「私が最後の世代」地獄の経験、いかに伝えるか―広島原爆被害者から次世代の人々へ
原爆投下から今日で73年。被爆者の高齢化にともない、自らの被爆経験を語れる人々は、いよいよ少なくなっている。被爆者の方の体験や、いかに原爆被害を次世代に伝えていくかの取り組みについて聞いた。
〇被爆者が見た、この世の地獄
元広島平和資料館館長で、自身も6歳の時に被爆した原田浩さん(78)は、「反核のメッセージに力を持たせるには、市民の心に被爆体験をとどめないといけない」と訴える。73年目の広島原爆投下の瞬間、原田さんは疎開のため、広島駅にいた。
「頑丈なつくりの駅の中にいたため、原爆の強烈な熱線や爆風の直撃をさけることができました。奇跡的に崩れた屋根や瓦礫の隙間に私がいたこと、父親が背中に大けがを負いながらも私をかばってくれたことで、私自身にはケガはありませんでした。何とか、瓦礫の中から這い出ると、快晴の朝だったのに、空が薄暗かった。爆風で巻き上げられたホコリやチリが日の光を遮っていたんですね。見渡す限り、駅の建物以外、全ての建物が原型をとどめていませんでした」(原田さん)
「やがて、周囲は火災で炎に包まれました。私と父は必死に逃げたのですが、文字通り、足の踏み場もなく横たわる無数のご遺体を踏みつけて逃げなくてはいけなかったのが、つらかったです。足を踏み出す度に、ご遺体の皮膚が焼けて露出した内臓に足が埋まりました。中には、まだ生きていてうめき声を上げている方もいた。本当に地獄絵図でした」(同)
〇被爆遺構を巡るピースツーリズム
原爆の被害を自身の経験として語れる被爆者は年々減っている。原田さんは「恐らく私が最後の世代でしょう」と言う。そんな中、次世代に原爆の恐ろしさをどう伝えていくか。2017年から広島市が準備を進めているのが、「ピースツーリズム」だ。同市に点在する原爆関連遺構・施設を巡るというもので、ピースツーリズムの懇談会の座長には、原田さんが就任した。現在、市内53ヵ所がピースツーリズムでめぐるルートの候補となっており、今年の秋にルートを決定し、スマートフォンに対応した特設のウェブサイトもつくる予定だという。市内の原爆関連遺構・施設の中でも、特に原田さんの思い入れが強いのが、原爆供養塔だという。
「広島への原爆投下で死亡した約14万人のうち、一家が全滅したなどで、引き取り手のいない7万人の遺骨が今もここに埋まっています。(元米国大統領の)オバマさんが広島を訪れた時、この供養塔に来てもらいたかった」
〇平和公園の地下に街の跡、2020年に公開
平和公園の地下の発掘作業も行われている。平和記念資料館の耐震工事の過程で、原爆投下で壊滅した町並み跡が地下に残されていることが判明。原爆投下当時、現在の平和公園のある場所には原爆により、原田さんや市民の要望もあり、これらの遺構を発掘し、展示できるようにすることとなった。
「平和記念公園は、元は公園ではなく、人が住んでいた街だったのです。民家や商店、寺院が建ち並んでいて、約4400人が住んでいました。原爆で、これらの家々や建物は破壊され、瓦礫の上に土を盛り、公園とされたのです。広島市は、これらの被爆遺構を発掘・保存することなり、被爆75年となる2020年の公開を目指しています」(原田さん)
〇被爆者の体験を高校生が絵に
若い世代との共同での取り組みも行われている。
「この10年くらい、被爆体験を私達、原爆被害者達が語り、市立基町高校の生徒がそれを絵に残すという活動も行われています。なぜ、絵を描いてもらっているかというと、原爆投下直後の写真がほとんどないからです。当時、中国新聞の記者の方が写真を撮られていたのですけども、あまりに悲惨すぎて、被爆者の方達に正面からカメラを向けることができなかった、そう話されていました。だから、原爆投下直後、私達が何を見たのかを絵として残してもらっている。生徒さん達にとっても大変な作業ですが、何度も話し合って、修正していきながら、絵を描いてもらっています」(原田さん)
*作品の一部は、広島平和記念資料館のウェブサイトから見ることができる。どの作品も大変な力作だ。
http://hpmmuseum.jp/modules/xelfinder/index.php/view/396/MotomachiABombDrawing.pdf
〇原爆被害を語り継いでいくことの重要さ
昨年7月、核兵器禁止条約が国連で採択されたものの、核保有国は核廃絶に取り組んでいるとは言えず、核兵器禁止条約の批准国が増えることをけん制する動きすらある。だからこそ、広島の原爆被害を国内外に発信していくことは重要なことだ。「私達の思いというのは、(原爆を投下した米国を)憎いとかを超えて、こんな悲惨なことは二度と起こしてはいけない、というものです。そうした思いをしっかり発信していくことが大切です」(原田さん)。原爆被害を未来に伝える広島の取り組みはこれからも続く。
(了)