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海外組のリアル 「学び」(2)  ドイツの大学で法学に“挑んだ”サッカー選手

杉山孝フリーランス・ライター/編集者/翻訳家
武藤選手はマインツから英プレミアへ、高山さんも自らの挑戦を続ける(写真:アフロ)

 近年、多くのサッカー選手が夢を抱いて海を渡る。日本代表でも「海外組」という言葉が使われるようになって久しい。アマチュアの立場でも、ヨーロッパを目指す選手が多い時代だ。海外でのプレー、生活、意味とはどんなものなのか。その「現実」を、実際に体験した冒険者たちに聞く。

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前回まで

 高校1年時に千葉県でサッカーの国体選抜の候補選手に選ばれる実力者だった高山敬一郎さんは、高校を卒業するとドイツへと渡った。Jリーグが始まった2年後で、「海外組」などという言葉が存在する前のことだ。8部リーグからのスタートだったが歩みは順調で、23歳になる頃には、プロである3部リーグのクラブからオファーが届いた。

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自らプロ入りの扉を閉めた理由

 4部リーグまではアマチュアだが、3部になると選手の立場が変わる。高山さんの目の前で、ついにプロの世界への道が開けた。

「23歳で4部リーグにたどり着くまでは本当にサッカー一筋でしたが、ちょうどその頃にこの先のサッカーをどうしていこうかなと思っていました。もう1つ上のリーグに行けば、プロになれましたから。実際、4部で1シーズンやった後、3部のチームから完全なプロ契約のオファーをいただいて、すごく迷いました。今、ドイツにサッカーをしに来ている23歳くらいの人たちなら、たぶんプロ入りを選ぶと思いますが…」

 開かれた扉を、高山さんは自ら閉めた。プロクラブからのオファーを断ったのだ。

「どうしてオファーを受けなかったのかと、周りの人にもよく聞かれました。お話したように、僕はドイツに来た時に全部のカテゴリーを自分の目で見て、自分が通用するレベルを確かめて、目標も立てていました。僕の目標は2部リーグでした。試合を見たり対戦した感触から、3部リーグでできるという自信がありました。でも、18歳から5シーズンやって、“結局”というか、“やはり”というか、周りの人から見ても自分の実力は3部レベルだったんです。オファーをもらったのだから、3部でも試合に出られたかもしれないし、2部に行けたかもしれない。でも僕は、走り回るなどして中盤で体を張るタイプでした。2メートル近い体格の選手とぶつかり合うと、体にガタがくるだろうとも考えました」

 日本を出てからの数年間、一番下のカテゴリーからトップの世界まで、しっかりドイツのサッカーを体で学んだ。その事実を、実感できた。

「やはり3部でならばできるんだと分かったことには、自分を客観的に見ることができたということで、うれしさもありました。オファーをもらえるところまで来たし、納得しました。普通の人ならば、そこでトライして2部へ1部へ、と上を目指していくのでしょうが、僕の場合は、やはり自分の見立ては正しかったな、という満足感が大きかった。それに、せっかくドイツに来ているので、勉強も仕事もしたかったし、友だちをつくったり、他の国を見たりしたかった」

 3部リーグに入るとプロ契約を結ぶため、労働ビザが必要になる。労働ビザへ切り替えることはできるが、その後に学生ビザへ戻すことはできない。その規定も、サッカーの第一線から退く決断を促した。

未来を変えた1点差での“勝利”

 一つの挑戦には、幕を降ろした。だが、高山さんの興味は、何か一つに縛っておけるものではなかった。

 ドイツに来てからサッカー漬けの毎日ではあったが、サッカーだけで一日が終わるわけではなかった。まず熱心に取り組んでいたのがドイツ語の習得で、ドイツでの生活では基本となるその作業が、さらに世界を広げていくことになる。

 日本を離れてまずはホームステイから入ったため、ホストファミリーとの普段の生活では当然ドイツ語を使う。渡独から1年ほどでほぼ不自由はしなくなったというが、「3年間、ほぼ毎日」語学学校に通い続けた。さらには「日本で言うところの大検を取りました。大学受験するための検定を言語学から社会学、歴史、科学と全科目をドイツ語で受験しました。そのための学校に1年間通って、合格することができました」。

 大学に入ったのは、「絶対に言葉をパーフェクトにしたい」という目標のためだった。そのために英文学とドイツ文学を専攻したが、しばらくすると「ドイツ語の勉強だけをしていても限界があるというか、物足りないというか。日本でも、古典で勉強した言葉は、現在の社会では使えませんよね」と、ここでも新しい挑戦を望んだ。

 選んだのは、法学だった。

「今で言うところのサッカー留学生やドイツで仕事をしたいという人と会うことが、結構増えていました。自分の契約くらいは内容を読んで理解できたのですが、そういう人たちのお世話をする時に一番必要なのが法律の知識だったんです。例えば外国人局でビザを取るといったちょっと面倒な時に、専門用語が難しいということは分かっていました。周囲に日本人は数人しかいなかったのですが、その方たちがたまたま法律の専門家や大学の教授でした。そういう方たちに『のちのち役に立つ』と言われた影響もあり、勉強しておいた方がいいのかなと思ったのが、法学を選んだきっかけでした」

 行動力のある高山さんだが、自分がとんでもないところに飛び込んだことに気付いた。

「ドイツの人に『大学で何の勉強をしているの?』と聞かれて法学部だと答えると、周囲の見方は全然違います」。そのくらい、ドイツの大学で法学を修めるというのは大変なことだという。何よりもまず、最初の授業で壁の高さを実感した。

「今でもはっきり覚えています。1年生の最初の授業で、英語を使ってのディスカッションでした。ドイツ語よりはましかなと思ったら、始まった瞬間に『来るところを間違えちゃったかな?』と思いました。アメリカの判例について意見を述べ合うのですが、何を話しているのかまったく分からない。それくらいに、頭がキレキレの人たちばかりでした」

 心のままにぐいぐいと突き進む高山さんでさえも、さすがにひるむほどの高い壁だった。実際、ほとんど白旗を上げかけていた。

 最初のテストだけは、受ける前から逃げるわけにはいかなかった。ただし、「このテストをパスしなかったら辞めよう」と決めていた。

「英語でのテストだったので、これだけは落とすわけにはいかないと思って、めちゃくちゃ勉強しました。当時では珍しく、テストは記述式ではなく、パソコンを使って選択肢から選ぶ形式。テストをパスするには100問中50問の正解が必要で、私の正解は51問でした」

 幸か不幸か、最初の関門を乗り越えた。

「卒業後」の新たな世界

 最終的に、法学を修了することはできなかった。ドイツでは、法学を修めるということは、ほぼ司法試験合格を意味する。

 司法試験を受ける資格を得られるまで、残すところあと1単位だったが、そこに至るまでにほとんどの学生が道を諦める。法学部では、1年目で学生の約半分が去るのだという。単位を取り終えるのは、最初の人数の約2割。

 最初のテストをギリギリで乗り越えると、さらに勉強に力を入れざるを得なくなった。「無理矢理の猛勉強で、テストをパスしていきました。レポートをA4用紙で毎回30枚くらい。在籍していた期間に、軽く500枚は書いたと思います」。

 残すところ1単位。そこで、高山さんは見切りをつけた。

 法学“卒業”の見極めは、サッカーを終えた時とどこか似ている。

「最後の単位は、本当に難しかった。自分のキャパを超えていたと思います。単位を取り終えれば司法試験に受かる確率はかなり高くて、単位を取り終えた後で考えてもよかったのですが、それからまた司法試験のために1、2年勉強することを考えた時に、大丈夫なのかなと思って」

 サッカーだけが存在するのではないのと同じように、まだまだ世界には興味深いことがあることを知っていた。

 大学での勉強が最終段階に入る頃には、築き上げた人脈を通じて仕事を頼まれることが増えていた。例えば、自動車メーカー。世界に名立たる自動車産業を誇るドイツとは、多くの日本の会社もともに仕事をする。その通訳やコーディネートを頼まれるが、その際にも専門用語を理解できる法学の知識が重宝されるという。その他、医療や食品の会社など、ドイツ語に本当の意味で堪能で、法律の知識も持つ高山さんには多くのオファーが届くようになっていた。

 スポーツも、そうした仕事で携わる業界の一つと言える。一時期は日本のサッカー代理人の会社の現地駐在員として、日本代表も含めて多くの選手の世話をした。ドイツ語の契約書の日本語への翻訳は、法律の知識がなければできないことだっただろう。

 日本代表FW武藤嘉紀がマインツ05へ入団した際には、クラブのスタッフとなって通訳を務めた。10部リーグから、ついにトップリーグへ。選手やスタッフ、あるいは日本人選手の入団の手伝いなど。ドイツサッカー界の全カテゴリーに携わった日本人は他にはいないだろう。

 渡独した頃から20年以上が経ち、高山さんが住み続けるマインツでの日本人とサッカーを取り巻く環境は大きく様変わりした。今では30人ほどの日本人が、サッカーをするためにマインツに滞在しているそうだ。

 目標に向かって邁進するのは素晴らしいことだが、高山さんは「もったいない時間の使い方をしているな」と感じることもあるのだという。サッカー留学生は語学学校から足が遠のき、ドイツ語も上達しないまま、「早ければ1年、長くても3年」ほどで帰国する選手が多いそうだ。

「サッカー選手を終えて、勉強したいとか大学に入りたいと思うけれどどうしたらいいかという問い合わせが来ると、うれしいですね。ただし、サッカーをするために来たという意識がすごく強いからなのか、残念ながらそういうことはほとんどありませんが」

今でも次なる目標へ

「サッカーには一番感謝しているし、サッカーがあるから今の自分があると思っている」と高山さんは語る。サッカーがなければドイツに来ていないし、ドイツに来たからこそ出会えた人たちがいる。だからこそ、ドイツで得た一番大きなものは「人とのつながりですね」と即答する。

「サッカーはきっかけであって、すべてが完結するわけではない。サッカーをきっかけに、いろいろと始められる。プロ選手になれればそれでいいし、選手ではなくプロの監督になれるかもしれない。ケガが多かった選手なら、自分が助けてもらったフィジオになりたいと、そちらの道に進むかもしれない。契約で困った時に弁護士に助けてもらったからとか、可能性を探っていくというのは、すごく大事なことだと思いますね」

 競技を問わずドイツに来る日本人アスリートを支援する高山さんだが、自身の好奇心も、まだまだ止まらない。ドイツに暮らす日本人の子どもたちに日本語や日本文化を学ばせる学校があるものの、マインツからだと最寄りでもフランクフルトまで足を運ばなければならない。そうした学校を、マインツにつくるのだという。

 ドイツで生まれ育ち、幼稚園に通うまでに大きくなった息子も、サッカーが大好きだ。サッカーを愛する高山さんだけに、時には友人から、サッカーチームの監督をやらないのかと尋ねられることもあるという。

 だが、その仕事だけは、今のところ断り続けている。「まだ自分がサッカーをしていたいですから」。そう言って笑う目には、少年のような力がみなぎっている。

(筆者撮影)
(筆者撮影)
フリーランス・ライター/編集者/翻訳家

1975年生まれ。新聞社で少年サッカーから高校ラグビー、決勝含む日韓W杯、中村俊輔の国外挑戦までと、サッカーをメインにみっちりスポーツを取材。サッカー専門誌編集部を経て09年に独立。同時にGoal.com日本版編集長を約3年務め、同サイトの日本での人気確立・発展に尽力。現在はライター・編集者・翻訳家としてサッカーとスポーツ、その周辺を追い続ける。

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