WBFスーパーバンタム級タイトルに挑んだアウトサイダー
あれから、24年が過ぎた。
1999年12月10日、日本で4勝(4KO)3敗1分の戦績を残し、グリーンツダジムに所属したファイターが、タイでWBFスーパーバンタム級タイトルに挑戦した。
WBFとは、日本のボクシング界で認められていない、"マイナー"タイトルである。しかも、フライ級でプロデビューし、その後、スーパーフライに上げた彼にとっては初めて経験する階級であった。
1970年6月11日生まれの河合晴彦は、漫画『あしたのジョー』のファンで、ボクシングに漠然とした関心を持ちながら成長した。
「タレントの片岡鶴太郎さんがプロテストに合格して話題になり、自分にも出来るような気持ちが芽生えたんです。また、引退後は私立探偵になりたいという思いがあって、<元プロボクサーのオプ>なんて、響きがいいなという不埒な動機もありました(笑)」
1991年5月8日にプロデビュー。第4ラウンドに相手側のセコンドがタオルを投げ入れてのKO勝ちだった。
「当時のツダジムには、いい選手がゴロゴロいましたから、自分は特に目を掛けてもらえる選手じゃありませんでした。世界なんてとんでもない、6回戦ボーイだったんです。
ずっとアメリカに憧れがあって、本場で暮らしてみたい。伸び伸びとやってみたいなと、1993の12月から1994年2月までの3カ月間、滞在しました。でも、言葉の壁もあったし、試合に出ることもできずで楽しめなかったですね。きちんと英語を学んでから行くべきでした」
その後、1994年3月にメキシコに移る。
「7月までの4カ月間、メキシカンに交じってトレーニングし、沢山の仲間に恵まれました。楽しかったですね。ホームスティ感覚でメキシコ人家族と生活し、その子供たちがなついてくれたんですよ。世界チャンプになった経験のあるメチョル・コブ・カストロ、ホセ・ルイス・ブエノ、ビクトル・ラバナレスとスパーリングをしました。
6月14日には現地でバンタム級8回戦に出場し、判定で勝利しましたし。とはいえ、日本に戻って最初の試合で判定負けして、引退しようと思ったんです。4年くらいブランクを作りました。でも、身体を痛めた訳でもないし、また、やりたいなという気持ちになって…」
1998年3月より、今度はタイに乗り込む。
「アメリカにいた折にタイの人たちと知り合って興味を持っていましたし、タイでは試合が簡単に組めると聞いていました。半年いたんですが、ハングリーな選手と沢山知り合え、刺激がありましたよ。3試合組んでもらって、1勝2敗です。現地で出会った日本人が、後のWBAスーパーバンタム級チャンピオン、ソムサック・シンチャチャワンの相手を探しているということで、僕がやらせてもらうことになったんです。思い切り水増しで階級を上げました(笑)」
その試合について質問すると、河合は言った。
「自分が攻め込んでカウンターをもらうという感じが続いて、3ラウンドにお互いの頭が当たって自分が左目の上を切ってドクターストップです。
もう一生懸命に頑張れないと感じたのと、自分みたいな選手がタイトルマッチに出れたという満足感を味わえたので、引退を決めました。通算戦績は、13戦6勝(5KO)5敗2分です」
引退後、かねてからの目標だった私立探偵の職にも就いたが、向いていないと悟った河合は早々と撤退する。そして今日も、ボクシング界で生きている。渥美ボクシングジムのトレーナーとして汗を流す毎日だ。
「プロのジムですから、強い選手を育てなければと思っています。できる限りボクシングを好きになってもらいたいと思って教えています」
「Culture Add」なる言葉がある。ある集団に蔓延る既存の価値観を壊して前に進むには、まるで異なった経験を持つタイプを輪に入れ、群れを活性化させることが重要だという考え方だ。
河合には、アウトサイダーとして歩んだ人間ならではの「体験に基づく指導法」がある。彼の今後に、大いに期待したい。