ブラジルの名門チーム、グレミオの米国での活動
昨年末、ブラジルの名門クラブ、グレミオが同国リーグの2部に降格した。
レナト・ガウショ監督率いるグレミオが、2017年にリベルタドーレス杯を制した姿は記憶に新しい。この優勝はグレミオにとって、リベルタドーレス杯における3度目のVであった。
1983年のトヨタカップにグレミオのスターとして来日し、ハンブルガーSVから2得点を奪って自チームの勝利に貢献すると共に、MVPを獲得したレナトに胸を焦がした日本人ファンも多いだろう。現在では考えられない禿芝の国立競技場のピッチで、セレソンにも選ばれていた背番号7のレナトは躍動した。
そのレナトが監督となり、グレミオを率いて2017年に結果を出した姿に、オールドファンは溜飲を下げた。
レナトが2021年にグレミオを去ったことが響いたのか、昨季の最終節で降格が決定。2部に落ちるのは、1991年、2004年に続き、クラブ史上3度目である。
「本当に哀しかった。でも、再建されることを信じている。僕には生まれる前からグレミオの血が流れているんだ。母方の曽祖父である1897年9月3日生まれのジュリオ・カンズが、グレミオのGKだったからね。セレソンでも20試合以上プレーしているそうだ」
そう語るのは、アンドレ・カンズ・サナ。米国で4部リーグにあたるUnited Premier Soccer League(UPSL)に属するグレミオ・サンディエゴのオーナーであり、監督も務める40歳だ。
「当然のことながら、我が家は代々、グレミオの大ファン。祖父は軍人で、父はエンジニア、母は心理学者という家庭だった。僕自身もグレミオのあるポルト・アレグレで生まれ育った。トヨタカップでグレミオが勝ったのは2歳の時だよ。
4歳でフットサルを始めて、グレミオの下部組織であるアカデミーでプレーした。17歳の頃、ブラジル国内で4部のSão José Esporte Clubeとプロ契約を結んだ。その後、2002年から2005年まではスペインの2部、Racing de Ferrolでプレーし、翌シーズンはOrillamar Sociedad Deportivaに移籍して現役生活を終えたんだ」
2007年、母国に戻ったサナは、大学(Faculdade de Tecnologia Tecbrasil)でインターナショナルビジネスを学び、卒業後に米国、カリフォルニア州サンディエゴに移り住んだ。
「英語を学びながら、アメリカ合衆国でコーチライセンスを習得した。ブラジルと違って、この国のプロリーグは入れ替え戦が無いよね。だから、仮に連戦連敗のチームでも資金力でトップリーグに居続けられる。その点に、違和感を覚えるな。また、テクニックよりもフィジカルを重視したサッカーだね。
この国の若者をもっともっと伸ばし、アメリカのサッカーが発展したらいいと考えて、グレミオ・サンディエゴを立ち上げた。もちろん、本家のグレミオとじっくり話し合ってだよ。2018年にチームを創設し、UPSLに加盟した。毎年トライアウトをして、可能性のある子と契約する。夏にはブラジルのグレミオ本部に遠征し、チャンスのある子はブラジルやスペインのチームと契約させるように働きかけている」
「今季はU23のカテゴリーも増設して18歳から22歳の若者、そしてTOPチームをを指導しながら共に闘っているけれど、日々感じているのは2つの点。まず、選手というのは、右足も左足も使えるようにしなきゃいけないってこと。そして、この年代はどこのポジションもこなせるようにしてほしい。世界は広い。どんな国でプレーしようが、監督の要求は十人十色。生き残っていくには、柔軟に複数のポジションをこなせた方がいいんだ。
グレミオのメソッドに、僕が経験したスペインのサッカーを加えて、アメリカ人選手の可能性を広げたいと思っている。22歳になってしまうと、花が咲くチャンスはかなり狭まる。伸ばせるうちに、最大限まで各々の能力を発揮させたい」
プロサッカー選手、引退後は大学に進学、そして米国に移住と、サナの人生は常に「挑戦」だ。彼がサンディエゴで、どんな仕事をやってのけるか。期待を込めて見届けたい。