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世界最強だった男 マイク・タイソンを葬った男 #2

林壮一ノンフィクションライター
2002年1月22日の記者会見で、放送禁止用語を連発したタイソン(写真:ロイター/アフロ)

 2002年6月8日に催された統一世界ヘビー級タイトルマッチ、レノックス・ルイスvs.マイク・タイソン戦をクローズアップする。「燃えない最強の男」レノックス・ルイスの足跡を辿る第2弾。

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 本来ならルイスとタイソンの対戦は、2ヵ月前に終わっている筈だった。当初は2002年4月6日に予定されていたからである。前回の試合を7回TKOで飾ったマイク・タイソンは「レノックス・ルイスとのタイトルマッチまでに、調整試合として2戦こなしたい」と話していたが、「指名挑戦権を持ちながら何故、自分との試合を優先しないのだ?」とチャンピオン側が訴訟を起こしてこれを阻止。タイソン戦で得る巨額のファイトマネーに心を動かされたのではなく、ルイスが「今のタイソンなら誰に倒されるか分からない。ネームバリューが残っているうちに、自分の手で沈める!」と判断したのは明白だった。

 だが、試合が正式発表される予定だった2002年1月22日の記者会見の席で、タイソンがルイス目掛けて突進し、割って入った統一王者のボディガードにパンチを振るったことから、大乱闘が起こってしまう。乱闘後にルイスが退席すると、タイソンはステージに上がり、股間を掴みながら放送禁止用語を連発した。女性記者に性的な言葉を浴びせ、刑務所内のセックスについて喚き散らしたのである。

 この騒動を目にしたネバダを始めとする多くの州のアスレチックコミッションは、タイソンの精神に懐疑的な視線を向けると同時に、ボクサーライセンスの発行を見合わせた。開催が危ぶまれた二人の対戦は、二転三転した挙句、ようやくテネシー州メンフィスのピラミッドアリーナで実現に漕ぎ着けた。

 乱闘中、タイソンはルイスの左太腿に噛み付いていた。チャンピオンは長めの白いトランクスで傷を隠していたが、噛まれた痛みを忘れてはいなかった。幻となる危険性のあったこのファイトの開催を、誰よりも喜んだのはルイス本人に他ならない。たとえ何本のチャンピオンベルトを巻いたとしても、タイソンを倒さずに最強の称号を得ることは叶わないのだ。それは、タイソンと同世代のルイスにとって認めざるを得ない現実であった。

 2002年6月8日、22時20分。ピラミッドアリーナにラップミュージックが流れ、まずタイソンが登場した。黒いトランクスに黒いリングシューズ。白いバスタオルの真ん中を裂き、そこから首を通したお馴染みの出で立ちだ。リングに上がると客席に向かって、小さく拳を上げた。

 1分後、音楽がレゲエに変わり、ルイスがゆっくりと花道を進む。タイソンよりも引き締まった鋭い顔付きだ。白地に金色のラインの入った、真新しい日本製、ミズノのリングシューズを履いている。

 リング上では乱闘を起こした両者を近付けないようにと12人のガードマンがニュートラルコーナーを対角線に並んで厳重な警備が施された。

 ルイスとタイソンは、その人垣を挟んで睨み合う。この試合に限り、レフェリーによる注意、及びグローブタッチは無し。統一ヘビー級タイトルマッチは殺伐とした空気のなかで始まった。

 5ラウンドまでの展開から考えて、タイソンが最終ラウンドまでもつことはあり得なかった。ノックアウトは時間の問題である。エマニュエル・スチュワードの言葉通りにルイスが連打を見せれば試合は既に終わっているに違いない。

 しかし、圧倒的に優勢でありながらも、ルイスは己を燃やし切れないまま闘っていた。やはり、彼は変われなかった。(つづく)

ノンフィクションライター

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

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