Yahoo!ニュース

「金メダル、金メダルと騒ぐ時代じゃない」伝説のアナウンサー、金子勝彦さんが語る"人に物を伝える責任"

杉山孝フリーランス・ライター/編集者/翻訳家
自宅には多くの思い出と貴重な資料がそろう(筆者撮影)

「サッカーを愛する皆さん、ごきげんいかがでしょうか?」

 一定の年齢以上のサッカーファンの心に、名調子がバリトンとともによみがえることだろう。半世紀以上にわたってアナウンサーとして活躍してきた金子勝彦さんの声は、8月に87歳を迎えるこの夏も、よく響く。

 東京12チャンネル(現テレビ東京)で1968年(昭和43年)に始まった「三菱ダイヤモンドサッカー」。プロリーグが誕生する遥か前の日本と、世界のサッカーとを結びつける唯一の扉だった。その伝説的な番組を20年にわたり、のちに日本サッカー協会会長となる岡野俊一郎さんとのコンビで送り続けたのが金子さんだった。

思い知った「アナウンサー」の重み

 もとは、新聞記者を志望していた。だが、受験者を絞る学内選考で落ちてしまったのち、目に留まったのが、大阪に本社を置く新日本放送(昭和33年から毎日放送に改称)のアナウンサー募集要項だった。

「(募集に)制限があるんですかと聞いたら、誰でもいいんですよ、というんです。不景気だから、東京の民放は募集なし。じゃあ、受けてみようかな、と」。岩戸景気に入る直前、日本が不景気に沈み込んだ昭和32年(1957年)のことだった。

 試験に臨み、アナウンサーになる重みを知ることになる。明治大学の校舎を借り切って行われた筆記試験に面接、アナウンス実地、大学病院での耳鼻咽喉検査…。学生が日々ふるい落とされていく厳しい1週間の末、7人の合格者の一員となった。

 厳しさは、入社後も続いた。「一音、一音節、動詞に至るまで、日本語というものは、ものすごく難しい。『音(ね)を上げる』と『木の根(ね)』、同じ『ね』でも全然違いますよね。でも、そういう区別ができない例も多々あるんです」。ボイストレーニングに、日付をまたぐこともあるラジオでのプロ野球放送、夕方出社で朝5時のニュース放送で締めくくられる週2回の宿泊勤務。「アナウンサーは『ニュースに始まりニュースに終わる』と言われます。初歩的な教養を、本当によく仕込まれました」と、濃密な時間を過ごしていった。

 30歳を前にして、大きな転機が訪れた。ひとつは、1964年(昭和39年)の東京オリンピック。大会前年には、バレーボールなどの実況担当が決定した。

 同じ年に、より大きな出来事があった。義弟の逝去だ。地元横浜での大規模な列車事故で、犠牲者の一人となってしまった。西ドイツ代表の選手をそらんじるほど熱烈なサッカーファンだった義弟は、幼馴染でもある金子さんにサッカーの実況を強く勧めていた。

「その“遺言”がすごく耳に残っていましてね。彼が僕のお膳立てを全部してくれたと思います。あれ以降、どんどんサッカーに向かって人生が進んでいきましたから」

多くの人との縁に沿って、サッカーとの人生を歩んできた。そう、信じる。

マラドーナやボビー・チャールトンにも取材した(筆者撮影)
マラドーナやボビー・チャールトンにも取材した(筆者撮影)

現在とは違う五輪とスポーツの意義

 横浜へと戻った金子さんは、開設されたばかりの東京12チャンネル(現テレビ東京)のアナウンサーとして、東京五輪の開会式を担当した。当時の日本は、同じく五輪開幕を待つ現在とは比べものにならない熱狂の中にあった。

「敗戦という衝撃を脱したい、という気持ちが一番強くあったのだと思います。スポーツインフラも整えられ、国中の意識が高揚していました。開会式前夜は、関東一円が雨に見舞われました。3時頃まで調べものをしていましたが、ずっと雨が窓に打ちつけられていました。それなのに、朝起きると晴れていたので、びっくり。開会式放送のゲストとしてお迎えした入江徳郎(朝日新聞記者。「天声人語」などを担当)さんが開口一番、日本晴れではなく『今日はまさしく、世界晴れですね』とおっしゃったんです。簡潔にして、チャーミング。まさに言葉の天才だな、と思いましたね」

 その20世紀の、国全体が沸き上がる状況を体感した金子さんだが、世の中を見つめる目は冷静だ。「確かにシンボルとなる大会でした。全国民1億人総出で、という感じでした。でもね、今はもうそういう時代じゃないんですよ」。

 半世紀以上前、スポーツは現在とは大きく違うとらえ方をされていた。ダイヤモンドサッカーをスタートへと強く後押しした、自身もサッカーの日本代表選手で三菱化成工業(現三菱ケミカル)社長も務めた篠島秀雄さんの言葉が、金子さんの記憶に強く残っている。テレビ番組での対談を司会した際の金子さんに、そしてブラウン管の向こうに向けられた言葉だ。

「『これから日本はもっと経済的に発展して、世界の大国になる。その時に、一般教養としてスポーツ、なかんずくサッカーを知らないと、ビジネスマンとして成功しない』。私の前で、そう断言されたんです。『サッカーは人間の組織そのもの。それぞれの役割を果たして、ひとつのチームとして機能する』、と」

「スポーツバカ」という言葉がまかり通った時代。スポーツの現在のような地位は、まだまだ程遠かった。

 アナウンスも、ベースが違った。

「センタリングという言葉も『それは何?』という時代ですから」。まだ、金子さんいわく「サッカー大航海時代」で、自身も学ぶことに努めた。

「突飛な話をすることもありました」と金子さんは笑う。司馬遼太郎の代表的作品、「坂の上の雲」には、英国海軍が日本で初めてサッカーを、横浜にサッカーを持ち込んだ、と記されている。他にはない「史実」だ。

「横浜と神戸、どちらが日本サッカー発祥の地かと、ずっと論じられています。だから、これを見つけた時はうれしかったなあ。さらに調べていくと、イングランドにはイングランドの、ドイツにはドイツのサッカーと、それぞれの歴史がある。そういうことに興味があって仕方なかった。未知なるものというのは楽しい。だから、サッカーには無限の広がりと厚みがありますよね」

 テレビ東京を離れた後も、アナウンサーとして活動を続けた。海外のサッカーを中心に、1週間で4本の実況をすることもあった。「放送が終わるのが(午前)2時、それから打ち合わせをして、4時に帰宅。それから軽く食事をして寝る。起きたら、また勉強です」。80歳の誕生日を迎える月まで、そのサイクルを回し続けた。寝ずに帰宅を待つ、夫人の支えを得ながら。

「これが、アナウンサーというか、人に物を伝える人間の責任じゃないですか? シュートが入った、なんていうのはどうでもいいんですよ」。そう信じる金子さんは、聖書の一節を引用しながら語る。

「『知識は人を誇らしめ、愛は徳を建つ』。されど我らは知恵も語る。自分が得たものを伝えられなければ、放送も物書きもつまらない。メディアには、絶対に教養が必要です。お金を稼ぐんだから、それが責任です」

ワールドカップでも試合の情報を自ら集め、勉強を欠かさなかった(筆者撮影)
ワールドカップでも試合の情報を自ら集め、勉強を欠かさなかった(筆者撮影)

「声は人」と語る理由

 一方で金子さんは、相反するように見えて、分かちがたい教訓を忘れない。岡野俊一郎さんとともに、東京五輪で日本をベスト8に導いた「日本サッカーの父」、デットマール・クラマーさんから受けた言葉である。

「岡野さんと一緒に興が乗ってくると私も随分しゃべりましたが、忘れなかったのはセレクト(選択)する言葉です。コレクト(正確)、シンプル、チャーミング。クラマーさんに、そう言われました。加えて言われたのは、『サッカーが主役』ということ。縦へのスルーパス一本、右のオープンスペースへ展開、絶妙のコントロール…。こういう簡潔なしゃべりが、最近はありませんね。最近は、見ている方が昔とは違ってサッカーを分かっていらっしゃる。私なら今、しゃべりを昔の半分にしますね」

 さらに大事にしているものが、金子さんにはある。

「アドリブですね。事前に試合の焦点がどこにあるか、データを詳細に調べて考えても、放送が始まったら即興なんです。寝ないで考えたフレーズであろうとも、出来合いには何の感動もありません。言葉の選択には、本能的な部分があります。感性に乗せて、それぞれのアナウンサーの知性、知識、教養がすべて声に出てきます」

 そう考えるからこそ、金子さんは「『声は人』なんです」と語る。

「岡野さんに、アナウンスについてよく話をして、『あまり深刻に考えなくてもいいよ』と言われました。ある時、スタジオでサッカー教室を開いたことがあって、この子どもたちに何を教えようかなと考えたんです。そこで浮かんできたのが、『サッカーを愛する皆さん、ごきげんいかがでしょうか?』という言葉でした。難しくもなく、気取りもしない。皆さんと一緒に楽しみたい。だからあの挨拶も、いい加減に口にしていません。いつでもテレビの向こうを思い浮かべて、目をつむることもありました。放送とは対話だと、若い頃から教わってきましたから」

五輪を前にした日本の成熟度

 20年間にわたるダイヤモンドサッカーの放送が終了した5年後に、Jリーグが開幕した。さらに5年後、日本代表が初のワールドカップ出場を果たし、21世紀に入るとその世界大会を自国で開催した。未曾有の大災害に見舞われた2011年には、なでしこジャパンが日本代表初の世界一に輝いた。そして今年、2度目の五輪が日本にやって来る。

「日本サッカーも枝葉を広げて、ここまで来ました。土壌を耕し、肥料を加え、サッカーという果実のなる木を岡野さんと一緒に植えることができました。50年経って、ようやく実をつけて今、青々として垂れ下がっています。やっとそこまで来たというのが、私の実感です」

 過剰でも、過少でもない。スポーツ新聞を畳みながら、「サッカーは分からない。こんなに難しいスポーツはないでしょう」と、つぶやく。そんな金子さんが、東京五輪を楽しみにしていることは間違いない。

「これだけ豊富な人材がそろったことはありません。この青いリンゴを赤くするために、皆がやってくれないといけない。まだその段階だと、私は思います。金メダル、金メダル、と騒ぐ時代じゃないでしょう。良いサッカーをしてくれることを祈りましょうよ。涙が出るようなサッカーをやっていただけたら、それで十分です」

 人生をサッカーとともに歩んできた男の、よく響く言葉。サッカー、スポーツ、そして人生へのあふれる愛情が、一端をのぞかせていた。

(筆者撮影)
(筆者撮影)

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

フリーランス・ライター/編集者/翻訳家

1975年生まれ。新聞社で少年サッカーから高校ラグビー、決勝含む日韓W杯、中村俊輔の国外挑戦までと、サッカーをメインにみっちりスポーツを取材。サッカー専門誌編集部を経て09年に独立。同時にGoal.com日本版編集長を約3年務め、同サイトの日本での人気確立・発展に尽力。現在はライター・編集者・翻訳家としてサッカーとスポーツ、その周辺を追い続ける。

杉山孝の最近の記事