【コラム】紛争地で人としての心を保つことの難しさ―安保法制で自衛官が直面するリスク
安保法制についての議論は、現場の視点が欠けていると常々思うのだが、実際に、紛争地に自衛隊が送られた時のリスクとして、自衛隊員が現地一般市民を殺害したり、虐待したりすることもあり得る。戦争は人を狂わせる。その人がたとえ「善人」であったとしても、戦場において「善人」であり続けるのは、けっして容易なことではないのだ。
よく講演とかで、「(イラク戦争とかで)なんで米兵達はそんなに酷いことができるんですか?」と聞かれることがある。無抵抗の一般市民を子どももろとも銃殺したり、不当拘束した人々に電気ショックを加えたり、性的虐待を行う等、米軍兵士らがイラク等で行ってきた戦争犯罪は決して許されるものではない(関連記事)。だが、何で米兵らが時には人とは思えない所業をするのか、筆者もなんとなくわからないでもない。
そうしたことを肌身で感じたのは、イラク戦争で、米軍の市街地での掃討作戦を取材した時のことだ。米兵達と行動するということは、文字通り「標的」と一緒にいるということ。どこから弾丸やら爆弾やらが飛んでくるかわからない。普通の人々の視線が、敵意のあるものに見え、ちょっとした挙動に過剰に反応しかねない。わずか数時間のことだが、取材後、どっと疲れたのを覚えている。
2004年5月から7月にかけてのイラク取材は、日本人人質事件発生後の取材であり、志葉も誘拐や襲撃を最大限警戒していた。事実、一緒のホテルにいたジャーナリストの小川功太郎さんは叔父でベテランジャーナリストの橋田信介さんと共に、イラク中部マハムディアで襲撃を受け、殺されてしまった。「最近、治安やばいからお互い気を付けましょう」と話して、わずか3日後のことだった。
誘拐や襲撃を警戒して、筆者は神経を極限まで研ぎ澄ませていた。すごく遠くの人間の不信な挙動にすぐ気が付くようになったり、視界の外のことも気配を察したりと、第6感的なレベルまでに至るまで気を張りつめていた。そのためか、何とか生き延びたが、これをずっとやっているのは、すごく疲れる。精神的なものがガリガリ削れていくのを実感していた。帰国してから「半年くらい休みたい」と本当に思った。たぶん、あれをずっと続けたら、人として壊れるだろう。
思うに、ジャーナリストである筆者ですら、上記のような有様だったのだから、実際に戦闘行為を行っていた米兵達の精神的な摩耗はすさまじかったのだろう。無論、軍隊の本質は人を殺すことであり、特に対テロ戦争では、イラク人たちを人と思わないような軍隊教育がなされていたことも大きい。だが、それに加え、日常的に恐怖と緊張を味わい続けているうちに、同じ部隊の兵士らが目前で死んでいくのを見続けるうちに、何かのはずみで凶暴性が爆発するのも、ありえることなのだろうな、と感じる。戦争とは、人を狂わせるものだ。最初から凶暴な人物でなくても、非人道的なことを行えという軍隊教育と命令に加え、極度の恐怖と緊張が長期間続くことが、普通の人間をモンスターに変えるのだろう。筆者のインタビューに応じた、あるイラク帰還米兵は「本当に狂っていた」とふりかえる。「上官が兵士らに『このイラク人捕虜をナイフで殺せたら、ビール券をやるぞ』と言ったり、パトロールから戻った米軍のトラックの荷台いっぱいにイラク人の死体が積まれ、荷台にいた米兵が少年の生首を掲げて『奴らをぶっ殺してやったぜ!』と叫んだり…米兵達はもはや、モンスターでした」。
本稿を読まれている方々には、「自衛隊イラク派遣の時には、そんなことはなかったではないか」「米兵と自衛官は違う」と反論される方もいるかもしれない。だが、自衛隊イラク派遣で陸自が駐留していたのは、イラクの中でも最も治安が安定しているほうであったサマワだ。自衛隊の内部文書「イラク復興支援活動行動史」でも自衛官が現地の人々と殺し殺される状況にならなかった理由として「適切な活動地域と任務の選定」と強調されている。また、陸自の活動が「復興支援」に特化され、治安維持活動や米軍等の支援を行わなかったということも安全確保上、重要だったと記されている。つまり、もし陸自が派遣されたのが、バグダッドやファルージャ、ラマディなどの激戦地で、かつ米軍のサポートなどをしていれば、まったく違う結果になっていただろう、ということだ。
安保法制は、イラク自衛隊派遣の縛りであった、「非戦闘地域」を取り払い、本当の戦場へと自衛隊員を送るのだという。もしそうなれば、自衛隊員たちが殺されるだけではなく、イラクでの米兵達のような凶行に走らないという保障はどこにもないのだ。