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海外組のリアル 「学び」(1) マインツの幻の「日本人選手第1号」

杉山孝フリーランス・ライター/編集者/翻訳家
武藤選手(左)在籍時、マインツで通訳も務めた高山さん(右)。ドイツで多くを学んだ(写真:アフロ)

 近年、多くのサッカー選手が夢を抱いて海を渡る。日本代表でも「海外組」という言葉が使われるようになって久しい。アマチュアの立場でも、ヨーロッパを目指す選手が多い時代だ。海外でのプレー、生活、意味とはどんなものなのか。その「現実」を、実際に体験した冒険者たちに聞く。

Jリーグより心はドイツへ

「好奇心がものすごく強いんですよね」

 ドイツで暮らし始めて20年以上になる高山敬一郎さんの歩みを振り返れば、その言葉に納得するしかない。

 高山さんが生まれ育った千葉県の高校サッカーはハイレベルで、高山さんの年代も例に漏れなかった。高校3年時には県内で競った市立船橋高校が、決勝で5-0と圧倒して全国高校選手権を制していた。その千葉県で高校1年時に国体向けの千葉選抜の候補選手に入ったのだというから、高山さんの実力の高さがうかがえる。

 高校2年時には、Jリーグがスタートしていた。市立船橋高校からは、同い年の茶野隆行さんら数名がプロの世界に飛び込んだ。高校で全国の舞台に届かなかった高山さんの目にもJリーグは華やかな世界に映ったが、「プロになりたいなという気持ちはあったけど、日本でやりたいという気持ちはまったくなくて」。選んだのは、当時はまだ珍しい海外挑戦だった。当時の日本サッカー界をけん引していた三浦知良(現横浜FC)が、アジア人としてイタリア・セリエAに初めて挑んだ翌年のことである。

 ヨーロッパへと導いたのは、心に引っかかっていたドイツ人指導者の言葉だった。高山さんの地元・八千代市はサッカーが盛んで、中学年代で欧州のチームを招待して大会を行っていた。ある年に招いたチームの一つが、名門ボルシア・ドルトムントだった。ドイツを制するほどの実力チームに、何と高山さんらは勝ったのだという。すると、相手チームの監督から声をかけられた。「もしよかったら、ドイツに来てやってみないか」。「冗談半分だったと思います」と高山さんは振り返るが、その一言で人生が大きく動くこととなった。

 高校卒業後、知人のつてを頼ってドイツでプロクラブのテストを受けた。そのホームタウンには、当時ほとんど日本人はいなかった。日本代表選手が所属したことで、今では日本でも知られるようになったマインツ05である。当時は2部リーグ所属ながら、10部まであったドイツのサッカー界で、地域の頂点に君臨するクラブ。高い壁であったはずだが、テストを受けるとBチームながら監督から合格点をもらった。

 ビザの関係で一旦帰国し、冬に正式に加入するつもりだった。もしかしたら、日本代表としても長らく活躍してきた岡崎慎司よりも先にマインツ05の日本人プロ選手第1号になっていたかもしれないが、不運に見舞われた。練習中に靭帯を負傷し、テストの合格は“過去の話”になってしまったのだ。

10部リーグからのスタート

 ただ、大きな落胆はなかった。「そのくらいのレベルでできることが分かったので、焦る必要はない、と。どうしてもプロになりたい、というわけでもなかったので、まずは語学を勉強しながら、徐々に徐々にドイツに慣れていきました。サッカーも、最初の3カ月で10部から1部まで全部のカテゴリーの試合を見に行って、その中で自分のレベルがどのくらいなのか見極めて、目標はこのくらいかなというのを決めていました」。

 狙いを定めたのが、選手の立場がアマチュアではなくプロとなる3部リーグだった。そこへ到達するため、ケガが癒えると8部リーグに所属するクラブからスタートを切った。

 正確に言うと、10部リーグからのスタートだった。クラブは8部にいたが、その2軍チームの試合に回されたのだ。その試合が10部リーグのものだったが、つかんだチャンスを高山さんは存分に活かした。

「10部リーグでいきなり試合に出されると、前半だけで2点取って、すぐにベンチに下げられました。『次に1軍の試合があるので、そちらに出すからもう休んでいい』と。1軍の試合に出たら、2点取れてしまい、そこから重宝されるようになりました」

 高山さんと同様に、クラブも波に乗った。8部から2年連続で昇格を果たし、6部リーグにたどり着いたのだ。高山さん自身もステップアップを果たし、2度目の移籍で4部のクラブに入った。「4部はプロではないけれど、完全なるアマでもないんです。基本給をもらって、それで生活している選手もいました」。本当のプロ選手となる目標の3部まで、あと一歩に迫った。

心を揺さぶる仲間の言葉

 当時は語学学校にも熱心に通っていたが、生活の中心はあくまでサッカーだった。そんなサッカー漬けの日々だったが、心を揺さぶられる機会があった。

「4部でプレーしている頃でも『仕事は何をしているの?』といつも聞かれて、サッカーをしていると答えると、『その後はどうするの?』と必ず言われました。大学に行っているのかとか、手に職をつけているのかと、絶対に聞かれるんですよ」

 さらに響いたのが、仲間からの言葉だった。

「チームメイトには元プロ選手や、マインツ05のユースやサテライトでプレーしていた選手もいました。その、すごくうまい選手たちが皆、『サッカーだけが人生じゃない』と言うんですよ。当時一番仲の良かった選手は、以前にマインツ05のサテライトでプレーしていて、ダントツにうまかったのですが、その彼でもトップチームに上がれなかった。でも、『オレはサッカーだけが人生じゃないと思う。他にやりたいこともあるし』と言うんです」

 よりサッカーと人生の経験がある年長者も、同じような話をした。

「30歳くらいのキャプテンも、マインツ05のトップでやっていた人でした。その人が、『ケイ、お前がサッカーをやりたいのも分かるし、十分にできると思うけど、人生はサッカーだけじゃないよ』って言うんです。もっと大事にしなくちゃいけないものがあるし、それが家族や友だちだったり、仕事だったりする、と。特にその2人が、一生サッカーするわけじゃないんだと話してくれたことを、すごくよく覚えています。当時は、ちょっとびっくりしましたね。『お前の実力じゃあ、ちょっと無理だよ』と言われているのかとも思いましたが、実際は本当にすごくよく僕のことを考えてくれていたんだと思います。今なら、彼らの言っていたことがよく理解できます。プロになった後の人生の方がずっと長いし」

 そして、分岐点がやってきた。目標としていた、3部リーグのクラブから入団のオファーが届いたのだ。

 高山さんは、大胆な決断を下した。

'''海外組のリアル 「学び」(2)  ドイツの大学で法学に“挑んだ”サッカー選手''' へ続く)

フリーランス・ライター/編集者/翻訳家

1975年生まれ。新聞社で少年サッカーから高校ラグビー、決勝含む日韓W杯、中村俊輔の国外挑戦までと、サッカーをメインにみっちりスポーツを取材。サッカー専門誌編集部を経て09年に独立。同時にGoal.com日本版編集長を約3年務め、同サイトの日本での人気確立・発展に尽力。現在はライター・編集者・翻訳家としてサッカーとスポーツ、その周辺を追い続ける。

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