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19回オリンピックを取材した宮嶋泰子が語る「女性・スポーツ・オリンピック」

鎮目博道テレビプロデューサー・演出・ライター。
ロンドン五輪新体操会場の宮嶋泰子さん テレビ朝日・佐藤俊輔カメラマンと 本人提供

テレビマンとして、そしてジャーナリストとして筆者が尊敬するテレビ朝日の先輩がいる。1980年のモスクワ大会から平昌大会までなんと19回のオリンピックを現地取材してきたスポーツ・文化ジャーナリストの宮嶋泰子さんだ。

東京オリンピックを前に、オリンピックやスポーツが注目を集めることが多い今、宮嶋さんに「女性・スポーツ・オリンピック」についての思いを聞いた。

「海外と演劇が好き」で「コント赤信号」とは演劇仲間

Q:そもそも、宮嶋さんはどんなお子さんだったんですか?

宮嶋:とにかくお転婆でした。鉄棒ばかりやっていましたね。

中学生ぐらいの時は通訳になりたいと思っていました。海外に対する憧れとか、英語に対する憧れとかというのがありましたね。高校も外語短大付属高校というところに行って、その後、早稲田大学に行きました。

中学の時にバスの中で「通訳になりたいんだ」と言ったら、たまたま隣に居合わせたおばちゃんが、「通訳という仕事は自分の意思を伝えるわけではないので、人の考えていることを通訳するのだから、その仕事は意外と面白くないのよ」と言ったの。その時に「そうか。じゃあ通訳じゃないことをしよう」と思いました。だから、通訳と似たようなことをやりたいと。

小学校のころから壁新聞を作るのが好きだったりとか、やっぱり、何かを人に伝えていくとか、そういうことがすごくやりたいんだろうなというのはありましたよね。

Q:なるほど。海外への憧れとか思いというのは、どういうところから来たのですか?

宮嶋:私が中学生のころに叔母がスイスに行ったんですね。で、スイスで暮らすことになった。

それで、高校2年の時に私は一人でアエロフロート・ロシア航空の事務所に行って、「チケットを買うにはいくらですか?」と聞きました。で、「モスクワ経由で鉄道で行く方法と、アエロフロートで行く二つの方法があるけれども、どっちにする?」と。

一人で聞きに行ったんですよ、神谷町まで。私は鎌倉に住んでいたので、今にして思うと、「よくこんなことを高校生でやったな」と思うんですけれども。

叔母は「来れば?」と言って、「一緒にうちに寝泊まりすればいいから」と言ってくれたので行きましたんです、2カ月。

Q:2カ月はすごいですね。

宮嶋:それと小学校のころから朗読が好きだったんです。それで、私はずっと演劇の仕事もしたいと思っていて。で、テアトルエコーの養成所に入ったんです、私。そこに2年間いました。

Q:そうなんですね。

宮嶋:だから、コント赤信号は、石井ちゃんが年は一個下だけれども、期で言うと上なんですね。で、ナベとか小宮とか石井ちゃんとか、一緒に芝居していましたね。

Q:赤信号の皆さんと。

宮嶋:はい。

1980年 「ニュースファイナル」スポーツコーナー担当 本人提供
1980年 「ニュースファイナル」スポーツコーナー担当 本人提供

スポーツアナになって「ショックだった」

Q:なるほど。そんな感じで人に何かを伝えたくて、話すお仕事がしたかったという意味で言えば、テレビ朝日にアナウンサーで入ったのは、すごく夢がかなったんですね。

宮嶋:いや、夢がかなったというより、「自分は何が武器かな」と思うと、「やっぱり人に伝えることだよな」と。「読みは人よりできるよな」とか、「なんかインパクトを持ってちゃんと伝えられるよな」とかと思うじゃないですか。それで選んだという。

Q:なるほど。

宮嶋:でも、スポーツを担当することになってすごいショックでしたよ、私。「え?!」みたいな。私は、やっぱり国際比較をやりたかったんですよね。で、同期の中里雅子さんがそういう仕事をしたわけです。抜擢されて。

大体、ほら、プロデューサーが「どのアナウンサーにしようか」と決めるわけじゃない? その時に、彼女がそういうフィールドに行くと、もう他の人はもうそこには絶対入らないわけじゃないですか(笑)。

Q:変な話、「宮嶋さんと言えばスポーツ」というイメージがとても強いので、「スポーツ、やりたくなかった」というのはとても意外ですね。

宮嶋:「スポーツ」と言われたって、前任者が誰もいないから。女の人でスポーツを担当している人がいないので、まず、イメージが全くできなかったということですよね。

入社1年目で、「モスクワオリンピックがあるから、君たちはそのための勉強、そのための大会とか、そのための中継とか、いろんなものをやらなきゃいけない」となった時に、初めて担当したのが国際ジュニア体操というのだったんですよ。

で、国際ジュニア体操でハンガリーの13~14歳の男の子たちや女の子たちが練習しているところに事前に行って、で、「あなたの名前は? 年は?」から始まって、「何人きょうだいなの?」から、「いつから体操を始めたの?」とかと聞いて。「どういうふうな環境で練習しているの?」とかと聞いた時に、気づいたんですよ。

ハンガリーなんて、当時は社会主義国家じゃないですか。その社会主義国家の人々の暮らしを、話をダイレクトにこうやって聞ける。ハンガリーに行かなくても。「これは、ことによったら、私が一番やりたい仕事だったのかもしれない。世界がのぞけるぞ」と。

そこにビッタシきちゃったんですね。「あ、これは面白いかも」と思っちゃって。

Q:なるほど。

宮嶋:だから、中継もさることながら、私はものすごい取材が好きでした。だから、取材マンになっちゃったんですよね(笑)。

Q:スポーツは絶対外国の取材が多いから、実は一番当たっていたのかもしれないですよね。

宮嶋:そうなんですよ。外報の記者だって海外なんて、特派員でもない限り行かないじゃないですか。だから、そういう意味でいくと、一番海外と接点のある仕事ではあったんだろうと思います。

2007年 シンクロ絶対女王ロシアのポクロフスカヤ監督にインタビュー(モスクワにて) 本人提供
2007年 シンクロ絶対女王ロシアのポクロフスカヤ監督にインタビュー(モスクワにて) 本人提供

シンクロ取材で気づいた「スポーツの面白さ」

Q:「スポーツの面白さ」に気づくきっかけになったお仕事というのは何かあるんですか?

宮嶋:いや、全部で大きな気づきはあるんですよ。

でも、シンクロナイズドスイミングで私は出掛けることが多かったので、スペインに行った時に、日本人のコーチがそこにちょっと前から行っていたわけですよ。藤木麻祐子さんという。

で、彼女に聞くともう、『9時から練習始めるわよ』と言っても、9時には誰も来ないし、みんな、『9時に間に合うように家を出ればいいのよね。あら、もう9時』みたいな(笑)。

そういう生活なわけじゃない?

Q:はい。

宮嶋:練習も全然そろっていない。で、選手にインタビューすると、「私たちには絶対譲れないものがあって、そういうところはどうでもいいのよ」と言うわけ。彼らの譲れないところというのは、ものすごいクリエイティビティーみたいな、そういうところなわけですね。

そういうふうに、国が違えば考える考え方が違って、それがスポーツに表れてくるというのがものすごい面白いと思ったわけですよ。

Q:なるほど。

宮嶋:そう。だからオリンピックの見方も、そうやって見ると…この調子だとオリンピックはできないんだろうなと思うけれども、ただ比較するんじゃなくて、「この国にはこういう考え方で、これをプライオリティーを持ってやって、優先順位はこれを最初にしてやっている」という。それは同じ土俵の上で戦うわけだから、そこが面白いと思うわけですよね。

Q:なるほど。文化対文化の戦いになっているということですかね。

宮嶋:うん。文化と、あと身体ね。その国が持っている人たちね。今はもうみんな国境を超えちゃっているから、「誰がどこの国」というのはそんなになくなっているかもしれないけれども、その人種、文化的な考え方と、あとそれから彼らが持っている身体。そういうものがあってその選手が出てきているというのを理解すると非常に面白いという、そういうことですよね。

Q:宮嶋さんはいろいろなスポーツの取材をなさっていますけれども、結局常にマイノリティーの側にいる人のことをずっと描いてこられたのでは、と思うのですが。

宮嶋:そうかもしれないですね。まとめると、そういう形になりますね、きっと。

Q:障害者スポーツ、そして難民とスポーツ。そしてずっと女性の視点に立ち続けてこられましたよね。

宮嶋:そうですね。というか、結局、自分の立ち位置で考えると、テレビ局でスポーツ番組を作る人は、10人スタッフがいたら、9人は男性のディレクターなわけじゃないですか。

そう考えると、自分がやるべきことというか、自分がやりやすかったのはそういうことなんです。

「これは、女の人たちというのは、ひょっとしたら男性スタッフにとって扱いにくいネタなんだろうな」というのに気がつきました。やっぱり、グイッと飛び込めないわけですし。それこそ変な話、「このお尻をつくるのに」なんて絶対に聞けないわけだし(笑)。

Q:そうですよね。

宮嶋:そういう意味で言うと、やっぱり私は女性のアスリートというのにアプローチしていくというのは自然と多くなりましたよね。それほど意識したわけではないんですけれどもね。

2006年 トリノ五輪開会式実況 本人提供
2006年 トリノ五輪開会式実況 本人提供

「体育会系スポーツ」はもうやめたほうがいい

Q:宮嶋さんは「体育会系ではないスポーツ」ということをおっしゃってますよね?

宮嶋:はい。「体育会系」というのは、実は、そもそも日本のスポーツの成り立ちからなんですけれども、明治5年に学制が発布されて、この学制の中に体育というものは取り込まれるわけですよね。

しかしながら、やはり時期が時期だっただけに、第一次世界大戦、第二次世界大戦という日本が軍事国家になっていくというその過程で、体育というのが富国強兵の道具に使われていくわけですよ。

ですから、昔の体育の授業を見るとすごい笑っちゃうのは、みんな一斉に鉄棒で全員が足を上げて…30人ぐらいがガーッと足を上げて、「どうしたらこんな格好になるの?」と。そこにはどこにも自由がなかったりとか、体を動かす楽しさみたいなものもないし。

要するに、体育会系というのは、どっぷり浸かっている人は、「なんで体育会系を否定するのか?」と言うかもしれないけれども、成り立ちというものを考えると、元々、軍隊的なトレーニングに使われてきた形のもので、パワー優位というか、それが男尊女卑にもつながってくるだろうし、それから他を排除する、グループ以外の人たちを排除するとか、上意下達とか、そういうものというのがやはり色濃く残るわけですよ、どうしたって。

そういうのを、「もうやめたほうがいいんじゃない?」という。

「やっぱり、日本にはその残滓が体育会系という中にあるんじゃないの?」と。だから、日本でスポーツの中に暴力がいつまでもなくならない。バレーボールもそうだし、バスケもそれで自殺しちゃった人たちもいるし。もう本当に、私は柔道でコンプライアンス委員をやっているんですけれども、本当、「なんなの、これは?」というくらいひどいわけですよ。どこでも。

で、じゃあ暴力がないからいいかと思うと、今度はセクハラが出てきたりとか。

そうじゃないと盗撮というのが出てくるわけ。これはもう、スポーツをする人に対するリスペクトとか、スポーツをすることがどれだけ人間の解放につながったりとか、表現として素晴らしいかとか、そういう認識を持たない人たちが、ただエロスの対象としてやるわけじゃない?

Q:はい。

宮嶋:そういう意味で言ったら、その盗撮というのは、やっぱりスポーツに対するリスペクトは全くないなと思うわけね。

現状としては今、こういうものがあるわけですよ。洋の東西を問わずあるけれども、日本では特に暴力がひどいのは体育会系というものの残滓かなと。

Q:非常に分かります。

後編へつづく

本人提供
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宮嶋泰子 スポーツ・文化ジャーナリスト

テレビ朝日にアナウンサーとして入社後、スポーツキャスターとして仕事をする傍ら、スポーツ中継の実況やリポート、さらにはニュースステーションや報道ステーションのスポーツディレクター兼リポーターとして自ら企画を制作し続けてきた。

1980年のモスクワ大会から平昌大会までオリンピックの現地取材は19回に上る。

43年間にわたってスポーツを見つめる目は一貫して、勝敗のみにとらわれることなく、スポーツ社会学の視点をベースとしたスポーツの意味や価値を考え続けるものであった。

2016年には日本オリンピック委員会から「女性スポーツ賞」を受賞。

1976年モントリオールオリンピック女子バレーボール金メダリストと共にNPOバレーボール・モントリオール会理事として、日本に定住する難民を対象としたスポーツイベントを10年以上にわたり開催、さらには女性スポーツの勉強会を定期的に行い、2018年度内閣府男女共同参画特別賞を受賞。

社外の仕事として文部科学省青少年教育審議会スポーツ青少年分科会委員や日本体育協会総合型地域スポーツクラブ育成委員会委員、日本オリンピック委員会広報部会副部会長他、多くの役職を務める。

2020年1月末日にテレビ朝日を退社、一般社団法人カルティベータ代表となる。

スポーツ・文化ジャーナリストとして番組やオウンドメディア・カルティベータで情報を発信中。

テレビプロデューサー・演出・ライター。

92年テレビ朝日入社。社会部記者として阪神大震災やオウム真理教を取材した後、スーパーJチャンネル、スーパーモーニング、報道ステーションなどのディレクターを経てプロデューサーに。中国・朝鮮半島やアメリカ同時多発テロなどを取材。またABEMAのサービス立ち上げに参画。「AbemaPrime」「Wの悲喜劇」などの番組を企画・プロデュース。2019年8月に独立し、テレビ・動画制作のみならず、多メディアで活動。公共コミュニケーション学会会員として地域メディアについて学び、顔ハメパネルをライフワークとして研究。近著に『腐ったテレビに誰がした? 「中の人」による検証と考察』(光文社)

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