたくない"という気持ちのほうが強くて、その答えもその人の消息も未だに知らない。一回だけ、共通の恩人が亡くなった時に連絡を取ろうとしたが、かつての仲間は誰もその人消息を知らなかった。
ここに書いたのはほんの一例だ。ちゃんと身の丈にあった自制ができるようなギャンブルと程良く付き合える人々はあくまでもギャンブル愛好家であり、中毒者ではない。
ギャンブル中毒はギャンブルと離れた場所に身を置く以外、改善の方法がないのだと思う。そういった欲求がおさまる薬があればいいが…そういった薬が出来たとは聞いたことがない。それが、現実なのだ。