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熊本藩に懲役刑のルーツがあった

園田寿甲南大学名誉教授、弁護士
熊本城(写真:アフロ)

 今回の熊本大震災に際して、熊本刑務所が独自の判断によって施設内の一部を避難所として被災者に開放し、非常食や飲料水などが提供されたということです。このような合理的で柔軟な対応に世間では賞賛の声が上がっています。

熊本の刑務所に「柔軟な対応」「素晴らしい」と賞賛の声 地震うけ「全国で初」の行動とは

熊本刑務所
熊本刑務所

 このニュースを読んで、私は江戸時代に熊本藩が行った革新的な行刑制度のことを思い出しました。現在の刑罰制度では懲役刑が中心ですが、この懲役刑のルーツは実は熊本にあったのです。

 懲役刑とは、受刑者を刑務所に収容して行動の自由を制限し、一定の作業を行わせる刑罰のことです。この作業のことを刑務作業といいますが、これは受刑者の矯正や社会復帰を図るための重要な方策の一つだとされています。受刑者が専門家の指導を受けて、靴やカバン、家具、工芸品、民芸品などを作り、販売もしています(CAPIC)。内容は民間で行っていることと同じなのですが、唯一異なることは、刑務作業はあくまでも刑罰であって、労働ではないということです。したがって、賃金は出ません。ただ、作業についた者には、1月当たり(!)4千数百円程度の「作業報奨金」が支給され、釈放時に渡されます。かりに10年間刑務所にいたとしても、釈放時にもらうお金が当座の生活のために十分かと言えば決してそうではありません。ただ、無一文で刑務所からいきなり社会に出されるよりも、少しでも手持ちのお金があれば何かと助かることは事実です。

 懲役刑の底にあるのは、犯罪を犯した者を刑務所に収容して苦痛を与えるとともに、その時間を有効活用して生活習慣や怠惰な性格などを改善し、そして社会に復帰させるという考え方です。これは〈特別予防〉と呼ばれています。このような懲役刑のルーツを探っていくと、18世紀半ばに熊本藩8代目藩主、細川重賢(しげかた)が行った改革にたどり着くのです。重賢は、当時危機的状況にあった藩財政を根本から立て直し、「肥後の鳳凰(ほうおう)」と呼ばれた名君です。

 彼が行った改革の一つに、刑法典(「御刑法草書」(ごけいほうそうしょ))の制定(宝暦5年、1755年)があり、これによって熊本藩では、追放刑が廃止されて「徒刑(とけい、ずけい)」と「眉なしの刑」が創設されたのでした。

 この「徒刑」と「眉なしの刑」とはどのような刑罰であったのでしょうか。

『絵でみる 江戸の町とくらし図鑑』廣済堂出版より
『絵でみる 江戸の町とくらし図鑑』廣済堂出版より

 江戸時代の刑罰の主流は、社会からの排除(排外)を意味する、死刑追放刑でした。死刑には斬首や獄門、磔(はりつけ)、火あぶりなど、随分と残酷なものがありましたが、追放刑も死刑に劣らず厳しいものでした。

 追放刑といえば「島流し」をイメージしますが、これはまれで、ほとんどは犯罪を犯した者を山間部や僻地に追いやっていました。彼らは追放されたその日から、飢えと寒さに苦しめられ、やむを得ず村に戻っても、これは「立ち帰り」という犯罪となり、さらに遠方に追放されました。これを繰り返すと死刑です。追放刑に処された者は人別帳(江戸時代の戸籍)の記載を抹消されて「無宿(むしゅく)」となるため、生業に就くことができず、街道筋を徘徊したり、都市に流れ込んで犯罪を重ねたりしました。

 このような追放刑の代わりに重賢が設けたのが「眉なしの刑」です。これには1年から3年までの5等級があり、その間、受刑者を「定(さだめ)小屋」と呼ばれた施設に拘禁して強制労働に服させました。拘禁中は、眉毛を剃り、頭髪もザンギリ(力士が髪が短くてマゲを結えないような状態)とし、濃紺の着物を着せました。これは、異様な風体にして、受刑者としての自覚を促し、また逃走を防ぐ意味があります。

 「眉なしの刑」は、宝暦11年には「徒刑」と称されるようになります。

強制作業は、午前8時から午後3時までで、道や橋、城郭の普請などに従事させられました。雨の日は定小屋で、草履や縄、ムシロなどのワラ細工の仕事をしました。そして、驚くべきは、これらの強制作業に対して賃金が支払われていたことです。作業時間以外の内職も認められていました。こうして得た賃金の大半は強制的に積み立てられ、釈放時に支給されました。同種の作業に比べてその賃金は高くはなかっただろうと推測されるものの、作業を有償としたことは当時では非常に革新的な考え方でした。

 3年もして釈放されるときには、ある程度の貯金もたまり、恩恵を感じて罪を償う意識も出て、人柄も変わるとの記録も残されています。

 また、毎年春になると、釈放された者が村の「手永(てなが)会所」という役所に呼びだされ、この1年間の暮らしぶりについて問いただされるというようなこともなされていました。まさに今で言う「保護観察」です。

 「徒刑」が犯罪者を懲らしめるだけの目的ならば、強制作業に対する賃金は不要ですが、受刑者を改善して社会復帰させようという考えがあればこそ、賃金という発想も出てきます。「刑務所を見れば、その国の文化程度が分かる」という言葉があります。社会に対して害をもたらす者に対して寛大な態度を示すことができる社会は、確かに文化程度の高い素晴らしい社会だと思います。犯罪者に対して排外以外に有効な対策を示すことができなかった江戸時代において、人道的で近代的な刑罰制度を実践できた熊本藩の「徒刑制度」は、日本の行刑史上画期的なことであったと思います。(了)

【参考】

金田平一郎「熊本藩『刑法草書』考」

高塩博「江戸時代の徒刑制度―自由刑の誕生とその系譜―」

高塩博「近代的自由刑の成立と展開―熊本藩徒刑と幕府人足寄場―」

甲南大学名誉教授、弁護士

1952年生まれ。甲南大学名誉教授、弁護士、元甲南大学法科大学院教授、元関西大学法学部教授。専門は刑事法。ネットワーク犯罪、児童ポルノ規制、薬物規制などを研究。主著に『情報社会と刑法』(2011年成文堂、単著)、『改正児童ポルノ禁止法を考える』(2014年日本評論社、共編著)、『エロスと「わいせつ」のあいだ』(2016年朝日新書、共著)など。Yahoo!ニュース個人「10周年オーサースピリット賞」受賞。趣味は、囲碁とジャズ。(note → https://note.com/sonodahisashi) 【座右の銘】法学は、物言わぬテミス(正義の女神)に言葉を与ふる作業なり。

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