周遊忌 - 宮脇俊三没後10年 著者から読者へ受け継がれるDNA

宮脇俊三の著書

2月26日は、一般的には二・二六事件があった日として記憶されています。しかし、鉄道ファンにとっては"周遊忌"。鉄道紀行作家、宮脇俊三の命日です。太宰治の命日は"桜桃忌"、正岡子規は"糸瓜忌"、芥川龍之介は"河童忌"、三島由紀夫"は憂国忌"、司馬遼太郎は"菜の花忌"。そして、宮脇俊三が"周遊忌"。宮脇俊三は辞世にあたり、自ら戒名をつけていました。"鉄道院周遊俊妙居士"。これが"周遊忌"の由来です。

宮脇俊三は1926年生まれ。1951年に東大文学部西洋史学科を卒業後、中央公論社に入り、編集者として勤務。『中央公論』の編集長、『婦人公論』の編集長などを歴任。在社時の功績のなかには、北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』の編集担当者でもありました。

常務取締役まで出世した宮脇俊三は、1977年に国鉄路線の全線踏破を達成します。その紀行を綴った『時刻表2万キロ』を執筆。しかし版元は中央公論社ではなく、河出書房新社でした。これはスジが通らないと彼は1978年に退社します。『時刻表2万キロ』は大きな反響を起し、上梓後すぐに『最長片道切符の旅』に着手。宮脇俊三の紀行作家としての人生が始まります。そして国内・海外の列車に乗り歩き、数々の著作を残しました。

『時刻表2万キロ』も、『最長片道切符の旅』も、鉄道ファンにとって「いつかはやってみたい」という願望を具現化した旅の記録であり、鉄道ファン以外にとっては、エリート街道で働いていた鉄道好きの中年男が、まるでゲームのような旅を続けるという、ユニークなエッセイでした。

過去にも鉄道紀行文はありました。しかし宮脇俊三の紀行文は、鉄道趣味と、人間観察と、歴史や地理の知識のバランスが良く、また、ごくたまに艶っぽさを効かせてくれたりもして、多くのファンを獲得しました。同書は"列車に乗る"――宮脇流に言うと"時刻表に乗る"という趣味を社会に認知させた功績の書でもありました。

『時刻表2万キロ』を読んでいなくても、宮脇俊三を知らなくても、当時の国鉄が開催した「いい旅チャレンジ2万キロ」キャンペーンをご存知のかたは多いかと思います。テレビでは『クイズ列車出発進行』という番組が作られています。これらも同書が鉄道の旅を世に知らしめた影響といえます。

10年前、私は鉄道趣味から遠ざかっていました。学生時代は信州の温泉町で過ごし、クルマ好きに転じました。就職してからは仕事が面白く、仕事に関連したパソコンやゲームに心を奪われておりました。フリーライターとなった後も、専門分野はITやゲームでした。もちろん鉄道好きは継続していましたが、行動に移すには至っていませんでした。そんななかで、ただひとつ鉄道に触れる場所が宮脇俊三の著作でした。

Yahoo!ニュースで訃報を知り、愕然としました。好きな作家が世を去れば、もう新作を読めない。その悲しさ、寂しさ。ああ、こういう状態を"喪失"というのですね。失った心の隙間を埋めるにはどうしたら良いでしょうか。久々に自分のすべき行動について真面目に考えました。その時、仕事でインタビューした年配のゲームプロデューサーの言葉を思い出しました。

「子供の頃はお金もモノもなくてね。欲しいものは自分で作るしかなかったんだ」

これだ、と思いました。もう宮脇俊三の新作は読めない。鉄道紀行を著す作家やライターは他にもいます。でも、どれも宮脇俊三の代わりにはならない。ならば自分で書くしかない。少しでも彼に近づくには、誰かを頼ったり、待ってる場合ではありません。自分で書かなくちゃ。

そして私の鉄道路線踏破の旅が再開し、その記録を綴り始めました。バトンタッチなどとおこがましい気持ちはありません。でも、宮脇俊三没後10年を迎え、私の紀行連載も10年、460回になろうとしています。少しは彼に近づけただろうか、と読み返します。しかし、無理です。とても及ばない。面白くない。自分の旅の記憶を再現する助けになっても、客観的に見ていまひとつ。

それは当然です。宮脇俊三は東大を卒業する頭脳を持ち、出版社の編集長、取締役というたいへんな経験を積み重ね、知性にあふれていました。彼と同じ作品を作るためには、彼と同じ経験と努力が必要です。そして、私にはそんなことはできないし、他にそんな人はいません。

でも……。

私はいま、宮脇俊三が見ていない時代を生きています。彼が経験できない旅をしています。宮脇俊三はスーパーこまちに乗れません。九州新幹線にも乗れません。ななつ星in九州にも乗れません。だけど私は乗れます。私が、僭越ながら宮脇俊三に勝てると思う部分は、彼の没後の世界を見聞できること。ならば、その旅は記しておく価値があるはずです。

宮脇俊三が旅した時代は「日本の鉄道の黄金時代」と言われています。たしかにそうでしょう。ブルートレインが健在で、ローカル線もたくさん残っていました。羨ましい。彼と同じとは言わなくても、もう少し早く生まれたかった。あの頃は良かった。

でも……。

いま、私たちが旅している時代も、20年、30年、50年先から見たら「あの頃は良かった」と羨ましがられるかもしれません。いま私たちが、この時代の価値に気付いていないだけかもしれません。明治時代に作られた新橋駅の価値を当時の人は知らず、埋めて貨物駅にしてしまったように。何十年後の人々が、その価値を見出して発掘する。今はそんな時代かもしれません。

そうであれば、私の拙い紀行文も、多くの人々が作っていらっしゃる旅のブログも価値を持っているといえます。検索エンジンで見つけた旅の経験は、きっとあとから同じ路線を旅する人に役立ちます。忙しくて旅に出られない人が、ちょっとは旅の気分に浸れるかもしれません。

宮脇俊三作品の影響を受けた読者が、こんどは著者として自分の旅を書き記す。その行為にはきっと、宮脇俊三作品のDNAが宿っています。精進すれば、宮脇俊三作品のDNAは、あなたの作品のDNAに昇華して、次の時代の誰かに宿ることでしょう。

第二の宮脇俊三は誰か。宮脇俊三を超える紀行作家が現れるか。そんな視点で新たな作家を探してダメ出しをするより、自分自身が宮脇俊三作品から受け取ったDNAをどう活かすべきかを考えたほうが楽しいでしょう。

今回は2回めにして、ちょっと長く書きすぎました。鉄道院周遊俊妙居士殿に叱られそうです。

「私の事よりも、もっと汽車ポッポの話をしませんか」

なんてね。