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家父長制の中での結婚、出産、仕事と家庭。女性たちの「ささやかな革命」は続く。

杉谷伸子映画ライター
『ふたりの女、ひとつの宿命』

アカデミー賞脚色賞を受賞したサラ・ポーリー監督の『ウーマン・トーキング 私たちの選択』(6月2日公開)は、小さな宗教コミュニティを舞台にしながら、これからどう生きるかという女性たちの話し合いに、まだまだ男性中心の価値観が基準の現実を映し出し、彼女たちが抱える問題を普遍的なものとして共感させる作品だ。

性的暴行が物語の起点にありながら、それを直接的に描写せず、「破られる眠り」というイメージで表現することで寓話的な広がりを持たせたポーリーは、作品で描かれていることが遠い過去の出来事ではないことに驚かせもするのだが、『メーサーロシュ・マールタ監督特集 女性たちのささやかな革命』で日本初公開となる1970年〜1980年の5作品もまた、女性たちが向き合う問題が今もなお続いていることを突きつける。

メーサーロシュ・マールタは、1931年生まれ。1968年に女性として初めてハンガリーで長編映画を監督し、『アダプション/ある母と娘の記録』(’75年)で女性として初めてベルリン国際映画祭・金熊賞に輝いている。しかし、これまで日本では1985年の第1回東京国際映画祭「映画祭の映画祭(世界主要映画祭受賞作)部門」『Diary for My Children』が上映されたのみで、本特集で上映される作品はいずれも日本初公開。

今回初めて彼女の作品に触れることになった身としては、最初、興味は『ふたりの女、ひとつの宿命』に出演しているイザベル・ユペールにあった。

『マリとユリ』
『マリとユリ』

けれども、ひとたびメーサーロシュ作品に触れると、男性中心の社会の価値観に絡めとられそうになりながらも、自分が求めるものへと進み続ける女性たちの姿に共感せずにいられなくなる。

『ドント・クライ プリティ・ガールズ』(’70年)が描くのは、婚約中にもかかわらず、ミュージシャンと恋におちた若い娘ユリの紆余曲折。

『アダプション/ある母と娘の記録』(’75年)で友人のような親子のような絆で結ばれていくのは、子供を持つことにこだわる43歳のカタと、「結婚」すれば自由になれると思っているハミだし者の寄宿学校生アンナ。

『ナイン・マンス』(’76年)の主人公ユリは、シングルマザー。そもそも子供の父親である男性との結婚は望んでおらず、工場勤務のかたわら農学を学び、自分で収入を得ることに意義を見出している。しかし、現在の交際相手は彼女が結婚後に家庭に入ることを望み、それぞれの価値観の違いが衝突を招く。

『マリとユリ』(’77年)で描かれるのは、仕事にやりがいを感じているにもかかわらず、これまた家庭に入ることを望む夫から「誰にでもできる仕事」と軽視されるマリと、アルコール依存症の夫ヤーノシュに愛想を尽かしつつも離れられずにいるユリの連帯と選択だ。

1936年が舞台の『ふたりの女、ひとつの宿命』(’80年)は、ヒロインの一人スィルビアが裕福な上流階級であることや、戦争が登場人物たちの運命に影を落とすので、ほかの4作とは少々趣を異にするけれども、「子供が欲しい」という切実な願いや、それを実現するための意志の強さは、やはり他の4作の主人公たちに通じるものがある。

『ナイン・マンス』
『ナイン・マンス』

男性中心の社会で、しかも50年近く前に、女性が自分の意思を貫こうとするのは簡単なことではなかったはず。実際、彼女たちは男性からのみならず、ときには女性からもその生き方を謗られることもある。

この主人公たちへの共感が浮かび上がらせるのは、映画が作られた当時から長い歳月が経っても、まだまだ女性が家父長的な価値観に縛られているということでもある。けれども、当時よりは随分、女性が自分の意思でどう生きるかを選べるようになったのも事実。それも、メーサーロシュ作品の主人公たちのように多くの女性が、自身の人生で、「ささやかな革命」を続けてきたからだ。

主人公たちの選択の先に広がる人生へ思いを馳せずにいられない物語の数々。全部は観られなくても、何作かを観ることでそれぞれの作品が響き合って、今、この時代に観ることの意味が大きくなる。

(c)National Film Institute Hungary - Film Archive

『メーサーロシュ・マールタ監督特集 女性たちのささやかな革命』

新宿シネマカリテにて公開中。全国順次公開。

映画ライター

映画レビューやコラム、インタビューを中心に、『anan』『25ans』はじめ、女性誌・情報誌に執筆。インタビュー対象は、ふなっしーからマーティン・スコセッシまで多岐にわたる。日本映画ペンクラブ会員。

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