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常に愛情を持った「サッカー少年」 偉大なるGKの歩みと変化

杉山孝フリーランス・ライター/編集者/翻訳家
(写真:ロイター/アフロ)

驚異の目力

前世紀の話だ。

「何が聞きたいんですか?」

年齢は1歳下ながら人生経験で凌駕するJリーガーに、完全に気圧された。

スポンサー撤退を受けた横浜フリューゲルスとの合併で誕生した、「新生」横浜F・マリノスのJリーグ開幕前のキャンプでのことだった。前1998年のワールドカップでのプレーは社会人1年生として見ていたが、地元新聞社の運動部記者ではあったものの、直接仕事としてタッチすることはなかった。

フリューゲルスから三浦淳宏(現・淳寛)という名キッカーが加わったことを、GKの目から見てどう感じるのか。意を決して質問した新米サッカー担当は、数々の修羅場をくぐったGKに完全に“シャットアウト”された。

さすがは日本の守護神、川口能活である。目力からして違った。

だが半年後には、その威圧のオーラを持つ守護神が、目を細めて話をしてくれるようになった。きっかけは分かっていた。Jリーグが2ndステージに入った頃に行ったインタビューに違いなかった。

その2000年夏、一つのレースに決着がついた。さいたまとの間で争われていた2002年日韓ワールドカップの決勝会場が、横浜に決まった。地元新聞社としても大きなニュースであり、多くの関係者に話を聞くことになった。選手代表として、日本でただ一人ワールドカップを経験していたGKに話を聞くことになった。

指定された室内に入ってきた川口は、まだ表情が硬いように思われた。向き合って腰を落ち着けて、最初に聞いた。

「“川口少年”が、初めてワールドカップを知ったのはいつですか?」

途端、甘いマスクが崩れた。

「“川口少年”はですねえ…」

まさに子どもに戻ったように、サッカーとワールドカップの思い出を語り続けた。広報担当者に「そろそろ…」と言われるまで、話は続いた。

その年の9月、ベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)との試合の後は、2部に落ちまいと必死の相手チームの気迫のすごさについて話してくれた。翌2000年にはさらさらヘアーから、オールバックへとイメージチェンジ。「迫力が出るかなと思って。どうかな?」。優勝が懸かった1stステージ最終節、先に試合を勝利で終えて国立競技場の芝に座り込み、優勝を争う相手の試合が繰り広げられるオーロラビジョンをにらみつける気迫は、今も忘れられない。

いつしか視線はやわらかく

ストイックな面、多くのファンを魅了したプレー、人を引き付ける気迫と、見てきた人により「川口評」はさまざまだろう。だが、個人的には、常に愛情を持って真摯に向き合ってきた「サッカー少年」が、川口の本質なのだと思う。

海外でのプレーを経て帰国すると、ジュビロ磐田では残留争いも経験した。磐田での最後のシーズンとなった2013年、ベンチに座って見つめた試合でも、敗戦に涙するチームメイトへの思いを優しく語っていた。

FC岐阜で2年目の2015年、J2最終節ではJ1昇格を争うアビスパ福岡を迎え撃った。白星を譲った後、「マニアックな話かもしれませんが」と前置きしつつ、相手GKのステップについて語っていた。福岡のゴールを守っていたのは、その後に日本代表に選出される中村航輔だった。

SC相模原の一員として2年目のJ3を戦っていた昨季、アウェイでの福島ユナイテッド戦は再びベンチに座るようになってから3試合目だった。第10節でつかんだポジションをまたも譲ることになっていたが、「躍動感が出ないんだよね…」。自らの不遇を嘆くのではなく、口を突くのは若い選手が多いチームを思う言葉だった。

ふと、思い至る。時に突き刺すようだった視線は、いつしか周囲を温かく包むものになっていた。愛情はサッカーだけではなく、より他者へと向けられるものへと変わっていった。

1994年にプロキャリアをスタートさせた偉大なGKが、21世紀の18年間を越えて、ついにグローブを置こうとしている。14日の会見は、ライブ配信されるという。いろいろな思いが詰まる舞台も、きっと温かい言葉で埋められるはずだ。

福島での別れ際、こんな言葉をかけられた。

「また会えるかな?」

40過ぎの男もイチコロのセリフが自然にこぼれるとは、いかに素晴らしい歩みであったことか。

フリーランス・ライター/編集者/翻訳家

1975年生まれ。新聞社で少年サッカーから高校ラグビー、決勝含む日韓W杯、中村俊輔の国外挑戦までと、サッカーをメインにみっちりスポーツを取材。サッカー専門誌編集部を経て09年に独立。同時にGoal.com日本版編集長を約3年務め、同サイトの日本での人気確立・発展に尽力。現在はライター・編集者・翻訳家としてサッカーとスポーツ、その周辺を追い続ける。

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